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第三十三話 父の死

一 元旗本の大長老


大正九年(1920)。わしは五十六歳になっていた。

明治時代が終わってから、早くも八年が経とうとしていた。


東京の街には電車が走り、自動車も珍しくなくなり、工場からは絶えず機械の音が聞こえていた。

江戸時代の面影は、年を追うごとに薄れていた。


しかし、そんな東京にも、かつての江戸を知る老人がまだ暮らしていた。

わしの父、神楽坂権兵衛である。

父上は八十七歳になっていた。


かつて幕府に仕えた旗本であり、明治維新後には警察の仕事にも携わった人物であった。

若い頃には刀を差し、幕府の秩序を守るために働き、明治になってからは新しい法律と社会の秩序を守ってきた。

その経歴から、父上は地域でも特別な存在となっていた。


「神楽坂の大旦那には逆らえねえ」


そんな言葉を、近所ではよく耳にした。


父上は決して乱暴な老人ではなかった。

むしろ、年を取るにつれて穏やかになっていた。

しかし、その背筋の伸びた姿と鋭い眼差しには、長年の経験から生まれた威厳があった。


ある日、近所の若者たちが口論をしていた。


「お前が先に手を出したんだろう!」


「何だと!」


今にも殴り合いになりそうなところへ、父上が杖をついて現れた。


「…何を騒いでおる」


その一言で、若者たちはぴたりと動きを止めた。


「ご、権兵衛さん…!」


父上は二人を見渡した。


「人前で怒鳴り合って、何になる。まずは落ち着いて話をせい」


「は、はい…」


「喧嘩で物事が解決するなら、世の中に苦労はないわ」


若者たちは頭を下げ、その場を去っていった。

わしは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


「父上、相変わらずですな」


「何がじゃ?」


「父上が一言おっしゃるだけで、皆が静かになります」


父上は小さく笑った。


「わしも昔は、もっと血の気が多かったものじゃ」


「そうでしたな」


「だが、長く生きて分かった。人を従わせるのに、いつも力が必要なわけではない」


父上は杖を握り直した。


「相手の話を聞き、筋を通す。それを積み重ねることじゃ」


その言葉は、陸軍中将となったわしにも深く響いた。


二 地域の精神的支柱


父上のもとには、毎日のように人が訪ねてきた。


商売の相談。

家族の揉め事。

近所同士の争い。

ときには若い警察官が、昔の治安維持について話を聞きに来ることもあった。


「権兵衛さん、少し相談があるのですが」


「うむ。そこへ座りなさい」


父上は相手が誰であろうと、まず話を聞いた。

裕福な商人にも、貧しい職人にも、態度を変えることはなかった。


ある日、わしは父上に尋ねた。


「父上、これほど多くの人の相談を受けて、疲れませんか?」


「疲れることもある」


「でしたら、少し休まれては」


「ははは。蔵之助、お前もわしに説教するようになったか」


「もう五十六歳ですからな」


「わしから見れば、まだまだ若造じゃ」


父上は笑った。


そして、少し真剣な顔になった。


「蔵之助。人は年を取れば、できなくなることが増える。わしも昔のように走ることはできんし、重い物も持てん」


「はい」


「だが、経験だけは残る。その経験が誰かの役に立つなら、まだ生きている意味があるというものじゃ」


わしは静かに頷いた。


父上は、江戸幕府の崩壊を経験した。

武士の身分を失い、刀を差すこともできなくなった。

それでも新しい社会に適応し、家族を養い、地域の人々から信頼される存在となった。

その生き方そのものが、わしにとって大きな教えであった。


三 夏の変化


大正九年(1920)、七月。

暑い日が続く頃から、父上には少しずつ変化が現れ始めた。


以前ほど外出しなくなり、相談に来る人々との会話も短くなった。

食事の量も減り、昼間に横になる時間が増えた。

しかし、不思議なことに、父上の表情は以前より穏やかになっていた。


ある日の午後、わしは父上の部屋を訪ねた。


「父上、お加減はいかがですか?」


「悪くはない。少し疲れやすくなっただけじゃ」


「無理はなさらないでください」


父上は窓の外を眺めていた。


「蔵之助。今日は静かな日じゃのう」


「そうですな」


「昔は、この辺りも随分と違ったものじゃ」


