第三十六話 関東大震災
一 何でもないはずの土曜日
大正十二年(1923)九月一日、土曜日。
わしは五十九歳になっていた。
その日は軍務の休暇を取り、久しぶりに自宅でゆっくり過ごしていた。
東京は朝から蒸し暑かった。夏が終わろうとしているというのに、風は生ぬるく、蝉の声が庭から響いていた。
「あなた、少し休んでいてくださいね」
妻の愛海が、台所から声をかけた。
「うむ。今日は軍のことを考えずに過ごすとしよう」
「いつもそうおっしゃるのに、結局新聞を読んでいらっしゃるでしょう?」
「ははは。見抜かれておるのう」
その日の我が家には、光蔵の幼い子どもたちも預けられていた。
大空と日花梨である。
「おじいちゃん!」
大空が元気よく駆け寄ってきた。
「おお、大空。どうした?」
「これ、見て!」
差し出されたのは、木で作られた小さな玩具だった。
「ほう、飛行機か?」
「うん! お父さんが作ってくれた!」
「さすが光蔵じゃな。昔から機械が好きだったからのう」
わしが笑うと、大空も嬉しそうに笑った。
その傍らでは、日花梨が愛海の膝に座っていた。
「おばあちゃん、お花」
「まあ、綺麗ねえ」
愛海は小さな花を受け取り、優しく微笑んだ。
わしはその光景を眺めながら、何とも穏やかな気持ちになっていた。
父上が亡くなってから、もう三年。
あの頃よりも家族は増え、孫たちの声が家の中に響くようになっていた。
母上の志帆は八十歳になった今も健在で、朝から奥の印刷部屋にいた。
古い記録や文章を整理し、印刷物を確かめることが、近頃の母上の日課になっていた。
「母上、昼にはこちらへ来てくださいな」
愛海が声をかけると、奥から返事があった。
「ええ。あと少しで終わるからね」
何でもない、いつも通りの土曜日。
わしは、この日が生涯忘れられぬ日になるなど、夢にも思っていなかった。
二 午前十一時五十八分
昼食の支度が進み始めた頃であった。
最初は、足元がわずかに揺れたように感じた。
「…ん?」
わしは顔を上げた。
次の瞬間、
ゴゴゴゴゴッ!
地面の底から、恐ろしい音が響いた。
「地震じゃ!」
わしが叫ぶのと同時に、家全体が激しく揺れ始めた。
柱が軋み、障子が震え、棚の上の物が次々と落ちた。
「きゃあっ!」
愛海が日花梨を抱きしめた。
「大空! こちらへ来い!」
わしは大空を引き寄せ、倒れそうになった家具から離した。
揺れは一向に収まらなかった。
それどころか、ますます激しくなってゆく。
立っていることすら難しかった。
「あなた!」
「愛海、低く伏せるんじゃ! 頭を守れ!」
わしは大空を抱え、比較的安全な場所へ身を寄せた。
愛海も日花梨を庇いながら、身体を低くした。
食器の割れる音が響いた。
壁の一部が崩れ、庭では瓦が落ちていた。
「おじいちゃん、怖い!」
大空が泣き叫んだ。
「大丈夫じゃ! わしがついておる!」
そう言いながらも、わし自身、これほど激しい揺れを経験したことはなかった。
日清戦争でも、日露戦争でも、世界戦争でも、砲撃の恐ろしさは知っていた。
だが、今は敵も戦場もない。
大地そのものが、わしらを襲っていた。
「母上!」
奥の印刷部屋が気になった。
「母上! 聞こえますか!」
しかし、轟音にかき消され、返事は聞こえなかった。
わしは立ち上がろうとしたが、激しい揺れに阻まれた。
「あなた、今は危険です!」
愛海が叫んだ。
わしは歯を食いしばった。
「母上…!」
やがて、長く感じられた激しい揺れが、少しずつ弱まっていった。
三 母上を探して
「愛海、大空と日花梨を頼む!」
揺れがいったん収まると、わしは奥の部屋へ向かった。
廊下には落ちた物が散乱していた。
「母上!」
印刷部屋の入口は、倒れた道具で塞がれかけていた。
わしはそれを押しのけた。
「母上!」
「…蔵之助?」
中から声が聞こえた。
「母上!」
部屋へ入ると、母上は作業台の脇で身を低くしていた。
紙が床一面に散らばり、棚から落ちた道具が周囲に転がっていた。
