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第四十五話 軍人会の老将からみた兵士の生活

一 老将の新しい役目


昭和六年(1931)。わしは六十七歳になっていた。

陸軍の現役を退いてから幾年かが過ぎ、今では帝国在郷軍人会の東京府支部で理事として活動している。


在郷軍人会は、現役を離れた軍人たちが集まり、軍人精神の維持や相互扶助、地域社会との連携などを目的として活動する組織だった。


わしも長年の軍歴を生かし、若い軍人たちへの講話や、軍を退いた者たちの相談に応じることがあった。

とはいえ、かつてのように部隊を直接指揮する立場ではない。

今のわしは、軍の外側から若い者たちを見守る老将だった。


ある日の朝、わしは軍人会の会合に出席した。


「神楽坂閣下、本日はお越しいただきありがとうございます」


若い将校が敬礼した。


「うむ。ご苦労じゃな」


「本日は、現役兵士の生活について意見を交換したく存じます」


「兵士の生活か」


わしは少し考えた。


「よい機会じゃ。わしも、近頃の兵営がどうなっておるのか、改めて見ておきたいと思っておった」


「それでは、部隊側と調整いたしましょう」


軍人として生きた年月は長い。

日清戦争、日露戦争、世界戦争。

わしは軍隊が近代化していく過程を見てきた。


しかし、兵器や戦術が変わることと、兵士の日常がよくなることは、必ずしも同じではない。

現役を退いた今だからこそ、見えるものがあるのではないか。


二 陸軍兵営の朝


数日後、わしは東京府内の陸軍部隊を訪ねた。

正式な視察権限を持つ現役将官ではないため、部隊長の了承を得て、兵士たちの生活を見学することになった。


早朝、兵営に到着すると、まだ空気は冷たかった。

やがて起床喇叭が響いた。


「起床!」


兵舎の中から、兵士たちが一斉に動き始めた。

寝台から起き上がり、軍服を整え、寝具を畳む。

若い兵士たちは、まだ眠気の残る顔で慌ただしく身支度をしていた。


「随分と忙しそうじゃな」


わしが呟くと、案内役の将校が答えた。


「初年兵は特に忙しくございます。寝具の整理、点呼、清掃など、覚えることが多いためです」


わしは兵舎の中を見渡した。

寝台が並び、衣服や装備品が整然と置かれている。

内務班と呼ばれる生活単位では、兵士たちが共同生活を送っていた。


若い兵士が寝具を整えていると、古参兵が声をかけた。


「おい、そこが曲がっているぞ。もっときちんと畳め!」


「はい!」


初年兵は慌てて毛布を畳み直した。


軍隊において、整理整頓は重要だった。

戦場では装備の置き場所が分からなくなるだけでも、命に関わることがある。

しかし、若い兵士の手が小さく震えているのが気になった。


やがて日朝点呼が行われた。

兵士たちは営庭に整列し、人数と健康状態などの確認を受けた。


「異常なし!」


号令が響く。

その後、兵士たちは清掃や朝食の準備に取りかかった。


わしは兵営の朝を見ながら、若い頃を思い出していた。

明治時代の軍隊でも、起床から就寝まで厳しい日課が定められていた。

しかし、目の前の兵士たちの表情には、わしの記憶とは少し違う緊張があった。


「今の若い者たちは、何を恐れておるのじゃろうな…」


三 兵士の食事と日常


朝食の時間になった。

兵士たちは食事を受け取り、決められた場所で食べ始めた。


米と麦を混ぜた飯、味噌汁、漬物などが並んでいた。

献立は日によって異なり、部隊や時期によっても差があった。


わしは炊事場を見学した。

大きな釜では飯が炊かれ、炊事担当の兵士たちが忙しく働いていた。


「食事は十分に行き渡っておるか?」


わしが尋ねると、担当者が答えた。


「規定に従って支給しております」


「そうか」


わしは兵士たちの食事風景を眺めた。

ある若い兵士は、飯を実に美味そうに食べていた。


