第五十四話 銃後からみた国家総動員
一 戦場から遠いはずの家
昭和十五年(1940)。わしは七十六歳になっていた。
三月には母の志帆が九十七歳を迎え、四月には神楽坂両家の家族を集め、上野で大きな花見を催した。
あのとき撮影した集合写真は、今も本家の座敷に飾られている。
母、兄の寛之助、妻の愛海、四人の子どもたち、十五人の孫たち。そして、初めてのひ孫である弘一。
江戸時代に生まれた母から、昭和十四年生まれの赤ん坊まで、五つの世代が笑顔を浮かべていた。
わしはその写真を見るたび、長く生きたことへの喜びを感じていた。
しかし、外の世界では、穏やかとは言い難い日々が続いていた。
日中戦争は三年目に入り、ヨーロッパでは前年から第二次世界大戦が続いている。
かつて陸軍中将だったわしにとって、戦争は決して遠い出来事ではない。それでも、軍人会を引退した今、自分の家は戦場とは別の場所にあると思いたかった。
だが、その考えは甘かった。
ある朝、愛海が買い物から戻るなり、困った顔をした。
「あなた、また品物の買い方が変わりそうですわ」
「ほう。今度は何じゃ?」
「お砂糖やマッチを買うにも、決められた切符が必要になるそうですの」
わしは新聞から顔を上げた。
「砂糖やマッチにまでか」
「ええ。お店の方も、いろいろ準備が大変だとおっしゃっていました」
軍人だった頃、わしは兵站の重要性を何度も説いてきた。
食糧がなければ兵は戦えず、物資がなければ武器も作れない。
しかし、今やその兵站が、東京の一家庭の台所にまで及んでいる。
「戦場は中国にあるというのに、戦争はもうこの家の中まで来ておるのじゃな」
わしが呟くと、愛海は静かに頷いた。
「本当に、そうかもしれませんね」
二 国民精神総動員
思い返せば、こうした変化は急に始まったわけではなかった。
昭和十二年(1937)秋。
日中戦争が拡大する中、国民精神総動員運動が始まった。
政府は、国民に戦争への協力を呼びかけ、節約、貯蓄、勤労などを奨励した。
街には標語が掲げられ、学校や職場でも、国家への奉仕が以前にも増して語られるようになった。
当初、わしはそれを戦時下の国民運動として見ていた。
戦争が始まれば、政府が国民に協力を求めるのは珍しいことではない。
しかし、運動が続くにつれ、気になることが増えていった。
人々が自分の意思で節約することと、周囲の目を恐れて節約せざるを得なくなることは違う。
ある日の夕食で、節子が言った。
「父上、学校でも子どもたちに節約を教える機会が増えたわ」
「そうか」
「物を大切にするのは良いことよ。でも、子どもが新しい鉛筆を持ってきただけで、贅沢だと言われることもあるの」
わしは眉をひそめた。
「それは少し行き過ぎじゃな」
節子は頷いた。
「私もそう思うわ。必要な物まで我慢させるのは、教育とは違うでしょう?」
光蔵も口を開いた。
「僕の工場でも、節約や増産の話が増えたよ。仕事のために工夫するのは当然だけど、何でも気合いだけで解決できるわけじゃないからね」
「その通りじゃ」
わしは答えた。
「物資も、人の体力も、無限ではない。精神を奮い立たせるだけで不足が埋まるなら、軍隊は補給に苦労せぬ」
修蔵は深く頷いた。
「鉄道も同じだよ、父上。どれだけ働けと言われても、機関車には整備が必要だし、乗務員には休みが必要なんだ」
その言葉を聞きながら、わしは思った。
国民の協力を求める声が大きくなる一方で、一人一人の暮らしがどれほど重くなっているのか。
そのことは、十分に考えられているのだろうか。
三 国家総動員法の意味
昭和十三年(1938)四月。国家総動員法が公布された。
戦争の遂行に必要な人員や物資を、政府が広く統制できるようにする法律である。
法律ができた時点では、一般の家庭にはまだ分かりにくいところもあった。
その後、法律に基づく命令が次々と出されるにつれ、その意味がはっきりしてきた。
「父上、法律というものは、これほど暮らしを変えるものなのか」
修蔵が尋ねた。
「そうじゃ。法律そのものだけでなく、それに基づいて出される命令が重要なのじゃ」
「なるほどな」