「お怪我はありませんか!」
「ええ。大丈夫よ」
母上は落ち着いていた。
「ずいぶん大きな地震だったわねえ」
「大きいどころではありませんぞ!」
わしは母上の腕を支えた。
「すぐに外へ出ましょう」
「愛海さんと子どもたちは?」
「無事です!」
「それならよかった」
母上は、床に散らばった紙を一度だけ見つめた。
「せっかく整理したものが、台無しね」
「母上! 今は紙より命です!」
「ふふっ。そうね」
その落ち着きぶりに、わしは驚くほかなかった。
八十年の人生で幾度も大きな変化を経験してきた母上であったが、これほどの地震の最中でも、取り乱してはいなかった。
しかし、その手がわずかに震えていることに、わしは気づいていた。母上もまた、恐ろしかったのである。
四 避難場所へ
わしらは庭へ出た。
近所から悲鳴が聞こえ、家々の瓦が落ち、土埃が舞っていた。
遠くでは、すでに煙が上がり始めていた。
「火事じゃ!」
誰かが叫んだ。
地震だけではない、火災が起こっていた。
わしはすぐに判断した。
「愛海、母上、大空、日花梨。以前決めておいた集合場所へ向かうぞ!」
我が家では、以前から火災や地震に備え、家族が離れ離れになった場合の集合場所を決めていた。
近くの広い空地を第一の集合場所とし、火災が迫った場合には、さらに広い避難場所へ移ることにしていたのである。
軍務で危機管理に携わってきたわしが、家族にも提案した備えであった。
「おじいちゃん、また揺れるの?」
大空が不安そうに尋ねた。
「揺れるかもしれん。じゃが、落ち着いて歩くんじゃ」
わしは大空の手を握った。
愛海は日花梨を抱き、母上もわしらとともに歩いた。
道には瓦や木片が散乱していた。
余震が来るたび、人々は悲鳴を上げた。
「また揺れた!」
「建物から離れろ!」
わしらも立ち止まり、周囲を確かめながら進んだ。
やがて、決めていた空地へ到着した。
そこには、すでに多くの住民が集まっていた。
しかし、わしの家族はまだ揃っていなかった。
「修蔵…節子…光蔵…春子…」
わしは一人ずつ名前を呟いた。
全員、仕事に出ているはずだった。
五 次々と帰ってくる家族
最初に姿を現したのは、修蔵だった。
「父上!」
「修蔵!」
修蔵は息を切らして駆け寄ってきた。
「無事だったか!」
「俺は大丈夫だ! 鉄道の方は大変なことになってる。線路も設備も被害を受けている!」
「そうか…」
「家族は!?」
「愛海も母上も、大空も日花梨も無事じゃ!」
修蔵は大きく息を吐いた。
続いて、節子が姿を現した。
「父上!」
「節子!」
「学校の子どもたちを避難させていたの。皆、怖がっていたわ」
「よくやった」
節子は愛海に抱きついた。
「母上、無事でよかった…!」
その後、光蔵も駆けつけた。
「父上!」
「光蔵!」
「工場の機械が倒れて、危ないところだったよ!」
光蔵はすぐに大空と日花梨の姿を探した。
「大空!日花梨!」
「お父さん!」
大空が駆け寄った。
光蔵は二人を強く抱きしめた。
「よかった…本当によかった…!」
わしはその姿を見て、ようやく少し安堵した。
そして、最後に春子が駆けつけた。
「お父様!」
「春子!」
春子は看護婦としての務め先から、救護の手伝いをした後、家族を確かめに来たのであった。
その顔には疲労が浮かび、衣服には土埃がついていた。
「お父様…皆様、ご無事ですのね…!」
「うむ。春子も無事でよかった」
春子は愛海と母上に抱きついた。
「本当に…本当に、よかったですわ…!」
長い黒髪が揺れ、春子の肩が震えていた。
わしは娘の背中を優しく撫でた。
「よく帰ってきたのう」
さらに、修蔵の長男・義蔵や、節子の長女・奈恵も、学校から避難した後、家族のもとへ戻ってきた。
「祖父上!」
「義蔵!」
義蔵は泣きながら、わしに抱きついた。
「学校がすごく揺れたんだ!」
「怖かったじゃろう」
「うん…」
奈恵も節子の手を握り、涙を浮かべていた。
「お母さん…」
「奈恵、もう大丈夫よ」