「うまいか?」


わしが声をかけると、兵士は慌てて姿勢を正した。


「はっ!美味しくいただいております!」


「そう緊張せんでもよい。わしはもう現役の指揮官ではないからのう」


「実家では、これほど米を食べられないこともありましたので…」


「そうか」


わしは胸が痛んだ。


昭和恐慌によって、農村では深刻な貧困が広がっていた。

軍隊に入れば、少なくとも規定の食事が支給される。

そのことが、貧しい家庭の青年にとって大きな意味を持つ場合もあった。


「家族は元気か?」


「はい。両親と弟妹がおります」


「そうか。手紙は書いておるか?」


「はい。先日も母に送りました」


「うむ。家族を大切にするのじゃぞ」


兵士は深く頭を下げた。


食事の後、兵士たちは清掃、装備品の点検、武器の手入れなどを行った。

軍服を洗い、靴を磨き、寝台の周囲を整えた。

洗濯や入浴も決められた時間に行われ、自由に過ごせる時間は限られていた。

酒保と呼ばれる売店では、日用品や菓子などを購入することもできた。

また、休日には許可を得て外出する兵士もいた。


しかし、軍隊生活の大部分は、細かな規則と時間割によって支配されていた。


「一日中、気の休まる暇がない者もおるじゃろうな」


四 教練と兵士の身体


午前中、わしは教練を見学した。

営庭では兵士たちが隊列を組み、号令に従って行進していた。


「前へ、進め!」


足音が揃い、軍靴が地面を踏み鳴らす。

その後、小銃を用いた訓練が始まった。

兵士たちは銃の扱い方を学び、射撃姿勢や行動の基本を繰り返し練習していた。


「昔と変わらぬ部分も多いのう」


わしが言うと、若い将校が答えた。


「はい。しかし、近年は火力の増大に伴い、分散や遮蔽物の利用なども重視されております」


「うむ。密集して進めば、機関銃の餌食になるからのう」


世界戦争では、機関銃や重砲によって、密集した歩兵が甚大な損害を受けた。

その教訓は、日本陸軍にも伝わっていた。

兵士たちは地面に伏せ、遮蔽物を利用しながら前進する訓練を行った。


さらに、銃剣術や体操、行軍なども続いた。

若い兵士の額には汗が浮かび、息が荒くなっていた。

ある兵士が足をもつれさせ、転倒した。


「何をしておる!」


教官が怒鳴った。


「申し訳ありません!」


兵士はすぐに立ち上がった。


「戦場なら死んでおるぞ!」


「はい!」


わしはそのやり取りを見つめた。


厳しい訓練は必要じゃ。しかし、兵士の身体には限界がある。

疲労や病気を無視して訓練を続ければ、かえって戦力を損なう。


わしは将校に尋ねた。


「あの兵士は、十分に休養を取っておるか?」


「確認いたします」


「うむ。訓練は兵を強くするためにある。倒れるまで追い込むことが目的ではないぞ」


将校は姿勢を正した。


「承知いたしました」


わしは再び営庭を見つめた。


兵士たちの多くは、まだ二十歳前後の若者だった。

わしの孫たちと、さほど変わらぬ年齢である。

そのことが、以前よりも強く胸に迫った。


五 内務班の暗部


午後、わしは兵舎の内部を詳しく見学した。


そこで、ある出来事を目にした。

初年兵が装備品の整理を間違えたらしく、古参兵から厳しく叱責されていた。


「何度言えば分かる!」


「申し訳ありません!」


「貴様、それでも兵隊か!」


古参兵は初年兵の頬を平手で打った。

乾いた音が響いた。

わしは足を止めた。


「待て」


その声に、周囲の兵士たちが一斉に振り返った。


「何をしておる?」


古参兵は慌てて姿勢を正した。


「はっ!指導中であります!」


「指導じゃと?」


わしは初年兵の顔を見た。

頬が赤くなり、目には涙が浮かんでいた。


「お前、何を間違えたのじゃ?」


「はっ!装備品の整理を誤りました!」


「そうか」


わしは古参兵に向き直った。


「それなら、正しい整理の仕方を教えればよいではないか」