「政府が必要と判断すれば、人の働き方も、物の売り買いも、広く統制されることになる」
光蔵が静かに言った。
「僕らの工場も、国の方針に合わせて仕事を変えなければならないことが増えてきたよ」
「そうじゃろうな」
国家総動員とは、文字通り国家の力を広く動員することである。
兵士だけではない。
鉄道員も、工場の職工も、商人も、農民も、教員も、家庭を守る者も。
皆が、戦争を支える仕組みの中に組み込まれていく。
「これまでわしは、軍を国家の中に置いて考えておった。じゃが今は、国家全体が軍を支えるための仕組みに変わりつつあるように見える」
わし自身、その違いの大きさを感じていた。
四 国民徴用令と働く者たち
昭和十四年(1939)七月。国民徴用令が公布された。
国家総動員法に基づき、必要とされる労働力を確保するため、一定の条件の下で人々を指定された仕事に従事させる制度である。
当初から全国民が一斉に徴用されたわけではない。
しかし、その制度ができたことで、働く人々の間には新しい緊張が生まれた。
光蔵の工場でも、この話題が出るようになった。
「父上、今までは自分の意思で工場に勤めていた人が、これからは国の命令で仕事を割り当てられることもあるんだね」
「うむ」
「必要な仕事を支えるためだという理屈は分かるけど、家族のいる人は心配だろうな」
わしは頷いた。
「仕事を命じる側には、その人の生活を考える責任がある」
「そうだね」
光蔵は穏やかな顔を曇らせた。
「工場には、体の弱い人もいれば、小さな子どもを育てている人もいるよ。皆が同じように働けるわけじゃないから」
光蔵は若い頃から機械が好きだった。
物を作り、人の暮らしを便利にすることに喜びを感じていた。
しかし、今では工場の仕事も軍需と深く結びつくようになっている。
「光蔵、お前は働く者の顔を忘れるな」
「うん、父上」
「人は数字ではない。生産量の後ろには、必ず誰かの生活がある」
光蔵は静かに頷いた。
五 値段を決められる暮らし
同じ昭和十四年(1939)の秋。価格等統制令が出された。
物価の上昇を抑えるため、商品や運賃などの価格を、原則として一定の基準で統制する制度である。
日中戦争の長期化によって、物資の需給は厳しくなっていた。
政府は値上がりを抑えようとしたが、品物そのものが不足すれば、値段を決めるだけでは問題は解決しない。
そのことを、愛海は買い物のたびに感じていた。
「あなた、昔よりも品物を探すのが大変になりました」
「そうか」
「値段が決まっていても、店に欲しい物がないことがあるのです」
「品がなければ、値を決めても買えぬからのう」
愛海は家計を記した帳面を開いた。
「それでも、皆で工夫して暮らしていかなくてはいけませんね」
愛海は六十歳を機に商いから退いたが、長年の経験から、物の値段や流通には詳しかった。
「店の人たちも苦労しているでしょうね」
「うむ」
「仕入れが難しくなれば、お客さんに品物を届けることもできませんもの」
愛海は、単に自分の家の品物が足りないことだけを心配しているのではなかった。
売る者にも、買う者にも、それぞれの生活があることを知っているのだ。
「お前が商いを続けていたら、今頃は随分と苦労しておったじゃろうな」
わしが言うと、愛海は微笑んだ。
「そうでしょうね。でも、今は家庭を守る仕事がありますから」
そして、帳面を閉じた。
「こちらも、なかなか忙しいのですよ」
わしは笑った。
「ははは。そうじゃったな」
六 七・七禁令と贅沢の線引き
昭和十五年(1940)七月七日。日中戦争が始まってから、ちょうど三年となる日。奢侈品等製造販売制限規則、いわゆる七・七禁令が施行された。
装飾品や高級な衣料品など、贅沢品とされた品物の製造や販売が制限されたのである。
街では「ぜいたくは敵だ」という言葉が目立つようになった。
わしはその標語を見て、考え込んだ。
「贅沢とは、何じゃろうな」
その日の午後、春子が訪ねてきた。
「お父様、何かお考えですの?」
「うむ。最近、贅沢を禁ずる話が増えたからのう」
春子は静かに頷いた。