節子は娘を抱きしめた。
わしは家族の顔を見渡した。
一人、また一人と戻ってくる。
そのたびに、胸の奥の重い石が少しずつ取り除かれてゆくようだった。
六 寛之助兄上の安否
しかし、まだ気がかりなことがあった。
兄上、寛之助のことである。
海軍の仕事場にいたはずだが、無事なのか分からなかった。
「兄上は…」
わしは何度も周囲を見渡した。
やがて、連絡に走っていた者が知らせを持ってきた。
「神楽坂中将!」
「何じゃ!」
「寛之助閣下はご無事です!海軍の関係者とともに避難指示や救助に当たっておられます!」
わしは思わず空を仰いだ。
「…兄上、無事か」
胸の奥から、大きな安堵が込み上げてきた。
父上が亡くなってから、兄上はわしにとって、幼い頃からの記憶を共有する最も近い存在であった。
その兄上まで失っていたらと思うと、恐ろしくてならなかった。
「よかった…」
愛海も静かに頷いた。
「寛之助さんもご無事で、本当によかったですね」
しかし、わしらの安心は、長くは続かなかった。
七 東がいない
「…あれ?」
修蔵が周囲を見渡した。
「康弘と東は?」
その言葉に、わしは顔を上げた。
二人は地震の前、外で遊んでいたはずだった。
「まだ戻っておらんのか?」
家族がざわついた。
「誰か見かけなかった?」
節子が尋ねた。誰も答えられなかった。
そのとき、遠くから小さな影が走ってきた。
「お祖父ちゃん!」
康弘だった。
「康弘!」
家族が駆け寄った。
康弘は泣きながら、必死に息を整えた。
「怖かった…!」
「よく戻ってきた! 怪我はないか!」
わしが尋ねると、康弘は首を振った。
そして、震える声で言った。
「……東が……」
わしの胸が凍りついた。
「東がどうした?」
「一緒に遊んでたのに…地震が来て…」
康弘は涙を流した。
「人がいっぱい走ってきて…離れちゃって……」
「…何じゃと?」
「探したけど……東がいない……!」
その場が静まり返った。
「東が…いない……?」
修蔵が呟いた。
わしは康弘の肩を握った。
「最後に見た場所を覚えておるか?」
康弘は泣きながら頷いた。
「うん…でも、みんな逃げてて……」
わしは立ち上がった。
「探しに行く」
愛海がわしの腕を掴んだ。
「あなた!」
「東が一人でおるかもしれん!」
「でも、火事が…!」
わしは周囲を見渡した。
遠くの空は、すでに赤く染まり始めていた。
それでも、じっとしていることなどできなかった。
「修蔵、光蔵。わしと来い!」
二人はすぐに頷いた。
「分かった!」
「僕も行く!」
春子も立ち上がった。
「わたくしも…!」
「春子はここに残り、怪我人の手当てを頼む!」
わしは娘を見つめた。
「お前にしかできぬ仕事がある」
春子は唇を噛みしめた。
「…分かりましたわ」
わしは康弘から聞いた場所へ向かった。
八 炎と煙の中で
街は、すでに地震直後とは違う姿になっていた。
あちこちから煙が上がり、倒壊した建物が道を塞いでいた。
「東!」
わしは叫んだ。
「東!どこじゃ!」
修蔵と光蔵も名前を呼び続けた。
「東!」
「東!返事をしてくれ!」
しかし、返事はなかった。
余震が来るたび、周囲の建物が軋んだ。
火災の熱気が、離れた場所からでも伝わってきた。
「父上、これ以上は危険だ!」
修蔵が叫んだ。
「まだ探せる!」
「でも、火が回ってきてる!」
わしは歯を食いしばった。
軍人として、危険な場所へ進むことには慣れていた。
しかし、今は戦場ではない。
家族を探すために、命を懸けているのである。
「東…!」
わしは何度も名前を呼んだ。
やがて、消防や救助に当たる人々から、これ以上の立ち入りは危険だと告げられた。
わしらは、いったん退かざるを得なかった。
避難場所へ戻ると、家族が一斉に駆け寄ってきた。
「東は!?」
愛海が尋ねた。わしは首を横に振った。
「…見つからない」
その瞬間、家族の表情が変わった。
誰も、次の言葉を口にできなかった。
九 戻らない一人
