第三十七話 大正デモクラシー〜社会運動〜
一 明治とは違う大正という時代
大正十三年(1924)。わしは六十歳になっていた。
江戸時代に生まれ、明治維新を経験し、陸軍中将となり、世界戦争と関東大震災を見届けた。
その人生を振り返ると、時代というものは本当に不思議なものだと思う。
明治時代には、国を強くすることが何より重視されていた。
富国強兵。
殖産興業。
欧米列強に追いつくこと。
そのために政府は多くの改革を進め、国民にも大きな負担を求めてきた。
しかし、大正時代になると、社会の雰囲気が少しずつ変わり始めた。
「政治は、一部の偉い人だけが決めるものではない」
「国民の声を、もっと政治に反映させるべきだ」
「働く人々にも権利がある」
そのような主張が、新聞や雑誌、演説会などで聞かれるようになっていた。
ある日、わしは新聞を読みながら呟いた。
「大正デモクラシー、か…」
愛海が尋ねた。
「あなた、また政治のお話ですか?」
「うむ。最近は、国民の権利について論じる記事が増えたのう」
「そうですね。昔とは随分違います」
わしは頷いた。
「明治の初めにも、自由民権運動があった。父上も、あの頃の政治の混乱についてよく話しておられた」
「覚えていますよ。お義父様は、民権運動の人々を警察官として取り締まる立場にいらしたこともありましたね」
「そうじゃ。しかし、今では政党が政権を担い、普通選挙まで議論されておる」
わしは新聞を畳んだ。
「わしが子どもの頃には、考えられなかったことじゃ」
二 病弱な大正天皇と政治の変化
大正という時代を語るうえで、明治天皇と大正天皇の違いも無視できなかった。
明治天皇は、近代国家の形成とともに長く在位し、国民から国家の象徴として強く意識されていた。
一方、大正天皇は即位以前から健康上の問題を抱えておられ、即位後も体調が優れないことがあった。
大正十年(1921)には、皇太子裕仁親王が摂政に就任された。
わしは、その知らせを聞いた日のことを覚えている。
「ついに摂政を置かれることになったか…」
兄上の寛之助が、静かに言った。
「陛下のお身体が、それほど優れぬということじゃな」
わしは頷いた。
「明治天皇の時代とは、随分と違うものですな」
兄上は腕を組んだ。
「しかし、天皇陛下のお身体だけで政治が変わるわけではあるまい」
「その通りじゃと思います」
わしは続けた。
「明治の頃から帝国議会も政党も存在しておった。大正になって突然、民主的な考えが生まれたわけではない」
実際、大正デモクラシーの背景には、都市化や教育の普及、新聞・雑誌の発展、政党政治の成長など、多くの要因があった。
天皇の病弱さが政治の雰囲気に影響した面はあっても、それだけで説明できるものではなかった。
兄上は静かに頷いた。
「国というものは、一人の人物だけで動くものではないということじゃな」
三 吉野作造の民本主義
大正デモクラシーを代表する思想の一つが、吉野作造の民本主義であった。
吉野作造は、政治は国民の利益と幸福を重んじ、国民の意思を尊重して行われるべきだと主張した。
当時の日本では、主権が天皇にあるとする大日本帝国憲法の体制が続いていたから、吉野は天皇主権の枠組みを直接否定するのではなく、政治運営において民意を重視する考えを説いたのである。
「父上、民本主義って、民主主義とは違うのか?」
光蔵が尋ねた。
「似ておるが、同じではない」
「どう違うんだ?」
「今の日本では、憲法上の主権は天皇にあるとされておる。吉野作造は、その制度のもとでも、政治は国民のために行われるべきだと説いたのじゃ」
光蔵は考え込んだ。
「つまり、政治をする人は、国民の暮らしを大切にしなきゃいけないってこと?」
「そうじゃな」
修蔵も会話に加わった。
「それなら、俺にも分かるよ。政治が国民の生活を無視していたら、何のための政治なのか分からないからな」
わしは頷いた。
「わしも軍人として、国を守ることを考えてきた。しかし、国を守るとは、そこに暮らす人々を守ることでもあるはずじゃ」