「私も、少し気になっておりますわ」
春子は三十八歳になっていた。
公衆衛生看護に携わる看護婦として、家庭訪問を続けている。
その一方で、艶やかな黒髪を長く伸ばし、身だしなみを大切にすることも忘れていなかった。
「お父様、私は仕事では清潔さと動きやすさを第一にしておりますけれど、それでも綺麗なものを好きでいることまで悪いことなのでしょうか」
わしは首を横に振った。
「そんなことはない」
「そうですわよね」
「節約が必要なことと、美しいものを好む気持ちを否定することは別じゃ」
春子は少し安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます、お父様」
「ただし、春子。世間には、服装だけで人を判断する者もおる。今まで以上に気をつけた方がよいかもしれぬ」
春子は頷いた。
「ええ。外では目立たぬように気をつけておりますわ」
わしは娘の黒髪を見つめた。
幼い頃から大切に伸ばしてきた髪である。
世の中の価値観が変わったからといって、本人の意思に反して切らせるようなことがあってはならぬ。
「お前の髪は、お前のものじゃ。どうするかは、お前が決めればよい」
わしが言うと、春子は嬉しそうに微笑んだ。
「はい、お父様」
そのとき、六歳の葵生が庭から駆け込んできた。
「お母様!ちょうちょさんがいましたわ!」
「まあ、葵生。どんな蝶でしたの?」
「きいろくて、ひらひらしていましたの!」
わしは笑った。
国がどれほど厳しい時代へ向かおうとも、この子の純粋な喜びだけは失われてほしくなかった。
七 切符がなければ買えぬ
昭和十五年(1940)の夏から秋にかけて、砂糖やマッチの切符制が広がっていった。
東京などの大都市で試行された後、十一月には全国的な制度となる。
決められた切符を持っていなければ、指定された品物を購入できない。
愛海は家族の人数を確認し、買い物の手順を考えるようになった。
「あなた、切符をなくしたら大変ですから、置く場所を決めておきましょう」
「そうじゃな」
「砂糖も、大切に使わなくてはいけませんね」
わしは頷いた。
「母上のお茶に使う分も考えねばならぬな」
愛海は微笑んだ。
「ええ。でも、お母様は『私の分など気にしなくてよい』とおっしゃるでしょうね」
「ははは。確かに」
この頃、配給や切符制は品目によって導入状況が異なっていた。
今まで金を払えば買えた物が、切符なしには買えなくなるという変化は大きかった。
修蔵が言った。
「父上、昔は切符といえば鉄道の切符だったのにな」
「そうじゃな」
「今は砂糖を買うにも切符か」
「時代とは、不思議なものじゃ」
修蔵は続けた。
「俺は鉄道の切符なら慣れているけど、生活の切符にはなかなか慣れないよ」
その言葉に、わしは少し笑った。
笑いながらも、胸の奥には不安が残っていた。
これから先、切符が必要な品物は増えるのだろうか。
切符さえあれば必ず品物が手に入る時代は、いつまで続くのだろうか。
八 隣組を作る
昭和十五年(1940)九月。
内務省の方針により、町内会や部落会の下に隣組を整える動きが進んだ。
近隣の世帯が集まり、行政からの連絡を伝え、物資の配給や防空、相互扶助などに協力する仕組みである。
わしらの暮らす地域でも、隣組が組織されることになった。
わしの本家と四人の子どもたちの家、そして兄の寛之助の子どもたちの家は、いずれも同じ町内の近い場所にあった。
そこへ近隣の二世帯が加わり、十三世帯の隣組ができた。
本家の神楽坂家。
修蔵の家。
節子の家。
光蔵の家。
春子の家。
寛之助の本家と子ども五人の家。
そして、近所で小さな商店を営む田中家と、職人一家の佐々木家である。
最初の集まりは、わしの本家で開くことになった。
「皆さん、ようこそ」
愛海が出迎えた。
田中家の主人が頭を下げた。
「神楽坂さん、いつもお世話になっております」
「こちらこそ」
佐々木家の主人も挨拶した。
「これからは、隣組としてよろしくお願いします」
わしは頷いた。
「こちらこそ、よろしく頼みます」
修蔵が人数を確認した。
節子は帳面を開いた。
