第二十五話 不平等条約と条約改正
明治四十四年(1911)。
日本が、幕末以来の宿題をようやく終えた。
関税自主権の完全回復。
その知らせを新聞で知った日のことを、わしはよく覚えている。
「ついにか」
思わず、そう声が出た。
わしが生まれる六年前。
兄上・寛之助が生まれる四年前。
安政五年(1858)。
江戸幕府はアメリカをはじめとする西洋諸国と修好通商条約を結んだ。
その条約によって、日本には自分たちだけで関税を決める自由がなく、外国人が日本国内で罪を犯した場合にも、日本の裁判所ではなく外国側の領事裁判を受ける仕組みが認められた。
わしら兄弟が生まれた時には、すでに存在していた問題だった。
それが五十年以上を経て、ようやく終わったのである。
その日の晩、兄上と二人で酒を飲んだ。
特別な祝いの席というほどではない。
仕事を終え、久しぶりに兄弟二人だけでゆっくり飲もうということになった。
わしは四十七歳。
兄上は四十九歳。
少年のころ、よく喧嘩していた兄弟が、今では陸軍と海軍の軍人として酒を酌み交わしている。
兄上が猪口を置いた。
「蔵之助」
「なんじゃ」
「条約改正、終わったぞ」
「新聞を読んだ」
「五十年以上だ」
「ああ」
兄上は酒を一口飲んだ。
「長かったな」
わしもうなずいた。
「わしらが生まれる前からですからな」
しばらく二人とも黙った。それから兄上が笑った。
「祖父上が生きておったら、何と言っただろうな」
金右衛門祖父、幕府の旗本だった。
安政五年の条約締結当時、祖父は六十を越えた武士だった。
わしは幼いころ、祖父から何度も幕末の話を聞いた。
外国船。
開国。
条約。
幕府内部の混乱。
攘夷を叫ぶ者。
開国しかないと言う者。
「祖父上は、不平等条約という言葉を使っておったかな」
わしが言うと、兄上は首を振った。
「今ほど普通には使っておらんかっただろう」
「そうじゃな」
だが祖父の悔しさだけは覚えている。
ある時、幼いわしが、
「なぜ幕府は外国の言うことを聞いたのです」
と尋ねたことがあった。
祖父はしばらく黙った。
そして、
「聞きたくて聞いたのではない。戦えば勝てぬと思ったからじゃ」
と言った。
当時の日本と西洋列強の軍事力には、あまりにも大きな差があった。
アヘン戦争で清国がイギリスに敗れたことも、日本には知られていた。
「国を守るために、屈辱を呑むこともある」
祖父はそう言った。
少年のわしには、その意味がよく分からなかった。
戦わないことが、どうして国を守ることになるのか、軍人を目指すようになってからも、しばらくは理解できなかった。
日清戦争。
三国干渉。
日露戦争。
それらを経験した今なら少し分かる。
勝てない戦争を避けることもまた、政治なのだ。
父上・権兵衛からも聞いた。
安政五年(1858)当時、父上は二十五歳。
若い旗本として、幕府の混乱を間近で見ていた。
「外国人だけ日本の裁判を受けんだと?」
若いころの父上は、そんな話を聞いて強い違和感を抱いたという。
だが父上もまた、
「ではアメリカやイギリス相手に戦えるのかと言われれば、誰も自信を持って答えられなかった。幕府を弱腰と笑うのは簡単じゃ」
父上は言った。
「だが、黒船の大砲を目の前で見た者にしか分からん恐ろしさもある」
兄上が猪口を傾けながら言った。
「父上らしいな」
「ああ」
「昔から、一方だけを正しいとは言わん人だった」
「そこは変わりませんな」
兄上が笑った。
それから話は、わしら自身の幼いころへ移った。
「岩倉使節団を覚えておるか」
兄上が言った。
「実際に見た記憶はほとんどない」
「わしもじゃ」
明治四年(1872)、岩倉具視を全権大使とする大使節団が、日本を出発した。
木戸孝允。
大久保利通。
伊藤博文。
明治政府の中心人物たちが、欧米を回った。
目的の一つには、不平等条約改正の予備交渉があった。
だが簡単にはいかなかった。
わしらは後に学校でそのことを学んだ。
「覚えているか」
兄上が言った。
「先生が黒板に地図を書いてな」
「あったな」
「岩倉使節団がここからアメリカへ渡って、ヨーロッパを回って――」
兄上が指で机の上に線を引いた。少年だったわしは、政府の偉い人たちが外国へ行けば、条約などすぐ直せるのではないかと思った。
だが現実には、そんなに簡単ではなかった。
日本側の法制度もまだ十分に整っていない。
近代国家としての仕組みも作り始めたばかり。
欧米諸国から見れば、「本当に外国人を日本の裁判所へ任せてよいのか」という不信もあった。
わしは言った。