夜になった。東京の空は、あちこちで赤く染まっていた。火災の光が、遠くからでも見えた。
避難してきた人々の泣き声。
家族を探す声。
負傷者のうめき声。
そのすべてが、夜の空気に混じっていた。
春子は救護を手伝いながら、何度もわしの方を見た。
「お父様…東は…?」
わしは首を横に振った。
「まだじゃ……」
春子は目を伏せた。
「…そうですのね」
愛海は幼い孫たちを抱き寄せていた。
大空も日花梨も、疲れ果てて眠っていた。
義蔵は黙って座っていた。
奈恵も、いつものように元気な声を出すことはなかった。
「祖父上…」
義蔵が小さく尋ねた。
「東は、帰ってくるよね?」
わしは答えられなかった。帰ってくると信じたい。
しかし、確かなことは何も分からない。
「…わしらは、探し続ける」
それが、わしに言える精一杯の言葉だった。
十 朝鮮人をめぐる流言
震災の混乱の中、さらに恐ろしいことが起こった。
朝鮮人が井戸に毒を入れた。
朝鮮人が放火している。
朝鮮人が暴動を起こしている。
そのような根拠のない噂が、各地で広がり始めたのである。
混乱と恐怖の中で、噂を信じた人々が自警団を作り、朝鮮人を襲う事件が相次いだ。
朝鮮人だけでなく、朝鮮人と誤認された日本人や中国人なども被害を受けた。
わしは、その光景を目の当たりにした。
ある日、わしが救援物資の運搬を手伝っていたときのことだった。
道の向こうで、数人の男たちが一人の若者を取り囲んでいた。
「お前、朝鮮人だろう!」
「違います! 何もしていません!」
若者は必死に訴えていた。
しかし、男たちは耳を貸さなかった。
「井戸に毒を入れたんじゃないのか!」
「白状しろ!」
一人が棒を振り上げた。
「やめんか!」
わしは大声で叫んだ。
男たちが振り返った。
「何だ、あんたは!」
わしは前へ進んだ。
「その者に何をしておる!」
「朝鮮人が怪しいことをしているんだ!」
「何をしたという証拠がある!」
「噂では…」
「噂じゃと!?」
わしは声を荒らげた。
「噂だけで人を殴るのか!」
男たちは一瞬、言葉を失った。
わしは続けた。
「今は地震で多くの人が苦しんでおる! 助け合わねばならぬときに、何をしておる!」
「しかし、危険だと…」
「危険なのは、確かめもせず人を襲うお前たちの行いじゃ!」
わしは若者の前に立った。
「この者が何か罪を犯したというなら、証拠を示せ。そうでなければ、手を出すことは許さん!」
男たちは互いに顔を見合わせた。
そのうち一人が、わしの顔に気づいた。
「…神楽坂の中将さん?」
わしは頷いた。
「そうじゃ」
男たちは気まずそうに棒を下ろした。
「…すみません」
「謝る相手が違う!」
わしが言うと、男たちは若者へ頭を下げた。
わしは若者を安全な場所へ連れてゆき、救護に当たる人々へ引き継いだ。
若者は震える声で言った。
「…ありがとうございます」
わしは静かに答えた。
「礼には及ばん。どうか、生き延びてくれ」
その場を離れた後、わしは亡き父を思い出した。
父上なら、何と言っただろうか。
元旗本であり、明治には警察官として地域の秩序を守った父。
喧嘩を止め、弱い者を守り、筋を通すことを大切にした父。
きっと、こう言ったに違いない。
『噂に踊らされて人を傷つけるとは、何たることじゃ。人として恥を知れ』
わしは静かに目を閉じた。
「父上……」
父が遺した教えは、今もわしの中に生きていた。
しかし、わしが一人を守れたとしても、各地で起きた暴力をすべて止められたわけではなかった。
多くの無実の人々が命を奪われた。
その事実は、震災の被害とは別に、決して忘れてはならない人間の過ちであった。
十一 寛之助家にも広がる被害
数日後、兄上の家族からも、被害の知らせが届いた。
兄上自身は無事であったが、家族や親族の一部は避難中に負傷し、孫たちの中にも怪我をした者がいた。
「兄上…」
わしは兄上と再会した。
兄上は疲れ切った表情をしていた。
「蔵之助…お前たちは無事か」