「連絡事項は、皆が分かるように記録しておきましょう」
光蔵が言った。
「仕事で家を空ける人もいるから、無理のない伝え方を考えたいね」
春子も頷いた。
「ご高齢の方やお身体の弱い方には、特に配慮が必要ですわ」
兄の寛之助が笑った。
「さすが、皆それぞれ得意分野が違うのう」
わしも頷いた。
「うむ。この顔ぶれなら、助け合うことはできそうじゃ」
しかし、わしは同時に考えていた。
近所で助け合うことは大切である。
だが、助け合いの仕組みが、互いの暮らしを監視する仕組みになってはならぬ。
九 隣組の長老たち
隣組の集まりでは、わしら兄弟が年長者として注目された。
わしは七十六歳。
兄の寛之助は七十八歳。
そして、母の志帆は九十七歳である。
「神楽坂さんのお母様は、まだお元気ですか?」
田中家の主人が尋ねた。
「うむ。歩く速さは随分と遅くなったが、言葉ははっきりしておる」
わしが答えると、佐々木家の主人が感心した。
「九十七歳とは、本当にご長寿ですねえ」
そのとき、奥から母が姿を見せた。
「皆さん、いらっしゃい」
「まあ、志帆さん!」
母はゆっくりと歩いてきた。
「母上、こちらへお座りください」
「ありがとう、蔵之助」
田中家の主人が言った。
「志帆さんは、江戸時代からこちらにお住まいなのですか?」
「ええ。世の中が随分と変わりましたよ」
母は静かに答えた。
「昔にも、近所で助け合う仕組みはありました。でも、今とは少し違いましたね」
江戸時代には、五人組など、町や村の住民同士が連帯して責任を負う仕組みがあった。
しかし、それは助け合いだけでなく、互いを監督する面も持っていた。
「母上、昔の五人組を思い出されますか」
母は頷いた。
「そうですね。でも、同じ近所の人なのですから、まずは困ったときに助け合いたいものですよ」
わしも同じ気持ちだった。
「この隣組では、誰かを責めるより、まず助けることを大切にしたいものじゃ」
兄が頷いた。
「うむ。わしも賛成じゃ」
しかし、隣組には行政からの指示を伝え、生活上の統制を徹底する役割もあった。
わしらの願う助け合いと、国が求める動員。
その二つが、必ずしも同じ方向を向くとは限らなかった。
十 四つの家庭と銃後の仕事
隣組ができたことで、わしは四人の子どもたちの仕事を、今まで以上に身近に感じるようになった。
修蔵は五十一歳。
鉄道員として長く働き、今では若い職員を指導する立場にもなっている。
軍用輸送が増える中、鉄道の仕事は忙しくなる一方だった。
「父上、最近は仕事の調整が本当に大変だよ」
「そうか」
「人も物も運ばなければならない。でも、線路も車両も無限にあるわけじゃないからね」
わしは頷いた。
節子は四十七歳。
小学校教員として、子どもたちに勉強を教え続けていた。
「学校でも、国に尽くすことを教える機会が増えたわ」
節子は静かに言った。
「でも、私は子どもたちに、自分で考える力も持ってほしいの」
「それがよい」
わしは答えた。
光蔵は四十三歳。
工場では軍需に関係する仕事が増え、経営や働き方にも統制の影響が及んでいた。
「僕は機械を作る仕事が好きなんだ。だからこそ、それを何のために使うかは考えていたいよ」
光蔵の声には、いつもの穏やかさとともに、複雑な思いが滲んでいた。
そして、春子は三十八歳。
看護婦として家庭を訪ね、病人や母子の健康を守る仕事を続けていた。
「お父様、栄養のことが心配なご家庭も増えてきましたの」
「そうか」
「食べ物を節約することは大切ですけれど、育ち盛りの子どもまで必要な栄養を我慢しては、身体を壊してしまいますわ」
わしは深く頷いた。
四人とも、まったく違う仕事をしている。
それなのに、今では全員が戦争の影響を受けていた。
銃後とは、単に兵士を送り出した後の家ではない。
鉄道を走らせ、物を作り、子どもを教え、病人を看護し、家庭の食事を整える場所も、すべて銃後なのだった。
十一 国民服の時代
昭和十五年になると、男性の服装にも変化が見られるようになった。
国民服と呼ばれる、実用的で規格化された服装が推奨されるようになったのである。