「しかし、閣下。軍隊では厳しい指導が必要であります!」


「厳しさと暴力は同じではない。わしも長年軍人を務めてきた。命令に従うことの重要さは、よく分かっておる」


古参兵は黙っていた。


「じゃが、頬を打たれたからといって、装備品の整理が上手くなるわけではあるまい」


「…はっ」


「戦場では、兵士が互いを信頼せねばならぬ。上官や古参兵を恐れるだけの兵が、いざというとき十分に力を発揮できると思うか?」


古参兵は答えられなかった。


わしは案内役の将校に、この件を正式に報告するよう求めた。

その後、部隊長と話をする機会があった。


「神楽坂閣下、先ほどはお見苦しいところをお見せいたしました」


「いや、むしろ見ておいてよかったと思っておる」


わしは答えた。


「兵営の中で、私的制裁が行われておるのじゃな」


部隊長は表情を曇らせた。


「残念ながら、完全にはなくなっておりません」


「そうか…」


私的制裁。

軍の正式な懲罰手続きによらず、古参兵や上級者が下級者に暴力を振るう行為である。

平手打ちや拳による殴打、過度な体力的負担を強いる行為など、その形はさまざまだった。


「わしが若い頃にも、似たようなことはあった」


「はい」


「じゃが、昔からあったというだけで、正しいことになるわけではない」


部隊長は黙って頷いた。


「兵士を鍛えることと、兵士を傷つけることを混同してはならぬ。若い者が失敗するのは当然、失敗を正すのが教育であって、恐怖を植え付けることが教育ではない」


部隊長は深く頭を下げた。


「ご指摘、肝に銘じます」


しかし、わしには分かっていた。

一人の老将が注意したところで、軍隊全体に根付いた慣習を簡単に変えられるわけではない。

それが、何よりも歯がゆかった。


六 消灯前の兵営


夕方、兵士たちは再び点呼を受けた。

夕食を済ませ、武器や装備品の手入れを行い、翌日の準備をする。

その後、わずかな自由時間が与えられた。


手紙を書く者、読書をする者、仲間と話す者。

兵士たちは、それぞれの方法で一日の疲れを癒していた。


わしは一人の初年兵に声をかけた。


「家へ手紙を書いておるのか?」


「はい、母に」


「そうか。何と書いておる?」


兵士は少し照れた。


「元気にしております、と…」


「そうか」


兵士はしばらくして小さな声で続けた。


「本当は、少しつらいこともあります。でも、母には心配をかけたくありません」


わしは黙って聞いた。


「毎日覚えることが多くて、失敗すると怒られます。古参兵の方々も怖いです。でも、家では自分が軍隊に入ったことを喜んでくれているので…」


兵士は手紙に目を落とした。


「弱音を書いたら、母が悲しむと思うんです」


わしは胸が痛んだ。


「お前、名前は?」


兵士は名乗った。わしはその名を心に留めた。


「よいか。軍人だからといって、苦しいと感じてはならぬわけではない」


兵士は顔を上げた。


「はっ…」


「つらいときは、信頼できる者に相談するのじゃ。身体を壊してまで我慢することが、立派な軍人の証ではないぞ」


兵士は目を潤ませた。


「ありがとうございます…」


やがて消灯喇叭が響いた。

兵士たちは寝台に入り、兵舎の明かりが消された。

しかし、衛兵や不寝番など、夜間も勤務する者はいた。


わしは暗くなった兵舎を見つめた。

朝から晩まで、規則に従って動く若者たち。

その生活には、規律や共同生活の利点がある。

一方で、自由の少なさや上下関係の厳しさ、私的制裁という暗部も存在していた。


「軍隊とは、何のためにあるのじゃろうな…」


兵士を育てるためか。

国家を守るためか。

命令に従う人間を作るためか。

わしは長年軍人として生きてきたが、その問いに、答えを出すことはできなかった。


七 兄と海軍を訪ねる


それから数日後、わしは兄の寛之助と会った。

