第三十五話 大正ロマンと都市化 前編
前半 変わりゆく東京と春子の大正ロマン
一 大衆の時代
大正十一年(1912)。わしは五十八歳になっていた。
江戸時代に生まれ、明治維新を経験し、日清・日露戦争、そして世界戦争を見届けたわしにとって、東京の変化はもはや驚きの連続であった。
しかし、近頃の変化は、それまでとは少し違っていた。
明治の文明開化では、鉄道や電信、ガス灯など、新しい技術が次々と現れた。
それに対して大正時代には、そうした技術が人々の日常生活へと広がり、暮らしそのものを変え始めていたのである。
ある日、わしは新聞を読みながら呟いた。
「大衆の時代、か…」
政治や経済だけではない。
新聞、雑誌、映画、百貨店。
それまで一部の人々しか楽しめなかったものが、より多くの人々の生活へ入り込んでいた。
街には広告が溢れ、新聞には新商品や娯楽の話題が並んでいた。
「父上、何を読んでいるんだ?」
長男の修蔵が尋ねた。
「最近の東京の変化についてじゃ」
「そりゃ、随分と変わったよな」
修蔵は笑った。
「俺が子どもの頃と比べても、電車も店も増えた。父上が子どもの頃なんて、もっと違ったんだろう?」
「違うどころではないぞ。わしが幼い頃には、まだ江戸の面影が色濃く残っておった」
「そう考えると、父上の人生ってすごいな」
わしは苦笑した。
「長く生きておると、驚くことばかりじゃ」
二 私鉄が広げる東京
都市化を象徴するものの一つが、鉄道であった。
明治初期に新橋と横浜の間を走り始めた鉄道は、今や日本各地へ広がっていた。
さらに東京周辺では、私鉄による郊外への路線整備が進み、都市の範囲そのものが広がり始めていた。
ある日、修蔵が鉄道路線の地図を広げていた。
「父上、これを見てくれ」
「何じゃ?」
「最近の東京周辺の鉄道路線だよ。市街地の外へも、少しずつ線路が延びているんだ」
わしは地図を覗き込んだ。
「ほう…。随分と広がったものじゃな」
「私鉄が増えれば、郊外から都心へ通勤する人も増えるだろうな」
「通勤か…」
わしはその言葉を繰り返した。
「昔は、仕事場の近くに住む者も多かった。今では遠くから電車に乗って働きに行くのか」
「そういう暮らしが増えているんだ」
修蔵は嬉しそうに続けた。
「鉄道は、ただ人を運ぶだけじゃない。人がどこに住み、どこで働くかまで変えてしまうんだよ」
わしは息子を見つめた。
幼い頃、蒸気機関車に目を輝かせていた修蔵。
その息子が今では鉄道の仕事に携わり、都市の発展について語っている。
「修蔵、お前も立派になったのう」
「何だよ、急に」
「いや、昔は汽車を見るだけで大喜びしておったのにと思ってな」
「父上、それは何年前の話だよ!」
わしは大笑いした。
三 サラリーマンと職業婦人
都市化とともに、人々の働き方も変わり始めていた。
会社や銀行、官庁などに勤め、毎月決まった給料を受け取る人々。
いわゆるサラリーマンと呼ばれる会社勤めの男性たちが、都市で存在感を増していた。
背広を着て帽子をかぶり、鞄を持って電車に乗る。
そんな姿が、東京の朝の風景となりつつあった。
「昔の武士が、今のサラリーマンを見たら何と思うじゃろうな」
わしが呟くと、愛海が笑った。
「あなたは今も軍服を着て出勤しているでしょう?」
「それはそうじゃが…」
「服装が違うだけで、家族のために働くところは同じですよ」
「なるほど。愛海の言う通りじゃ」
一方、女性の働き方にも変化が現れていた。
電話交換手、事務員、店員、看護婦、教員。
都市では、家庭の外で働く女性たちが目立つようになっていた。職業婦人と呼ばれる人々である。
ある日、節子が話し始めた。
「父上、最近は女性が働くことについて、いろいろな考え方があるのよ」
「ほう?」
「女性は家庭にいるべきだという人もいるけれど、自分の仕事を持ちたいと考える女性も増えているわ」
わしは頷いた。
「節子も教員として働いておるからな」
「そうね。でも、まだ女性が働き続けるには難しいことも多いの」
「そうなのか」
「結婚したら仕事を辞めるべきだと言われることもあるし、男性と同じように扱われるわけでもないわ」
わしはしばらく考えた。
「なるほど…。新しい職業が増えても、考え方がすぐに変わるわけではないのじゃな」
節子は微笑んだ。
「そういうことよ、父上」
そのとき、春子が会話に加わった。
「わたくしも、将来は人のお役に立つ仕事をしたいですわ」
「ほう、春子もか」