愛海が微笑んだ。
「あなた、最近は政治のお話でも、ずいぶん柔らかくなりましたね」
「そうかのう?」
「ええ。昔は軍人らしい考え方が強かったですもの」
わしは苦笑した。
「長く生きて、いろいろ考えるようになったのじゃろうな」
四 普通選挙を求める人々
衆議院議員選挙では、一定額以上の直接国税を納める男性だけが投票できた。
明治時代には、選挙権を持つ人々はごく限られていた。
しかし、社会の発展とともに、納税額によって選挙権を制限することへの批判が強まっていった。
大正八年(1919)には、選挙権に必要な直接国税の納税額が引き下げられた。
それでも、すべての成人男性に選挙権が認められたわけではなかった。
「納税額が少ないというだけで、政治に参加できないのはおかしい!」
そんな声が、各地で高まっていた。
ある日、わしは街で普通選挙を求める演説を耳にした。
「政治は、一部の富裕な人々だけのものではありません!」
「すべての成人男性に選挙権を!」
聴衆の中には、会社員や職人、学生など、さまざまな人々がいた。
わしは立ち止まり、しばらく演説を聞いていた。
すると、一人の若者がわしに気づいた。
「神楽坂中将ではありませんか!」
「うむ」
若者は少し緊張した様子で尋ねた。
「中将閣下は、普通選挙についてどうお考えですか?」
わしは少し考えた。
「政治に参加する人々が増えることは、国の将来にとって大きな意味を持つじゃろう」
「では、賛成なのですか?」
「制度を変えるには慎重な議論も必要じゃ。しかし、納税額だけで人の政治的な価値を決めることには、疑問がある」
若者は真剣に頷いた。
わしは続けた。
「国のために働き、税を納め、兵役にも就く人々が、政治に声を届けられぬというのは、考え直すべき問題じゃろう」
その言葉を聞いた若者は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
わしは小さく頷き、その場を離れた。
五 原敬の政党内閣と暗殺
大正七年(1918)。
米騒動によって寺内正毅内閣が退陣した後、原敬が内閣を組織した。
原敬は立憲政友会の総裁であり、爵位を持たない政治家として首相となったことから、「平民宰相」と呼ばれた。
衆議院で多数を占める政党を基盤とした本格的な政党内閣の成立は、大正デモクラシーを象徴する出来事であった。
しかし、原内閣には批判もあった。
政党と官僚、財界との結びつきや、選挙制度改革への消極的な姿勢などである。
わしは、原政権の動きを注意深く見ていた。
「政党政治が進むことは大切じゃが、それだけで国民の不満がなくなるわけではないのう」
ある日、修蔵にそう話したことがあった。
「父上、政治家って難しい仕事だな」
「そうじゃな。国民の期待を集めれば、その分だけ批判も受ける」
そして、大正十年(1921)十一月四日。
衝撃的な知らせが届いた。
原敬首相が、東京駅で刺殺されたのである。
「…何じゃと?」
わしは新聞を握りしめた。
「首相が…暗殺されたのか……」
愛海も驚いた。
「そんな……」
修蔵は険しい表情で言った。
「東京駅で起きたのか。俺たち鉄道の仕事に関わる者にとっても、衝撃だよ」
わしは深く息を吐いた。
政治に不満があることと、暴力で政治家の命を奪うことは、まったく別の問題である。
「意見が違うからといって、命を奪ってよいはずがない」
わしは静かに言った。
「政治は、言葉と制度によって変えてゆくべきものじゃ」
原敬の死は、政党政治の歩みが決して平坦ではないことを示していた。
六 労働組合と働く人々の権利
大正時代には、工業化の進展とともに、工場や鉱山などで働く人々が増えていた。
しかし、労働条件は必ずしもよいものではなかった。
長時間労働。
低賃金。
危険な作業。
労働災害。
女性や子どもたちの厳しい労働環境。
こうした問題を背景に、労働者たちは団結し、待遇の改善を求めるようになっていた。