兄はかつて海軍の将官として勤務し、わしと同じく長い軍人人生を送ってきた。


「蔵之助、陸軍の兵営を見てきたそうじゃな」


「ええ、兄上。随分と考えさせられた」


「ほう。何があった?」


わしは、兵士たちの生活や私的制裁のことを話した。

兄は黙って聞いていた。


「海軍にも似たような問題はあるぞ」


「やはり、そうか」


「うむ。陸軍と海軍では生活の仕方が違うが、上下関係の厳しさは共通しておる」


兄は茶を置いた。


「せっかくじゃ。今度は海軍の様子も見に行かぬか」


「よいですな」


こうして、わしら兄弟は、海軍関係者の案内を受けて横須賀方面を訪ねることになった。

港には軍艦が停泊し、海軍の施設が並んでいた。


「兄上、わしらが若い頃とは、軍艦も随分と変わりましたな」


「まったくじゃ。わしが海軍兵学校に入った頃とは、まるで別の時代じゃ」


兄は懐かしそうに笑った。


「昔は軍艦そのものが珍しかった。今では航空機を積む艦まである」


「時代の進歩とは恐ろしいものですな」


わしらは、案内役の海軍士官とともに、艦内生活について説明を受けた。


八 海軍兵士の一日


海軍の兵士たちの生活は、陸軍とは大きく異なっていた。

艦内では、限られた空間で多くの乗組員が生活していた。


起床後には身体や寝具を整え、甲板や艦内の清掃を行う。

食事を済ませると、各自の配置に応じた勤務や訓練が始まった。

航海中であれば、見張り、操舵、機関の運転、通信など、昼夜を問わず勤務が続く。


「陸軍とは違い、海軍では艦そのものが生活の場なのじゃな」


兄が頷いた。


「そうじゃ。海の上では、勝手に外へ出ることもできぬ。艦の中で生活し、働き、眠るのじゃ」


案内役の士官が説明した。


「艦内では、当直勤務の者が交代で任務に就きます。全員が同じ時間に休めるわけではありません」


わしは狭い通路を歩いた。

艦内には機械の音が響き、油の匂いが漂っていた。

機関室では、機関科の兵士たちが忙しく働いていた。


「暑いのう…」


わしが呟くと、兄が笑った。


「蔵之助、これでもまだよい方じゃ。機関室は暑さとの戦いでもある」


「そうですな。陸軍の行軍とは、また違う苦労がありますな」


兵士たちは機械の状態を確認し、異常がないか注意深く見守っていた。


その後、砲術や通信、応急処置などの訓練についても説明を受けた。

艦内では、一人の失敗が艦全体の危険につながる。

だからこそ、規律と連携が重要だった。


昼食の時間になると、わしは兵士たちの食事について尋ねた。

海軍では、麦飯や副食に加え、洋食の影響を受けた献立も取り入れられていた。


「海軍の食事は、陸軍とは随分違うのう」


「そうじゃな。長い航海では、食事が乗組員の楽しみの一つにもなる」


兄は懐かしそうに言った。


「もっとも、食糧の保存や調理には苦労も多いがのう」


海の上で働く兵士たちにとって、食事は身体を維持するだけでなく、心の支えにもなるのだろう。


九 海軍にもあった暗部


しかし、海軍の生活にも厳しい側面があった。

艦内は狭く、乗組員同士の距離が近い。

上下関係も厳格で、古参兵と新兵の間には大きな隔たりがあった。


わしらが兵士たちの話を聞いていると、ある若い水兵が、少しためらいながら口を開いた。


「艦内では、失敗すると厳しく叱られることがあります」


「うむ」


兄が頷いた。


「それは当然じゃ。艦の安全に関わることもあるからのう」


水兵は続けた。


「しかし…時には、必要以上に殴られることもあります」


兄の表情が変わった。


「何じゃと?」


水兵は慌てた。


「いえ、すべての上官がそうというわけではありません!」


「分かっておる。続けてみい」


「古参兵から拳で殴られたり、厳しい罰を受けたりすることがあります。失敗した理由を説明する前に、まず叩かれることも…」


兄はしばらく黙っていた。やがて、低い声で言った。