「結局、日本そのものを変えなければ、条約も変えられなかったということか」
「そういうことだったのじゃろうな」
それから十年ほど、日本は必死に西洋へ追いつこうとした。
その象徴の一つが鹿鳴館だった。
明治十六年(1883)、東京に建てられた西洋風の建物。
政府高官。
外交官。
舞踏会。
洋装。
西洋料理。
日本が文明国であることを示し、条約改正につなげようという狙いもあった。
兄上が笑った。
「蔵之助、舞踏会へ行けばよかったのに」
「わしに似合うと思うか」
「似合わんな」
「兄上もじゃ」
「海軍は洋式だから、お前よりは似合う」
「服だけでしょう」
二人で笑った。
だが鹿鳴館政策そのものは、当時から批判が多かった。
「外国人と踊れば条約が改正できるのか」
「西洋の真似をすることが文明なのか」
そうした声が上がった。
わし自身も若いころは、
「そこまで外国に合わせねばならんのか」
と疑問に思ったものだった。
だが今になって考えれば、政府も必死だったのだろう。
外国から、日本は文明国ではない。
裁判制度も信用できない。
だから領事裁判権をなくせない。
そう言われ続けていた。
ならば、「日本もあなた方と同じ近代国家です」と見せようとする。
その焦りが、鹿鳴館にも表れていたのだと思う。
しかし、その努力を嘲笑うような事件が起きた。
明治十九年(1886)、ノルマントン号事件。
日本近海でイギリス船ノルマントン号が沈没した。
外国人の船員たちは助かったが、日本人乗客は一人も助からなかった。
「わし、あれは腹が立ったぞ」
兄上が言った。
「わしもじゃ」
しかも船長の責任を裁いたのは、日本の裁判所ではなかった。
領事裁判だった。
最初の審理では船長は無罪とされた。
その後の裁判では有罪となったものの、国内では激しい怒りが広がった。
「日本人が何人死んでも、日本の法律で裁けない」
わしは当時、強い屈辱を感じた。
条約の問題が、外交官だけの話ではなくなった。
普通の日本人の命に直接関わる問題だと、多くの者が感じた事件だった。
「治外法権をなくせ」
世論は強くなった。
だが改正交渉は、なかなか前へ進まない。
井上馨の交渉も頓挫した。
その後、外務大臣となった大隈重信が改正を進めた。
「大隈さんの時は、今度こそと思ったがな」
兄上が言う。
「ああ」
ところが、外国人判事を日本の大審院に任用する案が知られると、国内で激しい反対が起きた。
外国人の領事裁判権をなくすために、日本の最高裁判所に外国人判事を置く。
「それでは何のための条約改正なのか」という批判だった。
そして明治二十二年(1889)。
大隈重信は、条約改正案に反対する人物から爆弾を投げつけられた。
右脚を失うほどの重傷を負った。
「外交交渉で人まで襲われる」
わしが言った。
兄上は黙って酒を飲んだ。
「それだけ皆が条約改正に神経を尖らせていたのだろう」
交渉は再び行き詰まった。
さらに青木周蔵外相のもとで、イギリスとの交渉が進められた。今度こそ、そう思われた。
だが明治二十四年(1891)、大津事件が起きた。
来日していたロシア皇太子ニコライが、大津で警備中の巡査に斬りつけられた。
「ロシアと戦争になるかと思ったな」
兄上が言った。
「あの時は本気で心配したな」
後の日露戦争で実際にロシアと戦うことになるとは、その時のわしらには想像できなかった。
政府内部では、皇太子を襲った犯人を極刑にするべきだという圧力も強まった。
しかし司法は法律に基づいて判断した。
わしは言った。
「大津事件そのものは、日本の司法が政府の言いなりにならんことを示した事件でもあったな」
「ああ」
「皮肉なものじゃ」
外国から日本の司法制度を信用してもらうことが条約改正には必要だった。
その一方で事件によって青木外相は辞任し、進んでいた交渉はまた止まった。
何度始めても止まる。
何度近づいても遠ざかる。
兄上が言った。
「条約改正とは、戦争より長いな」
わしは笑った。
「本当ですな」
日清戦争も日露戦争も数年だった。
だが条約改正は、わしらが生まれる前から続いている。
ようやく大きく動いたのが、明治二十七年(1894)だった。
日清戦争の直前。
外務大臣・陸奥宗光。
そして駐英公使・青木周蔵。
日本とイギリスの間で、新しい通商航海条約が結ばれた。
領事裁判権を撤廃する。
関税についても、一部ながら自主権を取り戻す。
「知らせを聞いた時、嬉しかったな」
兄上が言った。
「ああ」
「戦争が始まる直前だった」
「忘れようにも忘れられん」
明治二十七年(1894)七月、日英通商航海条約が調印された。