父上は懐かしそうに語り始めた。


「わしが若い頃には、まだ江戸の街であった。武士が刀を差して歩き、町人たちが商いをしておった」


「はい」


「それが幕府が倒れ、明治になり、刀を差す者もいなくなった」


父上は自分の腰元を見つめた。


「最初は、何もかも失ったような気がしたものじゃ」


わしは黙って聞いていた。


「だが、志帆がおり、寛之助とお前がおった。だから、わしは生きてこられた」


「父上…」


「今では孫も曾孫もおる。ありがたいことじゃ」


父上はゆっくりと目を閉じた。


「もう、十分に長く生きたのう」


その言葉を聞いたとき、わしの胸に小さな不安が生まれた。


四 最後の夏


八月になると、父上は寝床で過ごす時間がさらに増えた。

医師にも診てもらったが、特定の大きな病というより、長年生きてきた身体の力が少しずつ衰えているようであった。


母上は、毎日父上のそばに座っていた。


「あなた、お水を飲みますか?」


「うむ。少しだけ頼む」


母上は父上の身体を支え、ゆっくりと水を飲ませた。


「ありがとう、志帆」


母上は微笑んだ。


「何を今さら、長い付き合いですもの」


父上も笑った。


「そうじゃな…」


二人は、長い年月をともに歩んできた夫婦であった。

江戸幕府の時代から、明治維新、文明開化、日清・日露戦争、そして大正の世界戦争まで。

数えきれないほどの出来事を、一緒に乗り越えてきた。


ある日、兄上も見舞いに訪れた。


「父上、寛之助です」


「おお、寛之助か」


父上はゆっくりと目を開けた。


「海軍の仕事はどうじゃ?」


「順調です。ですが、今は父上のお身体の方が心配です」


「ははは。お前も心配性になったものじゃ」


兄上は父上の手を握った。


「父上、どうか長生きしてください」


父上は穏やかに答えた。


「寛之助。人間、いつまでも生きられるわけではない」


「…はい」


「大切なのは、何年生きたかだけではない。どう生きたかじゃ」


兄上は黙って頷いた。わしもその言葉を胸に刻んだ。


五 四つの世代の別れ


九月に入ると、父上の衰えはさらに進んだ。

わしと兄上は、できる限り父上のそばにいるようにした。母上もまた、父上の手を握り続けていた。


九月九日。

その日、父上は朝からほとんど食事を取らず、静かに横になっていた。

わしは兄上とともに、父上の枕元に座っていた。


やがて、家族が集まってきた。

修蔵、節子、光蔵、春子。

そして兄上の五人の子どもたちも、知らせを受けて駆けつけた。

部屋には、父上の子、孫たちが揃っていた。


「父上、蔵之助です」


わしが呼びかけると、父上はゆっくりと目を開けた。


「…蔵之助か」


「はい」


「寛之助もおるか?」


「ここにおります、父上」


兄上が答えた。


父上は二人を見つめた。


「お前たちも…立派になったのう」


「父上…」


「寛之助は海軍、蔵之助は陸軍…。まさか、二人とも中将になるとは思わなかった」


父上は小さく笑った。


「だが、階級などより…お前たちが家族を大切にしてくれたことが、何より嬉しい」


兄上は目を潤ませた。


「父上のおかげです」


わしも頷いた。


「父上が教えてくださったことを、忘れたことはありません」


父上は今度は孫たちを見つめた。


「修蔵…節子…光蔵…春子…」


四人が父上のそばへ近づいた。


「祖父上、修蔵だよ」


「節子もいるわ」


「僕もいるよ、祖父上」


「わたくしもおりますわ…」


春子は涙をこらえていた。


父上は穏やかに微笑んだ。


「皆…大きくなったのう…」


さらに、寛之助の子どもたちにも目を向けた。


「お前たちも…ありがとう…」


そのとき、母上が父上の手を握った。


「あなた。私もここにいますよ」


「…志帆」


父上は妻の顔を見つめた。


「長い間…苦労をかけたのう」


母上は首を横に振った。


「いいえ。あなたと一緒に生きられて、幸せでした」


父上の目に、涙が浮かんだ。


六 幾多の時代を見届けた最期の言葉


父上は、しばらく静かに呼吸を続けていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。


「…わしは、長い夢を見てきたようじゃ」


部屋にいた全員が、父上の言葉に耳を傾けた。


「江戸に生まれ…幕府に仕え…武士として生きた」


父上は天井を見つめた。