軍服に似た印象を与えるものもあったが、民間人の衣服として普及を図るものだった。
ある日、修蔵が国民服について話していた。
「父上、今度は服装まで変わっていきそうだな」
「うむ」
「俺たちの仕事では、動きやすさも大事だからね」
光蔵も言った。
「僕の工場でも、実用性を重視する話が出ているよ」
わしは二人を見つめた。
「衣服を使いやすくすること自体は悪いことではない」
修蔵が頷いた。
「そうだな」
「じゃが、皆が同じ服装をしておればよい、という考え方には気をつけねばならぬ」
節子が尋ねた。
「父上、それはどういう意味?」
「服装が違うからといって、その人が国を思っておらぬとは限らぬ。見た目で心まで決めつけてはならぬということじゃ」
春子は微笑んだ。
「私もそう思いますわ」
そのとき、葵生が春子の袖を引いた。
「お母様、あおいのお洋服も、みんなと同じになるんですの?」
春子は優しく答えた。
「今すぐ全部同じになるわけではありませんわ。葵生には、動きやすくて清潔なお洋服を着てもらいましょうね」
「はいですわ!」
わしは微笑んだ。
服装まで国家の方針と結びつく時代。
そんな時代の変化を、六歳の孫まで感じ始めていることが、少し寂しかった。
十二 大政翼賛会の成立
昭和十五年(1940)十月十二日。大政翼賛会が発足した。
同年七月に成立した第二次近衛文麿内閣の下で進められた、新体制運動の中心となる組織である。
それまで政党が担ってきた政治の仕組みを大きく変え、国民を広く国策協力へ組織することが目指された。
中央には組織が置かれ、地方にも支部や協力会議を設ける構想が進められていた。
わしは新聞を読みながら、眉をひそめた。
「大政翼賛…か」
兄の寛之助が訪ねてきたとき、わしはその話を持ち出した。
「兄上、この新しい組織をどう思われるか」
兄は少し考えた。
「戦時に国民の協力を求めること自体は、理解できぬこともない。じゃが、国民の考えを一つにまとめようとするほど、異なる意見は言いにくくなるじゃろうな」
わしは頷いた。
わしらは明治の自由民権運動を知っていた。
帝国議会が開かれるまでの道のりも見てきた。
政党政治が発展し、やがて軍部の影響が強まる過程も見てきた。
「兄上、かつて父上は、政治に異を唱える者が取り締まられる時代を見ておられた」
「うむ。覚えておる」
「わしらは、長い年月をかけて国民の政治参加が広がるのを見てきた。それが今、また違う方向へ進んでおるように思えるのです」
兄は静かに答えた。
「時代は、必ずしも前にだけ進むものではないのかもしれぬな」
父の権兵衛が存命なら、何と言っただろうか。
祖父の金右衛門なら、この時代の政治をどう見ただろうか。
ただ、わし自身は、国民が一つの声しか持てなくなる社会に不安を感じていた。
十三 隣組の会合と子どもたち
秋が深まる頃、わしらの隣組でも定期的な会合が開かれるようになった。
配給の連絡。
防火や防空の注意。
節約や貯蓄の呼びかけ。
町内会から伝えられる事項は、少しずつ増えていた。
ある日の集まりでは、幸丞が幼い孫たちを見守っていた。
幸丞は十五歳。
中学校で学びながら、医師になる夢を持ち続けていた。
「こら、紙を勝手に持っていくなよ。それは大事な連絡の紙なんだから」
小さな子どもが、書類を折って遊ぼうとしていた。
「だって、紙ひこうきを作りたい!」
幸丞は落ち着いて答えた。
「それなら、使わなくなった紙を探してやるよ。これは駄目だ」
奈恵が近づいてきた。
「幸丞、ありがとう。助かるわ」
「うん。奈恵姉さん」
かつて孫たちのまとめ役だった奈恵も、今では二十三歳の小学校教員である。
幸丞が自然に年少者を注意する姿を見て、わしは微笑んだ。
「幸丞も立派になったのう」
「そうかな、お祖父様」
「うむ。昔は奈恵に注意される側じゃったのに」
幸丞は少し照れた。
「もう十五歳だからね」
その横では、葵生が小さな虫を見つけていた。
「おじいさま!こちらに、ありがいますわ!」
「おお、蟻か」
「お砂糖を食べるんですの?」
わしは少し笑った。
「食べることもあるぞ」
「では、あおいのお砂糖も?」