大正元年(1912)には、鈴木文治らによって友愛会が結成された。
友愛会は当初、労働者の相互扶助や人格の向上を重視していたが、次第に労働運動の中心的な組織へと発展していった。
大正十年(1921)には、日本労働総同盟へと改称された。
ある日、光蔵が工場での出来事を話してくれた。
「父上、最近は労働者の権利について話す人が増えているんだ」
「ほう」
「工場では、機械の事故もあるし、長時間働いている人もいる。もっと安全に働けるようにしてほしいって声があるんだ」
わしは頷いた。
「もっともなことじゃ」
「でも、経営する側と働く側で意見が合わないことも多いんだよ」
「そうじゃろうな」
光蔵は真剣な表情で続けた。
「僕は、機械が進歩するなら、働く人たちの負担も減るべきだと思う」
「うむ」
「生産量が増えるだけじゃなくて、安全に働けるようになることも大切だよ」
わしは息子を見つめた。
幼い頃から機械を分解し、その仕組みに夢中になっていた光蔵。
その息子が今では、機械を使う人々のことまで考えるようになっていた。
「光蔵、お前の考えは立派じゃ」
「ありがとう、父上」
「技術の進歩は、人を苦しめるためにあるのではない。人の暮らしをよくするためにあるべきじゃ」
光蔵は嬉しそうに頷いた。
七 社会主義運動の広がり
労働運動の発展とともに、社会主義思想も広がっていった。
資本家と労働者の関係。
貧富の差。
土地や工場の所有。
そして、社会の仕組みそのものを変えるべきではないかという議論である。
日本では明治時代から社会主義運動が存在していたが、政府による厳しい取り締まりを受けてきた。
明治四十三年(1910)の大逆事件と、その翌年の幸徳秋水らの処刑は、社会主義者や思想家たちに大きな衝撃を与えた。
しかし、大正時代になると、再び社会主義や労働運動が活発になっていった。
大正11年(1922)には、日本共産党が非合法の組織として結成された。
わしは、その知らせを複雑な思いで受け止めた。
「社会の仕組みを根本から変えようという者たちも現れたか…」
兄上が尋ねた。
「蔵之助、お前はどう考える?」
「兄上、貧しい人々の暮らしを改善しようという願いには、理解できるところがある。だが、暴力によって社会を変えようとするのであれば、慎重でなければならん」
兄上は頷いた。
「それはそうじゃな」
わしは続けた。
「ただ、思想が違うというだけで、すべての人を危険視するのも正しくないと思う」
兄上はしばらく考えた。
「お前も、随分と考え方が変わったものじゃな」
わしは苦笑した。
「長く軍人を務めてきたが、国民の不満を力だけで抑え込んでも、根本的な問題は解決しないと感じるようになってきましたな」
兄上は静かに頷いた。
「なるほどな…」
わしは父上の言葉を思い出していた。
『人を従わせるのに、いつも力が必要なわけではない』
父上の教えは、こうした時代にも通じるものがあった。
八 全国水平社と差別撤廃
大正十一年(1922)。
京都で全国水平社が創立された。
被差別部落の人々が、自らの尊厳と解放を求めて立ち上がったのである。
全国水平社の創立宣言は、人間の尊厳を強く訴えるものであった。
わしは、その知らせを新聞で読んだ。
「…差別の撤廃か」
日本では、明治四年(1871)に、いわゆる解放令が出され、身分制度上の差別的な呼称は廃止されていた。
しかし、法律上の身分制度が変わっても、社会に根強く残る差別がなくなったわけではなかった。
結婚や就職、地域社会での扱いなど、さまざまな場面で差別が続いていた。
わしは、明治初期のことを思い出した。
父上が武士の身分を失った頃、社会の身分制度は大きく変わった。
しかし、制度が変わることと、人々の意識が変わることは別であった。
「なるほど、身分をなくしただけでは、差別はなくならぬのじゃな」
愛海が尋ねた。
「あなた、何を読んでいるんですか?」
「全国水平社という団体のことじゃ」
わしは新聞を見せた。愛海は静かに読んだ。