「だが、幕府は倒れた。わしらの時代は…終わった」


わしは父上の手を握った。


「それでも…明治という新しい時代が来た」


父上は続けた。


「刀を失い、身分を失い…何もかも変わった。だが、人はまた立ち上がった」


その声は弱々しかったが、一言一言に重みがあった。


「江戸が終わっても…日本は終わらなかった」


兄上が静かに涙を流した。


「明治も終わった。今は大正じゃ…」


父上は少しだけ微笑んだ。


「時代というものは…いつか必ず終わる。だが、そのたびに…人は新しい世を築いてゆく」


わしは唇を噛みしめた。

父上は、わしと兄上を見つめた。


「寛之助…蔵之助…」


「はい、父上」


二人で答えた。


「古いものを…ただ憎むな。新しいものを…ただ恐れるな」


わしの目から涙がこぼれた。


「大切なのは…人として、どう生きるかじゃ」


父上は母上の手を握り返した。


「志帆…ありがとう…」


「あなた…」


そして、最後に小さな声で呟いた。


「わしの時代は終わる……。だが、お前たちの時代は、まだ続く。どうか……よい世を築いてくれ……」


それから、父上は静かに目を閉じた。

呼吸が少しずつ弱くなり、やがて止まった。


大正九年(1920)九月九日。

神楽坂権兵衛、死去。八十七歳であった。


七 父を失った日


「…父上?」


わしは呼びかけた。返事はなかった。


「父上…」


もう一度、呼んだ。しかし、父上は目を開けなかった。

医師が静かに死を告げた。


その瞬間、兄上が深く頭を下げた。


「父上…長い間、ありがとうございました…」


母上は父上の手を握ったまま、静かに涙を流していた。


「あなた…お疲れ様でした…」


修蔵も涙をこらえながら頭を下げた。

節子は顔を覆い、光蔵は唇を噛みしめていた。

春子は、ついに声を上げて泣き始めた。


「お祖父様…! お祖父様…!」


わしは春子を抱き寄せた。


「春子…」


「お祖父様が……もう、お話ししてくださらないなんて…!」


「……そうじゃな」


わし自身も、涙を止めることができなかった。


父上は、いつもそこにいた。

幼い頃から、当たり前のように存在していた。

叱られたことも、励まされたこともあった。

幕末の話を聞かせてもらったこともあった。

明治の新しい社会に戸惑う父上の姿を見たこともあった。

その父上が、もういない。


五十六歳になった今でも、わしにとって父上は父上であった。

陸軍中将になろうとも、祖父になろうとも、それは変わらなかった。


わしは父上の冷たくなり始めた手を握った。


「父上…ありがとうございました……」


それ以上、言葉が出なかった。


八 大長老の葬儀


父上の訃報は、瞬く間に地域へ広がった。


「神楽坂の権兵衛さんが亡くなったそうだ」


「とうとう、あの大旦那も…」


「江戸時代から生きておられた方だったのになあ…」


通夜と葬儀には、驚くほど多くの人々が訪れた。


かつて父上に相談した商人。

若い頃に世話になった元警察官。

近所の職人や住民。

そして、父上を慕っていた人々。


会場には、父上の遺影が飾られていた。

そこには、年老いてもなお背筋を伸ばし、威厳を失わなかった父上の姿があった。


わしと兄上は、喪主側として参列者を迎えた。


「このたびは、ご愁傷様です」


「ありがとうございます」


何度も頭を下げた。


ある年配の男性が、わしに話しかけてきた。


「蔵之助さん。権兵衛さんには、若い頃から随分と世話になりました」


「そうでしたか」


「あの方は、厳しい人でした。でも、決して弱い者を見捨てなかった」


男性は涙を拭った。


「私が商売に失敗したときも、話を聞いてくださったんです」


わしは静かに頷いた。

父上が地域でどれほど信頼されていたのか、改めて思い知らされた。


九 孫と曾孫たちの別れ


葬儀には、わしや寛之助、母上と、神楽坂家の多くの子孫が集まった。

わしの四人の子どもたち。

兄上の五人の子どもたち。

そして、それぞれの家庭に生まれた孫たち。

父上から見れば、皆が孫や曾孫であった。


修蔵の長男・義蔵は、七歳になっていた。

義蔵は父上の遺影を見つめ、静かに尋ねた。


「祖父上…大きいお祖父様は、もう帰ってこないの?」


わしは義蔵の肩に手を置いた。


「そうじゃ。もう、会うことはできん」


義蔵はしばらく黙っていた。


「この前まで、お話ししてくれたのに…」