「多くは無事じゃ。しかし…東が見つからぬ」
兄上の表情が曇った。
「…そうか」
「兄上の方は?」
「孫の中にも怪我をした者がおる。幸い、命は取り留めたが……」
兄上は深く息を吐いた。
「まさか、これほどの災害になるとはな」
わしは頷いた。
「日露戦争の戦場でも、これほど多くの民家が一度に焼ける光景は見たことがない」
兄上はしばらく黙っていた。
そして、わしの肩に手を置いた。
「蔵之助。東のことは、わしも探す」
「…兄上」
「諦めるな。できる限りのことをしよう」
わしは深く頭を下げた。
「ありがとう」
十二 壊滅した帝都
関東大震災は、東京と横浜を中心に甚大な被害をもたらした。
地震によって多くの建物が倒壊し、その後に発生した火災が市街地を焼き尽くした。
東京では、木造家屋が密集していた地域を中心に火が広がり、逃げ場を失った人々が多数亡くなった。
陸軍被服廠跡では、避難していた数万人が火災旋風などに巻き込まれ、命を落とした。
わしは、その知らせを聞いて言葉を失った。
「……数万人が、一か所で……」
戦争では、敵と味方が武器を持って戦う。
しかし、この災害では、逃げ惑う市民たちが次々と命を失っていた。
子どもも、老人も、病人も。
誰もが突然、命の危険にさらされたのである。
わしは救援活動に加わり、食料や水の配給、避難者の誘導、負傷者の搬送などを手伝った。
春子も看護婦として、休む間もなく負傷者の手当てに当たっていた。
「春子、少し休め」
わしが声をかけると、春子は疲れた顔で微笑んだ。
「ありがとうございます、お父様。でも、まだ手当てを待っている方がいらっしゃいますの」
「無理をするな」
「はい。気をつけますわ」
春子は、そう言って再び救護へ戻っていった。
わしは娘の背中を見つめた。
かつて、大正ロマンの華やかな服装を見せてくれた娘。
その春子が今、傷ついた人々のために働いている。
時代の華やかさの裏には、こうした現実もあるのだと思い知らされた。
十三 東を探し続けて
震災から一週間、わしらは東を探し続けた。
避難所。
救護所。
病院。
行方不明者の情報が集められている場所。
名前を書いた紙を掲げ、何度も尋ね歩いた。
「この子を見かけませんでしたか?」
「東という名前の子です」
「地震の日、外で遊んでいたのです」
しかし、手がかりは見つからなかった。
康弘は、自分を責めていた。
「僕が…東と離れなければ……」
わしは康弘の前にしゃがんだ。
「康弘」
「はい」
「お前は悪くない」
康弘は涙を流した。
「でも……」
「地震のとき、お前も必死に逃げたのじゃろう」
「…うん」
「それでよい。お前が生きて戻ってきてくれたことを、わしらは喜んでおる」
わしは康弘を抱きしめた。
「東のことは、大人たちが探す。お前は自分を責めてはならん」
康弘は声を上げて泣いた。
わしも、涙をこらえることができなかった。
十四 復興へ向かう東京
震災から月日が経つにつれ、東京では復興が始まった。
焼け跡には仮設の住まいや商店が建ち、人々は少しずつ生活を取り戻そうとしていた。
政府も帝都復興に向けた計画を進め、道路や橋、公園などの整備が検討された。
わしは復興工事の様子を見ながら、かつて父上から聞いた明治維新の話を思い出していた。
江戸幕府が倒れたとき。
武士の時代が終わったとき。
人々は、それまで当たり前だった社会を失った。
しかし、それでも新しい時代を築いてきた。
今度は、地震によって東京の街そのものが大きく傷ついた。
それでも、人々は再び立ち上がろうとしていた。
「人間は、強いものじゃな」
わしは呟いた。
修蔵も、鉄道の復旧に力を尽くしていた。
「父上、少しずつだけど、運転を再開できる区間も増えてきたよ」
「そうか」
「鉄道が動けば、物資も人も運べる。復興には欠かせないからな」
光蔵も工場の設備復旧に携わっていた。
「僕も、壊れた機械を直す仕事が増えたよ」
「大変じゃろう」
「うん。でも、機械が動けば、また物を作れるからね」