「わしが若い頃にも、そうしたことはあった。しかし、昔からあるというだけで、正しいことにはならぬ」


その言葉は、先日わしが陸軍の兵営で感じたことと同じだった。

兄は続けた。


「艦の中では、一人の失敗が多くの命に関わる。だからこそ、厳しい教育は必要じゃ」


「はい」


「じゃが、恐怖だけで人を動かそうとすれば、兵は失敗を隠すようになる」


わしも頷いた。


「そうですな。間違いを報告できぬ組織ほど危険なものはありません」


兄は水兵に向き直った。


「よいか。お前たちの仕事は、艦を安全に動かし、任務を果たすことじゃ。殴られることに耐えるのが仕事ではない」


水兵は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


わしらは案内役の士官にも、こうした問題について意見を伝えた。

しかし、陸軍と同じく、海軍にも長年の慣習が存在していた。

一度の訪問で変えられるものではなかった。


兄は港を歩きながら、静かに言った。


「蔵之助、軍隊というものは難しいのう」


「まったくですな」


「規律がなければ戦えぬ。しかし、規律を口実に人を傷つける者もおる。わしらは、何を教え残せるのじゃろうな」


十 進化した兵器と戦い方


その日の午後、わしらは海軍士官から、近年の兵器や戦術の変化について説明を受けた。


まず話題になったのは、航空機である。

世界戦争の頃、航空機は偵察や爆撃などに用いられ始めていた。

その後の発達は目覚ましかった。


「現在では、航空機の性能が大きく向上しております」


若い士官が説明した。


「艦隊の偵察だけでなく、魚雷や爆弾による攻撃も重要になりつつあります」


兄が頷いた。


「航空母艦の時代か…」


「はい。航空母艦『鳳翔』の就役以来、航空戦力の整備が進んでおります」


わしは驚いた。


「船から飛び立った飛行機が、敵の艦を攻撃するのか」


「その通りです」


わしは兄を見た。


「兄上、わしらが若い頃には想像もできませんでしたな」


「まったくじゃ。日露戦争の頃は、戦艦同士の砲撃が海戦の中心じゃった」


兄は遠くの軍艦を眺めた。


「今では、空からの攻撃も考えねばならぬ。艦隊の戦い方そのものが変わろうとしておる」


続いて潜水艦の話になった。

潜水艦は世界戦争で大きな役割を果たし、その後も性能の向上が進んでいた。


「海の下から攻撃されるとは、厄介なものじゃな」


「うむ。敵の姿が見えぬまま攻撃を受けることもある。対潜水艦戦の重要さも増しておる」


さらに、魚雷、艦砲、無線通信などの進歩についても説明を受けた。

わしはその話を聞きながら、軍事技術の変化の速さに驚いていた。


一方、陸軍でも戦車や装甲車、航空機、機関銃、重砲などの重要性が増していた。


「戦車というものも、随分と進歩したそうじゃな」


わしが言うと、士官が答えた。


「はい。世界戦争で登場した戦車は、その後各国で研究が進められております」


「わしが若い頃は、馬と歩兵が戦場の中心じゃった。今では鉄の車が戦場を走る。まるで別の世界じゃな」


「蔵之助、わしらは随分と長く生きたものじゃ」


「そうですな、兄上」


兵器が進歩すれば、戦争は短く終わるのだろうか。

それとも、より多くの命が失われるのだろうか。

世界戦争では、機関銃や重砲、毒ガスなどによって、かつてない規模の犠牲が生まれた。

その記憶が、わしの頭から離れなかった。


十一 老将兄弟の対話


夕方、わしらは横須賀の港を眺めながら話をした。

海には軍艦が停泊し、夕日が水面を赤く染めていた。


「兄上。今日、海軍の兵士たちを見て、改めて考えさせられた」


「何をじゃ?」


「軍隊は、何のために若者を育てるのかということです」


「うむ」


「兵士を強くすることは必要です。規律を守らせることも大切でしょう。じゃが、恐怖で従わせるだけでは、よい軍隊にはならぬと思うのです」