「ははは。今は砂糖も大切じゃから、蟻に全部やってしまっては困るのう」
葵生は少し考えた。
「じゃあ、ありさんにも、ごはんがあるといいですわね」
わしはその言葉に微笑んだ。
大人たちは配給や統制について話し合っている。
一方、子どもたちは、目の前の小さな生き物の暮らしを心配している。
こうした優しさを持つ子どもたちが、安心して育つ時代であってほしい。
十四 紀元二千六百年
昭和十五年(1940)十一月。
日本では、紀元二千六百年を記念する行事が盛大に行われた。
『日本書紀』に記された神武天皇の即位を起点とする皇紀で、二千六百年に当たるとされた年である。
十一月十日には、宮城前広場で政府主催の記念式典が開かれた。
各地でも奉祝の行事が催され、新聞やラジオは祝賀の様子を伝えていた。
わしは本家でラジオを聴いていた。
愛海も隣に座っていた。
「あなた、随分と盛大な式典ですね」
「うむ」
わしは頷いた。
「紀元二千六百年という言葉は、実に長い年月を感じさせるのう」
愛海は微笑んだ。
「あなたも、随分と長く生きてこられましたものね」
「ははは。二千六百年に比べれば、わしの七十六年など短いものじゃ」
わしらは笑った。
しかし、わしの心は複雑だった。
日本の歴史を祝い、文化や伝統を大切にする気持ちは、わしにもある。
わし自身、江戸時代の記憶を持ち、明治維新を経験し、長く日本の移り変わりを見てきた。
だが、その一方で、日中戦争は終わっていない。
国民は節約を求められ、生活は少しずつ統制されている。
華やかな祝賀と、厳しくなる日常。
その対照が、わしには奇妙に感じられた。
「愛海」
「はい?」
「国が長く続くことは喜ばしい。しかし、その国で暮らす一人一人が幸せでなければ、何のための祝いなのじゃろうな」
愛海は静かに頷いた。
「そうですね」
母の志帆も、座敷で静かに話を聞いていた。
九十七歳になった母は、以前よりも耳が遠くなっていた。それでも、言葉ははっきりとしていた。
「蔵之助」
「はい、母上」
「国も時代も、人が生きていてこそのものですよ」
わしは母を見つめた。
「そうですな」
母は穏やかに続けた。
「立派な建物も、盛大なお祭りも、そこに暮らす人がいなければ寂しいものでしょう」
わしは深く頷いた。その言葉は、わしの胸に静かに残った。
十五 祝賀の灯と戦争の影
紀元二千六百年の祝賀行事が続く東京には、華やかな空気が漂っていた。
しかし、同じ年の九月には、日本軍が北部フランス領インドシナへ進駐し、日独伊三国同盟も締結されていた。
ヨーロッパで戦争を続けるドイツ、イタリアと、日本が軍事的な結びつきを強めたのである。
わしは新聞を読むたび、不安を深めていた。
ある夜、兄の寛之助が訪ねてきた。
「蔵之助、最近の情勢をどう見ておる?」
「兄上、わしは恐ろしい」
「何がじゃ?」
「日本が、今の中国との戦争だけでなく、さらに大きな戦争へ踏み込んでしまうのではないかと」
兄は黙った。
「ヨーロッパでは、すでに大戦争が続いておる。そこへ日本がドイツやイタリアとの結びつきを強めた」
わしは続けた。
「これから先、英米との関係まで悪化すれば、どうなるのか…」
兄は深く息を吐いた。
「わしも同じことを考えておる」
かつて、兄は海軍将官だった。わしは陸軍中将だった。
二人とも、多くの戦争を経験した。
そして、その経験から、戦争を始めることの容易さと、終わらせることの難しさを知っていた。
「兄上」
「何じゃ?」
「わしらが若い頃、戦争は国を守るための手段だと教えられました。しかし、戦争を続けるために国民の暮らしがすべて変わっていくのを見ておると、何のために戦争をしているのか、分からなくなることがあります」
兄は静かに頷いた。
「軍は国のためにあるはずじゃ。国が軍のためにあるのではない」
わしは兄を見つめた。
「…まったく、その通りです」
窓の外には、夜の東京が広がっていた。
まだ街には明かりがあり、家々からは人々の声が聞こえていた。
しかし、わしには、その平穏が永遠に続くとは思えなかった。
十六 銃後という名の戦場
