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第四十一話 電車で大家族関東旅行

一 引退した老将と一枚の鉄道路線図


大正十五年(1926)年七月。

わし、神楽坂蔵之助は六十二歳になっていた。

その年の三月末、長年にわたる陸軍の現役生活を終えたわしは、帝国在郷軍人会の活動に携わりながら、以前よりも家族と過ごす時間を持てるようになっていた。


ある日の午後、長男の修蔵が大きな紙を抱えて訪ねてきた。


「父上、ちょっと見てほしいものがあるんだ」


「何じゃ、修蔵?」


修蔵が広げたのは、関東地方の鉄道路線図であった。

東京を中心として、神奈川、千葉、埼玉、さらに北関東へと、無数の線が延びている。


「ほう…これはまた、ずいぶん増えたのう!」


「だろう? 省線だけじゃなく、私鉄も各地に広がっているんだ」


わしが幼かった明治五年(1872)、日本で初めて新橋と横浜を結ぶ鉄道が開業した。あの頃、蒸気機関車は文明開化の象徴であり、鉄道に乗ること自体が一大行事であった。

それが今では、東京市内を電車が走り、郊外へも鉄道が延びている。


「父上、今年の夏は、これを使って旅行に行かないか?」


「旅行じゃと?」


「神奈川、東京、千葉、埼玉。三泊四日で関東を巡るんだ」


わしは目を丸くした。


「四日間で四つの地域を回るのか!」


「できるだけ乗り換えや休憩を考えてある。俺の仕事の腕の見せどころだな」


修蔵は得意そうに笑った。


そこへ、愛海が顔を出した。


「まあ、楽しそうですね。あなた、せっかく現役を引退されたのですから、皆で出かけてはいかがです?」


「そうじゃな。たまには軍務を忘れて、のんびり旅をするのもよかろう」


そう答えると、修蔵は嬉しそうに頷いた。


しかし、わしはまだ知らなかった。

この旅行が、のんびりどころか、神楽坂家の元気を試されるような大騒ぎになることを。


二 参加者は何と大家族


旅行の話を聞きつけ、家族は次々と参加を申し出た。

修蔵夫妻、野村節子夫妻、光蔵夫妻、春子夫妻。そして、孫たちも一緒である。


修蔵家の義蔵、節子家の奈恵と康弘、光蔵家の大空と日花梨、春子家の幸丞をはじめ、各家の幼い子どもたちまで加わることとなった。


神楽坂家の孫は、東を含めて十一人にまで増えていた。

もっとも、その東は三年前の関東大震災以来、行方が分からないままであった。

あのいたずら好きの孫が一緒なら、どれほど賑やかだったことじゃろう。

わしは時折そう考えたが、今は目の前の子どもたちを大切にした。


さらに、兄の寛之助も参加するという。


「蔵之助! わし行くぞ!」


「兄上まで来られるのですか!」


「せっかくの関東旅行じゃろう!」


そして、何より驚いたのが母上の志帆であった。


「私も行こうかしら」


「母上!?三泊四日ですぞ!」


「分かっているわよ」


「八十三歳のお身体で、あちこち移動されるのは大変ではありませんか?」


母上は涼しい顔で笑った。


「あら、蔵之助。私をそんなに年寄り扱いしなくてもいいでしょう?」


兄上が大笑いした。


「ははは!母上のほうがお前より元気そうじゃな!」


「兄上まで!」


愛海も笑っていた。


「あなた、皆さんが行きたいとおっしゃっているのですから、楽しみましょう」


こうして、八月上旬の四日間、神楽坂家の大家族旅行が決まった。


三 出発前から大騒ぎ


出発の前日、わしらの家には孫たちが集まっていた。

義蔵は十三歳となり、声変わりも始まっていて、年下の子どもたちを引っ張るようになっていた。


「おじいちゃん!明日は何時に出るの?」


「朝早くじゃ。寝坊するでないぞ」


「俺は大丈夫!」


すると、康弘が横から言った。


「義蔵兄ちゃん、前に寝坊したじゃないか!」


「それは前の話だろ!」


奈恵がすかさず口を挟んだ。