節子は、学校を再開するために奔走していた。
「子どもたちが安心して勉強できる場所を、早く取り戻したいわ」
春子は、被災者の健康を守るために働き続けていた。
それぞれが、自分の仕事を通じて復興を支えていたのである。
わしは子どもたちを見つめ、誇らしく思った。
十五 戻らなかった東
しかし、東京が少しずつ復興してゆく一方で、わしらの家族には、埋まらない空白が残っていた。
東は、帰ってこなかった。
一か月が過ぎても。
半年が過ぎても。
一年が過ぎても。
東の行方は分からなかった。
わしらは何度も情報を集め、可能な限り探し続けた。
しかし、確かな手がかりは得られなかった。
ある日、わしは東が遊んでいたという場所を訪ねた。
そこには、すでに新しい建物が建ち始めていた。
かつての街並みは、ほとんど残っていなかった。
「……東」
わしは小さく呟いた。
「どこへ行ってしまったのじゃ……」
返事はなかった。
風が吹き、工事の音が響いた。
東京は前へ進んでいる。
しかし、わしの心の一部は、あの日のまま止まっていた。
十六 家族の中に残った空席
震災から数年が経っても、家族が集まるたび、わしは東のことを思い出した。
食卓を囲むとき。
孫たちが遊んでいるとき。
誕生日を祝うとき。
そこには、いつも一人分の空白があるように感じられた。
義蔵は成長し、奈恵も少しずつ大きくなっていった。
康弘もまた、以前より静かな少年になっていた。
大空や日花梨は、震災当日の記憶が薄れてゆく年齢であった。
しかし、東の名前が家族から消えることはなかった。
ある日、愛海がわしに言った。
「あなた…東のこと、また考えていらっしゃるのね」
「…うむ」
「私もよ」
愛海は静かに続けた。
「あの子がどこかで生きているのなら、いつか帰ってきてほしい」
わしは頷いた。
「そうじゃな…」
「でも、もし……」
愛海は言葉を止めた。
わしは妻の手を握った。
「分かっておる」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
生きていると信じたい。
しかし、現実には何も分からない。
その苦しさは、年月が経っても消えることがなかった。
十七 震災が遺したもの
関東大震災は、東京の街を大きく変えた。
多くの命が失われ、家族が引き裂かれ、住まいも仕事も奪われた。
一方で、人々は互いに助け合い、復興へ向かって歩み始めた。
そして、震災の混乱の中で広がった流言によって、無実の人々が襲われ、命を奪われた。
その過ちもまた、忘れてはならない。
わしは軍人として、長年戦争を経験してきた。
しかし、この震災で思い知らされたことがあった。
人の命を守るために必要なのは、武器や階級だけではない。正しい情報、冷静な判断、そして他人を思いやる心なのだ。
父上が生きておられたなら、きっと同じことをおっしゃっただろう。
わしは父上の遺影の前に座った。
「父上…」
あの日、父上が亡くなったとき、わしは大きな悲しみを味わった。
しかし、今度は東の行方すら分からない。
別れの言葉を交わすこともできず、ただ待ち続けるしかない。
その苦しさは、また違ったものであった。
「わしは…まだ、東を待っております」
わしは静かに呟いた。
「いつか、帰ってきてくれると信じたいのです」
窓の外には、復興しつつある東京の街が広がっていた。
新しい建物が建ち、人々の声が戻り、電車も再び走り始めていた。
しかし、失われた命と、戻らない家族の存在まで、復興によって元通りになるわけではなかった。
わしは五十九歳で、また一つ、忘れられない悲しみを背負った。
それでも、生きている家族を守らねばならない。
東のことを忘れず、残された子どもたちや孫たちとともに、前へ進まねばならない。
わしは静かに立ち上がった。
「東…」
その名を、もう一度だけ呼んだ。
東京の街は復興してゆく。だが、わしらの家族に残された一人分の空白だけは、何年経っても埋まることがなかった。