その夜、わしは一人で書斎に座っていた。
机の上には、国家総動員法に関する記事、配給についての知らせ、隣組の連絡事項が並んでいた。
かつて、わしが軍人だった頃、戦場と銃後は区別されていた。
戦場では兵士が戦い、銃後では家族が帰りを待つ。
もちろん、現実にはそんな単純なものではなかった。
しかし、少なくとも、人々は自分の暮らしが戦争から離れたところにあると考えることができた。
今は違う。
鉄道の仕事も、工場の仕事も、学校の教育も、看護も、買い物も、近所付き合いも。そのすべてが戦争と結びつき始めていた。
「銃後とは、もはや戦場から遠い場所ではないのじゃな……」
ふと、壁に飾られた集合写真が目に入った。
春に撮影した、神楽坂家の大家族写真である。
母。
兄。
愛海。
修蔵、節子、光蔵、春子。
そして、孫たちと弘一。
皆が笑顔を浮かべている。
その中には、鉄道技師の義蔵がいた。
小学校教員の奈恵がいた。
商船学校で学ぶ康弘がいた。
教員になった大空がいた。
映写技師の日花梨がいた。
医師を目指す幸丞がいた。
生き物が好きな葵生がいた。
そして、まだ幼い弘一がいた。
皆、それぞれに夢がある。
それぞれに生活がある。
わしは写真を見つめた。
「この子たちまで、戦争に奪われてはならぬ…」
しかし、時代はわしの願いとは別の方向へ進んでいるように思えた。
国民精神総動員。
国家総動員法。
国民徴用令。
価格等統制令。
七・七禁令。
切符制と配給制。
隣組。
大政翼賛会。
国民服。
そして、紀元二千六百年の盛大な祝賀。
それらは、それぞれ違う目的や理由を持つ制度や出来事だった。
しかし、わしには、一つの大きな流れの中にあるように見えた。
国民の暮らしが、少しずつ国家の戦争遂行へと組み込まれていく流れである。
わしは窓の外を見つめた。
昭和十五年(1940)。世界では、すでに大きな戦争が続いている。
日本も中国との戦争を終わらせることができず、さらに国際的な緊張を高めつつあった。
「この国は、いったいどこへ向かっておるのじゃろうな……」
答える者はいなかった。
ただ、遠くから列車の汽笛が聞こえてきた。
それは、かつてわしが文明開化の象徴として胸を躍らせた音だった。
明治五年(1872)、初めて鉄道が走った日のことを、わしは今でも覚えている。
あの頃、汽車は人々を新しい時代へ運ぶ希望の象徴だった。
そして今、その同じ鉄道が、戦争のために人と物を運んでいる。
文明が進めば、人々はもっと幸せになれる。
幼い頃のわしは、そう信じていた。
今でも、その願いを捨てたわけではない。
しかし、文明の力が人を豊かにするか、傷つけるかは、それを使う人間次第なのだと、長い人生を通して知ってしまった。
やがて愛海が書斎に入ってきた。
「あなた、もう遅いですよ」
「うむ」
「明日もありますから、そろそろお休みになってくださいませ」
わしは妻に微笑んだ。
「そうじゃな」
愛海は写真を見つめた。
「皆、元気でいてほしいですね」
わしは頷いた。
「…ああ。本当にそう思う」
わしらは、しばらく写真を見つめていた。
春の日差しの下で笑っていた家族たち。
あのときは、誰もが自分の未来を思い描いていた。
しかし、今、国の進む先には大きな暗雲が広がっている。
わしは心の中で呟いた。
どうか、あの笑顔が失われぬように。
どうか、家族が再び同じ桜の下に集まれるように。
そして、どうか、これ以上、大きな戦争が始まらぬように。
だが、時代は静かに、そして確実に、わしらの知らない未来へ進んでいた。
第四章では、昭和初期の神楽坂一族が、旅行をしたり、花見をしたり、文学を読んだり、さらには家族が広がって一族はもっと豊かになるだろうと、蔵之助はそう信じていた。
4兄弟も家庭を持って完全に大人になって、孫たちも成長して社会人になって子を持つ者からまだ幼い孫まで実に年代が幅広く、一家の大きさを感じさせられた。
そして母の志帆は95歳を超えて地域で生き神と崇められるようになっていて、今では、 今では…
「そういえば最近母上が部屋から出てこなくなったな…」
第五… 五十五話へ続く…