「ええ。病気の方や、お身体の弱い方を助ける仕事に興味がありますの」
わしは春子を見つめた。
「それは立派なことじゃ」
「ありがとうございます、お父様!」
わしは、春子が将来、看護の道へ進むことになるのだろうかと、少し考えた。
幼い頃から人を思いやる気持ちの強い娘らしい願いだと思った。
四 大正ロマンの街並み
東京の街には、新しい文化が次々と広がっていた。
洋風の建物。
大きなガラス窓を備えた商店。
喫茶店やカフェ。
映画館。
百貨店。
そして、洋服を着た男女。
ある日、わしは愛海と春子を連れて、銀座の街を歩いていた。
「まあ、お父様! あちらのお店をご覧になって!」
春子が指さしたのは、洋風の装飾が施された商店であった。
「随分と華やかな店じゃな」
「素敵ですわ!」
春子は目を輝かせていた。
店の窓には、色鮮やかな洋服や帽子が飾られていた。
通りには背広姿の男性や、洋装の女性も歩いていた。
もっとも、街全体が洋服ばかりになったわけではない。
和服姿の人々も多く、洋装と和装が入り交じっていた。
「まるで、外国の街へ来たようじゃ」
わしが呟くと、愛海が笑った。
「あなた、明治の文明開化の頃も同じことを言っていませんでしたか?」
「そうだったかのう」
「ええ。新しいものを見るたびに驚いていましたよ」
「わしは驚きやすい性格なのかもしれんな」
春子がくすくすと笑った。
「お父様ったら、かわいらしいですわ!」
「何じゃと!?」
わしが驚くと、春子はさらに笑った。
五 断髪の流行
その頃、女性の髪型にも変化が現れていた。
明治時代には、女性が長い髪を結い上げる姿が一般的であった。
しかし、大正時代になると、洋髪が広がり、短く髪を切る女性も現れ始めた。
街を歩いていると、春子が一人の女性を指さした。
「お父様、あの方をご覧になって!」
「何じゃ?」
「髪を短く切っていらっしゃいますわ!」
わしは驚いた。
「ほう…。随分と思い切った髪型じゃな」
「素敵ですわね」
春子は興味深そうに女性を見つめた。
わしは思わず尋ねた。
「春子、お前も髪を切りたいのか?」
すると春子は、驚いたように振り返った。
「まあ! わたくしは切りませんわ!」
「そうなのか?」
「ええ。この髪は、わたくしの大切なものですもの」
春子は腰近くまで伸びた、艶やかな黒髪をそっと手に取った。
「もちろん、短い髪も素敵ですわ。でも、わたくしは長い髪が好きなのです」
愛海が微笑んだ。
「春子は小さい頃から髪が綺麗だったものね」
「ありがとうございます、お母様」
わしも頷いた。
「うむ。春子の髪は、本当に立派じゃ」
春子は嬉しそうに笑った。
「では、お父様。これからも大切に伸ばしますわ!」
「そうするとよい」
そのときのわしは、この娘がはるか未来まで長い黒髪を大切にすることになるとは、夢にも思わなかった。
六 春子の大正ロマン
それから数日後、わしは書斎で新聞を読んでいた。
すると、廊下から春子の声が聞こえてきた。
「お父様! 少しよろしいかしら?」
「何じゃ、春子」
「新しいお洋服を見ていただきたいのですわ!」
「ほう。入っておいで」
襖が開いた。そして、春子が姿を現した。
「いかがですの?」
わしは思わず新聞を落としそうになった。
春子が身につけていたのは、大正ロマンの雰囲気を漂わせる華やかな装いであった。
明るい色彩と大胆な模様の着物。
それに合わせた袴。
足元には編み上げのブーツ。
長い黒髪には、上品な大きさのリボンが飾られていた。
「…春子!?」
「はい、お父様?」
「何じゃ、その派手な格好は!」
春子は目を丸くした。
「まあ! 派手ですって?」
「着物の色も模様も、随分と華やかではないか!」
「それが素敵なのですわ!」
春子はくるりと回ってみせた。
袴の裾が揺れ、艶やかな黒髪がふわりと広がった。
「どうですの? とてもかわいらしいでしょう?」
わしは腕を組んだ。
「ううむ…。わしが若い頃には、そんな格好は見かけなかったぞ」
すると春子は、少し頬を膨らませた。
「もう! お父様は古いのよ!」
「な、何じゃと!?」
わしは思わず立ち上がった。
「わしが古いじゃと!?」
「ええ!今は大正時代ですわ!明治でも江戸でもありませんの!」
「それは分かっておる!」
「でしたら、新しい流行も認めてくださいませ!」
春子は腰に手を当て、少し得意そうに胸を張った。
わしは言葉に詰まった。
そこへ愛海がやってきた。
「あなた、何を騒いでいるんですか?」