「二人とも、そんなことより荷物は用意したの?」


「…まだ」


「もう! 明日出発なのよ!」


わしは思わず笑った。


「ははは!奈恵は相変わらずしっかり者じゃな」


「おじいちゃん、この人たちを放っておくと大変なのよ!」


節子が頷いた。


「奈恵の言うとおりです。旅行中も勝手な行動は許しませんからね」


康弘は途端におとなしくなった。


「は、はい……」


その横で、大空と日花梨が荷物を覗き込んでいた。


「これ何?」


「お菓子!」


「食べたい!」


「まだ駄目よ!」


奈恵の声が響く。


一方、春子は幼い幸丞を抱いていた。


「ふふっ、幸丞。明日から初めての大旅行ですわね」


幸丞は母親の顔を見上げ、嬉しそうに手を伸ばした。


「まあ、よいお返事ですこと!」


わしはその様子を見て微笑んだ。

旅行に出る前から、既に祭りのような騒ぎであった。


四 一日目――横浜の港町


八月上旬、いよいよ出発の日がやってきた。

朝早く、家族は駅に集合した。


修蔵は時刻表を手に、皆を数えていた。


「父上、母上、伯父上、祖母上…よし、全員いるな!」


「修蔵、お前が一番忙しそうじゃのう」


「これだけの人数だからな。乗り遅れたら大変だよ」


わしらは東京から東海道本線の列車に乗り、横浜へ向かった。

窓の外には工場や住宅、線路沿いの街並みが広がっていた。

横浜に到着すると、港には大小さまざまな船が浮かんでいた。


「わあ! 船だ!」


康弘が声を上げた。


「大きい!」


日花梨も目を輝かせた。


兄上の寛之助は、港を眺めて嬉しそうに笑った。


「ははは!やはり海はいいな!」


「兄上は昔から海がお好きでしたな」


「当然、わしの人生の大半は海とともにあったからな」


義蔵が尋ねた。


「寛之助おじいちゃん、軍艦ってあんなに大きいの?」


「もっと大きな艦もあるぞ」


「すごい!」


兄上は得意そうに海軍時代の話を始めた。

わしは笑った。


「兄上、旅行中まで海軍の講義ですか」


「お前だって陸軍の話をするじゃろう!」


「それはそうですが!」


わしらは顔を見合わせて笑った。


横浜の街には、外国との交流によって生まれた独特の雰囲気があった。

洋風の建物や商店を見て、春子は目を輝かせた。


「まあ、素敵ですわ!東京とはまた違った華やかさがございますのね」


愛海も頷いた。


「そうね。港町らしいわ」


母上は静かに呟いた。


「私が若い頃、外国との行き来は大変な出来事だったのにねえ」


わしは頷いた。

江戸の末期に生まれた母上が、今こうして横浜の港を歩いている。

それだけでも、長い時代の変化を感じずにはいられなかった。


五 湘南の海と小田原


昼頃、わしらは再び東海道本線の列車に乗り、西へ向かった。

車窓からは湘南の海が見える場所もあり、孫たちは大喜びであった。


「おじいちゃん!海が光ってる!」


「うむ。きれいじゃのう」


「ずっと向こうまで海なの?」


「そうじゃ」


兄上が横から言った。


「海の向こうには、まだまだ広い世界があるんじゃぞ!」


日花梨は目を丸くした。


「外国もあるの?」


「もちろん!」


わしは笑った。


「兄上、また海軍の話になっておりますぞ」


「ははは!仕方ないじゃろう!」


やがて、小田原に到着した。


わしは城下町の面影を残す街並みを眺めながら、昔の東海道を思い出していた。

江戸時代、旅人たちは何日もかけて街道を歩いた。

しかし、今では鉄道に乗れば、同じ日のうちに東京から小田原まで来ることができる。


「修蔵」


「何だい、父上?」


「鉄道とは、まことに人の暮らしを変えたものじゃな」


修蔵は嬉しそうに頷いた。


「そうだろう?これからもっと便利になると思うよ」


わしは微笑んだ。