「蔵之助。わしらが若い頃、軍隊は国を強くするための象徴じゃった。明治の日本は、欧米列強に追いつこうと必死じゃった。わしらも、そのために軍人となった」


「そうでしたな」


「じゃが、今の軍隊は、わしらが若い頃とは違う」


兄は軍艦を見つめた。


「兵器も、戦術も、組織も大きくなった。軍人の数も増え、国民の生活との関わりも深くなった」


「それだけに、軍が誤った方向へ進んだときの影響も大きいでしょうな」


「そうじゃ」


しばらく沈黙が続いた。

やがて兄が言った。


「蔵之助、わしらはもう若くない。現役の軍人ではない以上、できることには限りがある。それでも、若い者たちに伝えられることはあるじゃろう」


「そうですな」


兄は少し笑った。


「お前は昔から、兵士のことになると熱くなるのう」


「兄上こそ、今日の水兵には随分と厳しいことをおっしゃっておりましたぞ」


「ははは。そうじゃったか」


わしらは笑い合った。

しかし、その笑いの奥には、長年軍人として生きてきた者だけが抱く複雑な思いがあった。


十二 軍人会の老将として


東京へ戻った後、わしは在郷軍人会の会合で、陸軍と海軍の兵士たちの生活について話をした。


「諸君、わしは先日、現役兵士たちの生活を見学してきた」


会場には、かつて軍務に就いた者たちが集まっていた。


「兵士たちは、早朝から夜まで厳しい規律の下で生活しておる。訓練に励み、武器を手入れし、仲間と共同生活を送っておる。その努力には敬意を払わねばならぬ」


会場は静まり返っていた。


「しかし、わしは同時に、見過ごせぬものも見た。私的制裁じゃ」


何人かの元軍人が顔を上げた。


「軍隊に厳しさは必要じゃ。じゃが、厳しさと暴力は違う。兵士を殴れば強くなるという考えは、あまりにも短絡的じゃ」


一人の元軍人が尋ねた。


「神楽坂閣下、しかし軍隊では、命令に従わせるために厳しい指導が必要ではありませんか?」


「必要じゃとも。じゃが、命令に従うことと、上官を恐れることは同じではない」


わしは会場を見渡した。


「戦場では、兵士が互いを信頼せねばならぬ。負傷した仲間を助け、危険を知らせ、必要なときには正確に報告する。そのためには、恐怖だけでは足りぬ」


わしはゆっくりと続けた。


「兵士も人間じゃ。家族があり、故郷があり、帰る場所がある。軍服を着たからといって、そのことを忘れてはならぬ」


会場には、静かな空気が流れていた。


「わしらは、若い者たちに何を残すべきか。軍人としての誇りか。それとも、力を持つ者が弱い者を従わせる習慣か。わしは前者でありたいと思う」


会合が終わると、数人の元軍人が声をかけてきた。


「閣下のお話、胸に響きました」


「わしらも、若い頃は随分と無理をさせられたものです」


「今の兵士たちには、少しでもよい環境で務めてもらいたいものですな」


わしは頷いた。


「うむ。わしらにできることを考えていこう」


その一方で、軍隊の厳しさを当然と考える者も少なくなかった。

わしの言葉が、すべての者に受け入れられたわけではない。

それでも、語り続けることには意味があると思っていた。


十三 家族のもとへ


その夜、わしは家へ帰った。愛海が出迎えてくれた。


「あなた、お帰りなさいませ」


「うむ。ただいま」


「今日は軍人会のお集まりでしたの?」


「そうじゃ。兵士たちの生活について話してきた」


「最近、随分と若い兵士の方々のことを気にかけていますね」


「わしも年を取ったからのう」


「まあ、何をおっしゃるの」


愛海は笑った。


「あなたは昔から、若い方々のことになると放っておけないお人でしょう?」


わしは苦笑した。


「そうじゃったかのう」


「ええ。修蔵たちが幼い頃も、随分と心配していらしたではありませんか」


「ははは。そうかもしれぬ」


しばらくして、春子が訪ねてきた。


「まあ、お父様。お帰りになっていらしたのですね」