「愛海!春子がこんな派手な格好をしておるのじゃ!」
愛海は春子を見て、にっこりと笑った。
「あら、とても似合っているじゃない!」
「母上!」
春子は嬉しそうに駆け寄った。
「お母様は分かってくださいますのね!」
「もちろんよ。色合いも綺麗だし、春子らしくて素敵だわ」
わしは呆然とした。
「愛海まで…」
愛海は笑いながら言った。
「あなた、女の子のおしゃれにまで口を出すのは野暮ですよ」
「野暮じゃと!?」
「ええ。春子が気に入っているなら、それでよいでしょう?」
わしは春子を見つめた。
春子は期待に満ちた表情で、こちらを見ていた。
「…まあ、似合っておるとは思うが」
「本当ですの!?」
「うむ。少し派手だが、かわいらしいのう」
春子の顔がぱっと明るくなった。
「まあ!ありがとうございます、お父様!」
そして、嬉しそうにわしへ抱きついてきた。
「お父様、大好きですわ!」
「こ、こら春子! 袴が乱れるぞ!」
愛海はその様子を見て、大笑いしていた。
七 父と娘の時代の違い
その夜、わしは縁側に座り、春子と話していた。
春子は昼間の華やかな装いから普段着に戻り、長い黒髪を背中へ流していた。
「お父様」
「何じゃ?」
「今日は、少し言い過ぎてしまいましたわ」
「何のことじゃ?」
「お父様を古いと言ってしまったことですの」
わしは小さく笑った。
「気にするな。実際、わしは江戸時代に生まれた人間じゃからな」
春子は少し首を傾げた。
「でも、お父様は新しいものが嫌いなのではありませんわよね?」
「もちろんじゃ。鉄道も電信も飛行機も、わしはその発展を見てきた」
「でしたら、どうして今日のお洋服には驚かれたの?」
わしは少し考えた。
「…お前が大きくなったからかもしれんな」
「わたくしが?」
「そうじゃ。わしの中では、お前はまだ小さな春子なのじゃ」
春子は静かに微笑んだ。
「お父様…」
「それがいつの間にか、流行の服を選び、自分の好みをはっきり言うようになった」
わしは春子の顔を見つめた。
「少し寂しいのかもしれん」
春子はしばらく黙っていた。
そして、わしの隣へ座り直した。
「お父様。わたくし、大人になってもお父様の娘ですわ」
「うむ」
「お洋服が変わっても、髪型が変わっても、わたくしはわたくしですの」
わしは静かに頷いた。
「そうじゃな」
春子は微笑んだ。
「ですから、これからも新しいお洋服を見てくださいませね!」
「ははは! また派手な格好をするつもりか!」
「もちろんですわ!」
二人で笑った。
八 大正の街に思うこと
数日後、わしは一人で東京の街を歩いていた。
電車が走り、自動車が行き交い、洋装の男女が歩いていた。
新聞売りの声。
商店の呼び込み。
工場の機械音。
映画館の看板。
そのすべてが、大正という時代の活気を物語っていた。
わしはふと立ち止まった。
幼い頃、この街にはまだ江戸の面影が残っていた。
父上は刀を差して歩き、祖父上は武士としての誇りを語っていた。
それが今では、サラリーマンが電車に乗り、職業婦人が働き、若者たちが洋服を着て街を歩いている。
「…父上がご覧になったら、何とおっしゃるじゃろうな」
前年に亡くなった父・権兵衛の姿が、脳裏に浮かんだ。
『古いものをただ憎むな。新しいものをただ恐れるな』
父上の言葉が蘇った。
わしは小さく微笑んだ。
「父上。春子に古いと言われてしまいましたぞ」
もちろん、返事はなかった。しかし、不思議と父上が笑っているような気がした。
わしは再び歩き始めた。
大正ロマン。
都市化。
大衆文化。
そして、成長してゆく子どもたち。
時代は、わしの想像を超える速さで変わり続けていた。
だが、その変化を恐れる必要はない。
新しい時代を生きる子どもたちが、自分たちの文化を築いてゆく。
それを見守ることもまた、年長者の務めなのだろう。
わしは春子の笑顔を思い浮かべた。
「お父様は古いのよ!」
その言葉を思い出すと、思わず笑みがこぼれた。
「まったく…。あの娘には敵わんのう」
江戸に生まれ、明治を生き抜き、大正の新しい文化に驚くわし。
その人生は、まだまだ続いてゆく。
そして東京の街は、これからも新しい時代へ向かって変わり続けるのであった。
第35話の前編は、幕末生まれの蔵之助からみた大正ロマンと都市化がテーマだった。後編では、大正ロマンを自分の青春として生きる春子からみた大正ロマンと都市化がテーマとなる。この物語、次回へ続く。