「お前が鉄道の仕事を選んだ理由が、よく分かるわい」


六 箱根の温泉旅館


夕方、わしらは箱根へ向かった。

箱根登山鉄道の列車は、急な山道を登ってゆく。


孫たちは窓の外を眺め、歓声を上げていた。


「おじいちゃん!山を登ってる!」


「そうじゃな!」


「電車なのに、こんな坂を登れるんだ!」


修蔵が説明した。


「この鉄道は、急な勾配を登るためにいろいろな工夫がされているんだ」


光蔵も興味深そうだった。


「僕も、こういう機械の仕組みは気になるなあ」


わしは笑った。


「お前たちは、旅行中でも仕事の話じゃな!」


二人は顔を見合わせて笑った。


箱根の旅館に到着すると、皆で温泉を楽しんだ。

母上はゆっくり湯につかり、満足そうに微笑んでいた。


「まあ、いいお湯ねえ」


愛海が尋ねた。


「お義母様、お疲れではありませんか?」


「大丈夫よ。まだ一日目でしょう?」


わしは思わず苦笑した。


「母上、本当にお元気ですな」


夜には、旅館で料理を囲んだ。

孫たちは食事を楽しみ、大人たちは今日見た景色について語り合った。


わしは窓の外の山々を眺めた。

軍人だった頃には、こんなふうに家族全員で旅をする機会はなかなかなかった。


「…よいものじゃな」


愛海が微笑んだ。


「ええ。これからは、こういう時間も増やしましょうね」


わしは静かに頷いた。


七 二日目――東京へ戻る長い朝


翌朝、わしらは箱根を出発した。

再び小田原へ下り、東海道本線を使って東京へ向かう。

朝から長い移動となったが、子どもたちは元気だった。


「今日は東京を見るんだよね!」


義蔵が言った。


「そうじゃ」


「昨日も東京から来たのに?」


康弘が不思議そうに尋ねた。

修蔵は笑った。


「昨日は東京を通り抜けただけだろう?今日は街を見て回るんだ」


奈恵が頷いた。


「東京にも、まだ知らない場所がたくさんあるものね」


わしは感心した。


「そのとおりじゃ。住んでいる街でも、知らぬことは多いものじゃ」


やがて、列車は東京へ戻ってきた。


八 山手線と大都市東京


東京では、山手線の電車に乗って市内を巡った。

山手線は前年に環状運転を開始したばかりで、東京の主要な街を結ぶ便利な路線となっていた。


「おじいちゃん、また電車!」


「ははは!今日はたくさん乗るぞ!」


東京駅周辺には立派な建物が並び、銀座には百貨店や洋風の商店が集まっていた。


街を走る自動車や路面電車を見て、孫たちは興奮していた。

春子は店先の衣服や装飾品に目を輝かせた。


「まあ、素敵な帽子ですわ!」


節子が笑った。


「春子、またお買い物?」


「見るだけですわ、姉様!」


「本当に?」


「もちろんですわ!」


そのやり取りに、わしらは笑った。


母上は、東京の街並みをじっと見つめていた。


「昔は、ここにも武家屋敷があったのよねえ」


「そうですな、母上」


「それが、こんなに賑やかな街になったのね」


わしは静かに頷いた。


わしが幼かった頃の東京には、まだ江戸の面影が色濃く残っていた。

しかし、今では電車が走り、近代的な建物が並び、人々の生活そのものが変わっている。


「母上、わしらは長い時代を生きてきましたな」


母上は微笑んだ。


「ええ。本当にね」


九 中央線で高尾へ


昼過ぎ、わしらは中央線の列車に乗り、西へ向かった。

東京の中心部を離れるにつれて、建物の密集した街並みは少しずつ変わり、住宅地や田畑が増えていった。


修蔵は車窓を眺めながら説明した。


「父上、東京の郊外はこれからもっと発展すると思うよ」


「ほう」


「電車で通勤できるようになれば、都心から離れた場所にも人が住めるからね」


わしは頷いた。


「鉄道は、街の形まで変えてゆくのじゃな」


やがて、わしらは浅川駅に到着した。(現在の高尾方面にあたる場所である。)