「おお、春子」


「今日は軍人会のお仕事でしたの?」


「うむ。若い兵士たちの話をしてきた」


春子はわしの隣に座った。


「お父様、最近は兵士の方々も随分とお忙しいのでしょうね」


「そうじゃな。訓練も厳しく、自由な時間も少ない」


春子は少し考えた。


「私、看護のお仕事をしていると、身体を壊すまで頑張ってしまう方をよく見かけますの」


「うむ」


「軍人の方々も、同じではありませんこと?」


「そうじゃな」


「どれほど立派なお仕事でも、お身体を壊してしまっては悲しいですわ。お父様も、どうかご無理をなさらないでくださいませ」


わしは笑った。


「わしまで心配されるとはのう」


「当然ですわ。お父様はもう六十七歳でいらっしゃるんですもの」


「ははは。まだまだ元気じゃぞ」


「それでも、ですわ」


春子は微笑んだ。

その表情は、若い頃の愛海によく似ていた。

わしは娘の長い黒髪を眺めながら、静かに頷いた。


「分かった、分かった。気をつけるとしよう」


愛海も笑った。


「春子の言う通りですわ。あなたは昔から無理をなさるのですから」


「二人がかりでは、わしもかなわぬのう」


家の中に笑い声が響いた。


わしはその温かな空気を感じながら、兵営で見た若い兵士たちの顔を思い出していた。

彼らにも、帰りを待つ家族がいる。

母があり、父があり、兄弟姉妹がいる。

いつか自分の家庭を持つ者もいるだろう。

その当たり前の人生を、軍隊が奪うようなことがあってはならぬ。


十四 軍人としての誇り


夜が更けた頃、わしは一人で机に向かった。

机の上には、若い頃の軍服姿の写真が置かれていた。


明治の軍人だったわし。

日清戦争、日露戦争を経験し、世界戦争の時代を経て、陸軍中将にまで昇ったわし。


その人生を、後悔しているわけではない。

軍人として国に仕えたことは、今も誇りに思っている。

しかし、誇りとは何じゃろうか。

命令に従うことか。

敵に勝つことか。

強い兵器を持つことか。

国民の命と暮らしを守ることか。


わしは写真を見つめた。


「わしは、何を守ろうとして軍人になったのじゃろうな…」


幼い頃、父は武士の誇りについて語ってくれた。

祖父・金右衛門は、江戸時代の武士として生きた。

そしてわしは、明治国家の軍人として生きた。


時代は変わった。

刀は銃となり、馬は戦車となり、軍艦は航空機を積むようになった。

しかし、人の命の重さだけは、変わってはならぬはずだった。


「軍人の誇りとは、力を持つことではない。力を何のために使うかを忘れぬことじゃ…」


窓の外には、昭和の夜空が広がっていた。

修蔵の働く鉄道も、光蔵の作る機械も、節子の教える子どもたちも、春子の看護する人々も、皆この国の暮らしを支えている。

軍隊もまた、その暮らしを守るために存在するはずだった。


しかし、近頃の新聞には、軍部の一部で政治への不満が高まっているという記事が見られるようになっていた。

若い将校たちの中には、政治家や政党への不信を強める者もいるという。


わしは胸騒ぎを覚えた。

軍隊が国民を守るための組織であることを忘れたとき、何が起こるのか。


わしの軍人人生は、すでに終わりへと近づいている。

そして、わしが長年仕えてきた陸軍もまた、わしの知る軍隊とは違う方向へ歩み始めているのかもしれなかった。


「父上…」


わしは亡き父の名を心の中で呼んだ。


「わしは、最後まで軍人としての誇りを失わずにおられるじゃろうか」


父の言葉が聞こえたような気がした。


『蔵之助。時代が変わっても、人としての道を忘れるな』


昭和六年(1931)。日本は、再び大きな転換点へ向かっていた。

そして間もなく、満州の地で起こる一つの事件が、日本の軍と政治のあり方を大きく揺るがすことになる。

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