「そうじゃな」


「大きいお祖父様、優しかったよ」


わしは目を潤ませた。


「そうか。父上も喜んでおるじゃろう」


義蔵は小さく頭を下げた。


「大きいお祖父様、ありがとう…」


その姿を見て、わしは胸が締めつけられた。


一方、まだ幼い曾孫たちは、何が起こったのか十分には理解できていなかった。


東、奈恵、康弘、大空。


幼い子どもたちは、周囲の大人たちが悲しんでいることは感じ取っていても、死というものの意味までは分からない様子であった。


「どうして、みんな泣いているの?」


そんな小さな声が聞こえた。

節子は幼い奈恵を抱き寄せ、優しく答えた。


「大切な人と、お別れする日だからよ」


「お別れ?」


「そう。とても寂しいお別れなの」


子どもは不思議そうに首をかしげた。


その姿を見ながら、わしは思った。

この子たちが大きくなる頃には、父上の記憶はほとんど残っていないかもしれない。

しかし、父上が生きた証しは、確かにこの子たちへと受け継がれている。


兄上の孫たちも、親に手を引かれて参列していた。

神楽坂家は、いつの間にかこれほど大きな一族になっていたのである。


十 父が遺したもの


葬儀が終わった夜。

わしは一人、父上の部屋に座っていた。


机。

古い書物。

長年使っていた杖。


そして、家に大切に保管されていた刀。

かつて父上が武士として生きた証しであった。

わしは刀の前に座り、静かに目を閉じた。


幼い頃、父上が刀を差して歩いていた姿を思い出した。

廃刀令によって、その刀を差すことができなくなった日のことも覚えていた。


父上は、武士としての誇りを失ったわけではなかった。

ただ、その誇りを新しい時代に合わせて生かそうとしていたのである。


「父上…」


わしは小さく呟いた。


「わしは、父上のように生きられておるでしょうか…」


返事はなかった。

父上の言葉が胸の中に蘇った。


『古いものをただ憎むな。新しいものをただ恐れるな』


わしは静かに頷いた。


父上は、江戸幕府の崩壊を見た。

武士の時代の終わりを見た。

明治国家の誕生を見た。


そして、明治という時代の終焉と、大正の新しい社会を見届けた。

幾度も時代が崩れ、また新しい秩序が築かれてゆく姿を見てきたのである。


その父上が、最後にわしらへ託したもの。

それは、特定の時代への忠誠ではなかった。

どんな時代になっても、人としての誇りと優しさを失わずに生きること。

それこそが、父上の遺した教えだったのだ。


十一 父なき時代へ


数日後、わしは母上とともに、庭を歩いていた。


母上は七十七歳になっていた。


「蔵之助」


「何ですか、母上」


「お父さんがいないと、随分と静かねえ」


「…そうですな」


母上は空を見上げた。


「長い間、一緒にいたからね。まだ、あの人が部屋から出てくるような気がするの」


わしは頷いた。


「わしも同じです」


母上は少し微笑んだ。


「でも、あの人は幸せだったと思うわ」


「そうでしょうか」


「ええ。息子たちが立派になって、孫も曾孫も生まれて、たくさんの人に見送られたんですもの」


わしは静かに頷いた。


「そうですな…」


母上はわしの手を握った。


「蔵之助。あなたも、これからまだ長く生きるのよ」


「母上…」


「お父さんが見られなかった未来を、あなたたちが見届けてあげなさい」


わしは空を見上げた。

秋の空は、どこまでも高く澄んでいた。


父上が生まれた天保四年(1833)。

その頃、日本にはまだ江戸幕府が存在していた。

そして、父上が亡くなった大正九年(1920)。

日本は近代国家となり、世界戦争を経験し、工業国家として発展していた。

その八十七年の間に、どれほど多くのものが変わったことだろう。

父上は、そのすべてを生き抜いた。


わしは静かに呟いた。


「父上…どうか、安らかにお眠りください」


そして、心の中で誓った。

父上から受け継いだものを、わしもまた子どもたちや孫たちへ伝えてゆこう。

江戸時代の記憶も、武士としての誇りも、時代の変化を恐れず生き抜く強さも。


父上の人生は終わった。

しかし、その教えは終わらない。

わしは五十六歳にして、初めて父のいない人生を歩み始めた。

そして、神楽坂家の歴史は、また一つ新しい時代へと進んでゆくのであった。

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