山々が近くに見え、東京市内とは違う落ち着いた景色が広がっていた。


「山だ!」


「空気が気持ちいい!」


大空と日花梨が嬉しそうに声を上げた。

わしは笑った。


「ははは!まずは旅館へ向かうぞ!」


夕方、わしらは高尾方面の旅館に到着した。

孫たちは、旅館の庭で遊び始めた。


「義蔵兄ちゃん、待って!」


「早く来いよ!」


「康弘!走りすぎよ!」


奈恵の声が響く。


わしはその様子を眺めながら、ふと東のことを思い出した。

あの子がいれば、きっと真っ先に走り出していたじゃろう。


「…東も、連れてきたかったのう」


小さく呟くと、愛海が隣に立った。


「あなた」


「うむ」


愛海は静かに庭を見つめた。


「きっと、あの子も喜んだでしょうね」


わしは頷いた。


「そうじゃな」


その夜、わしらは山の静けさの中で眠りについた。


十 三日目――千葉への大移動


三日目。わしらは朝早く高尾方面を出発し、中央線を東へ進んだ。

東京方面を経由し、総武本線の列車に乗り換えて千葉へ向かった。

この日は、四日間の中でも移動距離の長い日であった。


修蔵は時刻表を何度も確認していた。


「父上、今日は乗り換えが多いから、皆を見失わないようにしてくれよ」


「うむ。任せておけ!」


ところが、その直後。


「おじいちゃん!お菓子!」


「おじいちゃん、窓際に座りたい!」


「お父様、幸丞が泣いていますわ!」


「…わし一人では無理じゃ!」


修蔵は大笑いした。


「ははは!父上、頑張ってくれ!」


わしは苦笑した。


「まったく、軍隊を率いるより大変かもしれんのう!」


兄上も大笑いした。


「蔵之助!孫たちの指揮官はお前だぞ!」


「兄上も手伝ってください!」


車内には、家族の笑い声が響いていた。


十一 千葉市の街並み


千葉市に到着すると、わしらは街を散策した。

千葉は県庁所在地として発展しており、商店や公共施設が集まっていた。

東京ほど建物が密集しているわけではなかったが、県の中心地らしい賑わいがあった。


奈恵は街並みを興味深そうに見ていた。


「おじいちゃん、東京とは少し違うね」


「うむ。街にはそれぞれの歴史があるのじゃ」


節子も頷いた。


「子どもたちにとって、こうして実際に街を見ることはよい勉強になりますね」


わしは笑った。


「節子は旅行中でも先生じゃな」


「父上、学ぶ機会はどこにでもあります」


「ははは!まったく、そのとおりじゃ!」


光蔵は街の設備を眺め、修蔵は駅の構造に興味を示していた。


春子は幸丞を抱きながら、家族の後を歩いていた。


「幸丞、いろいろな景色が見られて楽しいですわね」


幸丞は母親の腕の中で、周囲をきょろきょろと見回していた。

わしは微笑んだ。

この子も、いつか今日の旅の話を聞くことになるのじゃろう。


十二 市川と松戸、江戸川の夕暮れ


午後、わしらは千葉市を出発し、総武本線で市川方面へ向かった。


市川では、江戸川の近くを歩いた。

川の向こうには東京方面の街並みが広がり、船や人々の往来が見られた。


「おじいちゃん、この川は昔からあるの?」


奈恵が尋ねた。


「もちろんじゃ。わしが生まれるずっと前から流れておる」


「おじいちゃんのおじいちゃんも見たの?」


「そうじゃろうな」


奈恵は静かに頷いた。


「何だか不思議ね」


わしは微笑んだ。


江戸時代、川は人や物を運ぶ重要な交通路であった。

しかし、今では鉄道が関東各地を結び、人々の移動を支えている。


その後、わしらは鉄道を乗り継ぎ、松戸方面へ向かった。

夕方の江戸川沿いには、穏やかな風が吹いていた。


母上は川の流れを眺めながら言った。


「こういう景色は、昔とあまり変わらないわねえ」


わしは頷いた。


「そうですな、母上」


兄上も静かに川を見つめていた。


「蔵之助、海もいいが、川もいいものだな」


「兄上、今日は海軍の話をされませんな」


「ははは!たまにはな!」


その夜、わしらは松戸の旅館に宿泊した。

三日間の移動で、さすがに孫たちも疲れ始めていた。