「人間として、平等に扱われたいという願いなのですね」
「そうじゃ。誰もが人として尊重される社会を築くこと。それは、簡単なことではないのう」
愛海は優しく言った。
「でも、そう願う人たちが声を上げることには、大きな意味があるのでしょうね」
わしは深く頷いた。
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後編 節子が見た女性たちの新しい時代
九 女性にも学ぶ権利を
ここからは、わたくし、野村節子がお話しいたします。
大正十四年(1925)。
わたくしは三十二歳になっていました。
父は六十一歳。
母は五十六歳。
そして、妹の春子は二十三歳になっておりました。
わたくしは教員として働きながら、女性の教育や社会参加について考える機会が増えていました。
明治時代、女性が高い教育を受けることは、まだ限られた人々にしか許されていませんでした。
しかし、明治から大正にかけて、女性の教育環境は少しずつ広がっていきました。
その歩みを語るうえで、忘れてはならない人物がいます。
津田梅子です。
津田梅子は、明治四年(1871)に岩倉使節団に同行してアメリカへ渡った、わずか六歳の少女でした。
その後、アメリカで教育を受け、日本へ帰国してからは女性の教育に力を注ぎました。
明治三十三年(1900)には、女子英学塾を創設しました。(後の津田塾大学)
わたくしは、津田梅子の歩みを知るたびに、深い尊敬の念を抱いておりました。
「女性も学び、自分の力で社会に貢献できる」
その考え方は、わたくし自身の人生にも大きな意味を持っていたのです。
ある日、わたくしは春子に話しました。
「春子、津田梅子という方をご存じ?」
「もちろんですわ、お姉様!」
春子は嬉しそうに答えました。
「女性の教育に力を尽くされた方ですわね」
「そうよ。まだ女性が高い教育を受けることが難しかった時代に、学校を作られたの」
春子は真剣な表情になりました。
「素晴らしい方ですわ…」
わたくしは頷きました。
「ええ。私たちが学び、働くことができるのも、そうした方々の努力があったからなのよ」
春子は微笑みました。
「わたくしも、人のお役に立てるよう、もっと学びたいですわ」
その言葉を聞いて、わたくしは嬉しくなりました。
十 青鞜と新しい女性像
大正時代の女性解放運動を語るうえで、もう一つ重要なものがありました。
明治四十四年(1911)に創刊された女性文芸誌『青鞜』です。
平塚らいてうらが中心となって創刊したこの雑誌は、女性が自分自身の考えや生き方を表現する場となりました。
女性は家庭に従うだけの存在ではない。
自分の意思を持ち、自分の人生を選ぶ権利がある。
そうした主張は、当時の社会に大きな反響を呼びました。
もちろん、批判も少なくありませんでした。
女性が自分の意見を強く主張することに、抵抗を感じる人々も多かったのです。
しかし、わたくしは思いました。
「女性が自分の考えを持つことは、決して悪いことではないわ」
ある日、父にそう話したことがありました。
父は静かに頷きました。
「そうじゃな。わしは昔から、家族の意思を尊重したいと思っておる」
「父上は、そういうところが昔から変わらないわね」
「ははは。愛海に口で負けることも多いからのう」
わたくしは笑ってしまいました。
「それは、父上が母上を大切にしている証拠よ」
父は少し照れたように笑いました。
十一 新婦人協会と女性の政治参加
大正九年(1920)。
平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらによって、新婦人協会が結成されました。
女性の社会的地位の向上や、政治参加の権利を求める運動です。
当時、女性は政治集会への参加などを法律によって制限されていました。
しかし、新婦人協会の活動などによって、大正十一年(1922)には治安警察法第五条が改正され、女性も政治集会に参加できるようになりました。