しかし、翌日が最後の旅行日だと聞くと、また元気を取り戻していた。


十三 四日目――大宮と浦和


四日目。わしらは松戸を出発し、鉄道を乗り継いで埼玉方面へ向かった。


まず訪れたのは、大宮であった。

大宮は鉄道の重要な拠点として発展しており、駅には多くの列車が行き交っていた。


修蔵は嬉しそうに説明した。


「父上、大宮には鉄道工場もあるんだ」


「ほう」


「車両の修理や整備などを行う、重要な施設なんだよ」


光蔵も目を輝かせた。


「僕も一度、詳しく見てみたいな」


わしは笑った。


「お前たち、また機械の話か!」


修蔵は笑った。


「仕方ないだろう、父上。俺たちの仕事だからな」


その後、浦和へ向かった。

浦和は行政や教育の中心地として発展していた。


節子は街の様子を興味深そうに眺めていた。


「学校も多いのね」


わしは頷いた。


「そうじゃな」


奈恵も、街並みを熱心に見ていた。


「おじいちゃん、埼玉にもこんなに大きな街があるのね」


「うむ。東京だけが都会というわけではないのじゃ」


わしは微笑んだ。


十四 川越――江戸の面影を残す街


昼過ぎ、わしらは川越へ向かった。

川越には、蔵造りの商家が並ぶ街並みが残っていた。


黒い壁の建物を見た瞬間、わしは思わず足を止めた。


「…懐かしいのう」


母上も目を細めた。


「本当に。昔の江戸を思い出すわねえ」


義蔵が尋ねた。


「おじいちゃん、昔の東京もこんな感じだったの?」


「そうじゃ。もちろん、すべてが同じではないが、こうした建物もあったのじゃ」


「へえ!」


奈恵は街並みをじっと眺めていた。


「おじいちゃんが子どもの頃の世界って、こんな感じだったのね」


わしは頷いた。


「わしが生まれた頃には、まだ江戸幕府があったからのう」


康弘が驚いた。


「ええっ!おじいちゃんって、そんなに昔の人なの!?」


わしは思わず笑った。


「ははは!今さら何を言っておる!」


母上も笑った。


「蔵之助、あなたもすっかり昔の人になったのねえ」


「母上まで!」


皆が大笑いした。


わしは、祖父の金右衛門や父の権兵衛のことを思い出していた。

二人が生きていた頃の江戸は、もう遠い昔になってしまった。

しかし、こうして昔の街並みを残す場所を歩くと、あの時代の記憶が蘇ってくる。わしは静かに微笑んだ。


十五 所沢――日本の空への第一歩


夕方、わしらは川越を出発し、所沢方面へ向かった。

鉄道を乗り継ぎ、所沢の街へ到着した。


ここには、明治四十四年(1911)に開設された日本初の陸軍飛行場があった。

長年陸軍に身を置いてきたわしにとって、ぜひ訪ねてみたい場所であった。


飛行場の近くまで来ると、義蔵や康弘たちは空を見上げて大はしゃぎしていた。


「おじいちゃん!ここで飛行機が飛ぶの!?」


「うむ。日本の陸軍航空の歩みが始まった、大切な場所の一つじゃ」


「すごい!おれも飛んでみたい!」


兄上の寛之助も、感慨深そうに言った。


「わしらが子どもの頃には、人間が空を飛ぶなんて夢物語だったのにな!」


わしは頷いた。


「まったくですな、兄上」


母上も、静かに空を見上げていた。


「まあ……私が生まれた頃には、まだ江戸時代だったのにねえ。今では人が空まで飛ぶのね」


わしは、その言葉を胸に刻んだ。

江戸時代に生まれた母上が、飛行場を見つめている。

何とも不思議な光景であった。


光蔵は、航空機の仕組みに興味を示していた。


「父上、僕もいつか飛行機の機械を詳しく調べてみたいな」


「お前らしいのう」


わしは笑った。


しかし、飛行場を眺めていると、第一次世界大戦の記憶も蘇ってきた。

航空機は、偵察だけでなく戦闘にも使われるようになっていた。


「空を飛べるようになったのは素晴らしいことじゃ。しかし、その技術が戦争にも使われるとは、何とも複雑じゃのう」


修蔵は静かに頷いた。


「そうだね、父上」


わしは空を見上げた。

幼い頃、蒸気機関車に驚いた少年が、六十二歳となった今、航空機の時代を見つめている。

世の中は、これからどこまで進歩するのじゃろうか。


十六 四日間の旅の終わり