もっとも、女性が政党に加入することや、選挙で投票することは、なお認められていませんでした。
それでも、大きな前進でした。
わたくしは、その知らせを聞いた日のことを覚えています。
「女性も政治集会に参加できるようになったのね」
わたくしは新聞を読みながら呟きました。
春子が尋ねました。
「お姉様、それは大きな変化ですの?」
「ええ。今まで女性には認められていなかったことなのよ」
「まあ…」
春子は少し考え込みました。
「でも、女性も国の一員ですのに、どうして今まで参加できなかったのでしょう?」
わたくしは静かに答えました。
「昔から、政治は男性が担うものだという考え方が強かったからよ」
「それは不思議ですわ」
「そうね。でも、その考え方を変えようと努力している人たちがいるの」
春子は真剣な表情で頷きました。
「わたくしも、女性がもっと自由に学び、働ける時代になってほしいですわ」
わたくしは微笑みました。
「私も同じよ」
十二 普通選挙法と女性の置かれた立場
大正十四年(1925)。普通選挙法が成立しました。
しかし、選挙権が認められたのは、原則として満二十五歳以上の男性だけでした。
女性には、まだ選挙権がありませんでした。
「普通選挙…」
わたくしは新聞を見つめました。
「女性は含まれていないのね」
その言葉には、複雑な思いが込められていました。
男性の政治参加が広がることは、確かに大きな進歩です。
しかし、女性は依然として政治から排除されていたのです。
ある日、わたくしは父に尋ねました。
「父上、どうして女性には選挙権がないのかしら?」
父は少し考えました。
「今の社会では、政治は男性が担うものだという考えが根強いからじゃろうな」
「でも、女性も税金を納めているし、働いているわ」
「その通りじゃ」
「それなのに、政治に参加できないのは不公平だと思うの」
父は静かに頷きました。
「節子、お前の言うことはもっともじゃ」
わたくしは少し驚きました。
「父上…」
「わしが若い頃には、女性が政治に参加するなど、ほとんど考えられなかった。しかし、時代は変わっておる」
父は続けました。
「お前たちの世代が、さらに新しい社会を築いてゆくのじゃろう」
わたくしは微笑みました。
「ありがとう、父上」
父は優しく笑いました。
「わしは、お前たちが自分の意思で生きられる世の中になってほしいと思っておる」
その言葉は、わたくしにとって何よりの励ましでした。
十三 次の時代を生きる女性たち
その夜、わたくしは、春子と一緒に縁側に座っておりました。
春子は長い黒髪を背中へ流し、静かに夜空を眺めていました。
「お姉様」
「何、春子?」
「わたくしたちの時代は、これからどうなるのでしょうね」
わたくしは少し考えました。
「きっと、まだまだ変わっていくと思うわ」
「そうですわね」
「女性が学ぶことも、働くことも、政治に参加することも、今よりもっと当たり前になる日が来るかもしれない」
春子は微笑みました。
「素敵ですわ」
わたくしも微笑みました。
「でも、そのためには、今を生きる私たちが努力しなければならないのよ」
「ええ。わたくしも頑張りますわ」
わたくしは春子の手を握りました。
「春子。あなたはあなたらしく生きてね」
「もちろんですわ、お姉様!」
春子は嬉しそうに笑いました。
その笑顔を見ながら、わたくしは思いました。
父の世代は、江戸から明治への変化を経験しました。
わたくしたちの世代は、明治から大正への変化を経験しています。
そして、これから生まれてくる子どもたちは、さらに新しい時代を生きてゆくのでしょう。
女性の権利を求める運動は、まだ始まったばかりです。
しかし、その一歩一歩が、未来へとつながってゆくはずです。
わたくしは静かに夜空を見上げました。
いつか、女性も男性も、誰もが自分の意思で学び、働き、政治に参加できる時代が来ますように。
そう願いながら、わたくしは春子とともに、静かな大正の夜を過ごしたのでした。