所沢を後にしたわしらは、鉄道を乗り継ぎ、夜になって東京へ帰宅した。

三泊四日の長い旅が、ついに終わった。


孫たちは、さすがに疲れ切っていた。


「おじいちゃん…眠い……」


「ははは。よく遊んだからのう」


春子は幸丞を抱きながら微笑んだ。


「ふふっ、幸丞もすっかり眠っておりますわ」


愛海は笑った。


「皆、本当にお疲れ様でした」


修蔵は時刻表を閉じた。


「何とか全員、無事に帰ってこられたな」


わしは頷いた。


「修蔵、よい旅行を計画してくれたのう」


修蔵は嬉しそうに笑った。


「父上、楽しんでくれた?」


「もちろんじゃ!」


わしは家族を見渡した。

母上も、兄上も、愛海も、子どもたちも、孫たちも。

皆、疲れてはいたが、満足そうな顔をしていた。


わしは静かに微笑んだ。


「皆、ありがとう。よい思い出になったぞ」


十七 鉄道がつないだ四日間


旅を終えた夜、わしは一人で写真を眺めていた。


横浜の港。

湘南の海。

箱根の山。


東京の大都市。

高尾の自然。


千葉の街並み。

江戸川の夕暮れ。


大宮の鉄道。

川越の蔵造り。

そして、所沢の飛行場。


たった四日間で、これほど多くの場所を巡ることができた。


わしが幼かった江戸時代には、想像もできなかったことである。

鉄道が発展し、人々は遠くへ行けるようになった。

そして、わしらの家族も、その恩恵を受けている。


わしは、修蔵のことを思い出した。

幼い頃から鉄道が好きだった息子が、今では鉄道技師として働き、家族旅行まで計画してくれた。


「…立派になったものじゃな」


わしは静かに呟いた。


そして、もう一度写真を見つめた。

そこには、大勢の家族が写っていた。

しかし、東の姿はなかった。

わしは胸が少し痛んだ。


「東…お前にも、この景色を見せたかったのう」


そう呟きながら、わしは静かに写真を置いた。

東のことを忘れる日は、決して来ないじゃろう。


それでも、家族はこれからも生きてゆく。

新しい思い出を作りながら。


十八 八月下旬――兄上の新しい計画


それから数週間が経った。

八月下旬。わしは自宅で、今回の旅行の写真を整理していた。


すると、突然、兄上の寛之助が訪ねてきた。


「蔵之助!」


「兄上!どうした?」


兄上は満面の笑みを浮かべていた。


「次の旅行を考えたぞ!」


わしは目を丸くした。


「…次の旅行?」


「そうじゃ!」


兄上は大きな地図を広げた。


「今度は、わしの家族も連れて北関東を回るぞ!」


「北関東!?」


「群馬、栃木、茨城だ!」


兄上は嬉しそうに続けた。


「三泊四日で、温泉も山も名所も巡る!」


わしは思わず笑った。


「兄上、つい先日、四日間の旅行から帰ったばかりではないか!」


「だからこそ、次じゃ!」


「何が『だからこそ』ですか!」


兄上は大笑いした。


「ははは!今度は寛之助一家も総出じゃ!」


そのとき、母上が部屋に入ってきた。


「まあ、北関東へ行くの?」


兄上は頷いた。


「そうです、母上!」


母上は嬉しそうに微笑んだ。


「いいわねえ。私も行きたいわ」


わしは驚いた。


「母上まで!?」


母上は笑った。


「蔵之助、旅行は楽しいものよ」


兄上も笑った。


「そうじゃ、蔵之助!」


わしは二人を見つめた。

八十三歳の母上と、六十四歳を迎える兄上。

二人とも、わしより元気なのではないかと思うほどであった。


わしは大きくため息をついた。


「…まったく、神楽坂家は元気な者ばかりじゃのう!」


兄上と母上は大笑いした。

そして、わしもつられて笑った。

江戸時代に生まれた母上と兄弟が、大正時代の鉄道に乗って関東を旅する。

何とも不思議で、何とも幸せな時代であった。


わしは静かに微笑んだ。


「よし、兄上。今度は北関東ですな!」


兄上は嬉しそうに頷いた。


「そうじゃ! 次も楽しもうぞ!」


こうして、神楽坂家の夏は、まだまだ終わりそうになかった。

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