その直後に日清戦争が始まった。
わしは戦場へ行った。
そのため、当時の記憶の中では条約改正と出征が妙に近く結びついている。
ただし、調印した瞬間から領事裁判権が消えたわけではなかった。
条約が実施されたのは明治三十二年(1899)。
それでも大きな転換だった。
幕末以来、日本国内に存在していた外国人の領事裁判権が、ついに撤廃された。
「祖父上に見せたかったな」
わしが言った。
「本当だな」
「あの人が一番悔しがっておったかもしれん」
「父上も相当だったぞ」
「父上はまだ生きておる」
「そうだった」
兄上が笑った。
父上・権兵衛は七十七歳。
幕末の条約締結を二十五歳で見ていた男が、まだ生きている。
その父が、関税自主権完全回復の知らせまで聞いた。
考えてみれば恐ろしいほどの時代の変化だった。
領事裁判権はなくなった。
だが、まだ残っていたものがある。関税自主権だった。
外国から入ってくる品物に、どれだけ税をかけるか。
本来なら、一国が自分で決めるべきことである。
だが日本には、その自由が完全には戻っていなかった。
「戦争に二度勝っても、まだ条約は残った」
わしが言うと、兄上もうなずいた。
「日清戦争にも日露戦争にも勝った。それでも条約を書き換えるには、また外交交渉か」
「大砲だけでは解決せんということか」
兄上が笑った。
「陸軍のお前がそれを言うようになったか」
「兄上だって海軍でしょう」
「だから分かるのじゃ。撃たずに済むなら、その方がよい」
わしらは猪口を合わせた。
そして明治四十四年(1911)、小村寿太郎外相のもと、各国との交渉が進み、二月には新しい日米通商航海条約が結ばれる。
これによって、残されていた関税自主権が完全に回復された。
その後、イギリスをはじめ各国とも新たな条約が結ばれていく。
幕末以来続いた不平等条約の問題は、ついに解決した。
「五十三年か」
兄上が言った。
安政五年(1858)から明治四十四年(1911)。
半世紀を越えている。
「祖父上の世代が結んで、父上の世代が、それを背負って、わしらの世代で、ようやく終わった」
「そういうことになるな」
兄上は酒を注いだ。
「蔵之助」
「なんじゃ」
「わしら、随分長いところまで来たな」
その言葉で、祖母上の美帆のことを思い出した。
五年前に亡くなった祖母。
江戸時代を大人として生き、黒船を知り、幕府の終わりを知り、鉄道に乗り、日清戦争を見て、日露戦争で日本がロシアに勝つところまで見た。
あと五年生きていれば、条約改正の完全達成まで見ることができた。
「美帆祖母にも見せたかった」
わしが言った。
「ああ」
兄上の声も少し静かになった。
祖父・金右衛門も、祖母も、幕末を生きた多くの人々も、もういない。
だが父上と母上はまだいる。
「明日、父上のところへ行かぬか」
「なぜ」
「聞いてみたい」
「何をじゃ」
「安政五年のことを」
兄上がこちらを見た。
「今さらか?」
「今だからじゃ」
条約改正が終わった今だからこそ、条約が結ばれた時代を生きていた父に、もう一度聞いておきたかった。
なぜ幕府は条約を結んだのか、当時の人間は何を恐れたのか、何を悔しがったのか、そして今、どう思うのか。
美帆祖母を亡くしてから、わしは以前より強く思うようになっていた。
聞けるうちに聞く。
話せるうちに話す。
人は永遠には生きない。
記憶も、その人が死ねばそのままでは消えてしまう。
兄上もうなずいた。
「そうするか」
「ああ」
しばらくして、兄上が笑った。
「しかし、考えてみれば妙じゃ。岩倉使節団のことを学校で習っていた子ども二人が、条約改正が終わった年に酒を飲んでいる」
わしも笑った。
「しかも片方は陸軍大佐で、片方は海軍大佐」
「ずいぶん歳を取りましたな」
「お前に言われたくない」
二人で笑った。
店の外から、人力車の音が聞こえた。
町には電灯が増えた。
汽車が全国を走る。
工場が煙を吐く。
日本人は外国へ渡る。
外国人が日本国内を自由に旅行する。
わしらが少年だったころとは、まるで違う国になっていた。
だが、その変化は一日にして起きたものではない。
岩倉使節団が失敗した。
鹿鳴館が批判された。
ノルマントン号事件に怒った。
井上馨の交渉が挫折した。
大隈重信が襲われた。
大津事件で交渉が止まった。
陸奥宗光が領事裁判権撤廃への道を開いた。
そして小村寿太郎が、最後に残った関税自主権を取り戻した。
成功だけではなかった。
失敗や反対、事件、妥協、そしてまた交渉、それを何十年も積み重ねて、ようやくたどり着いた。
「兄上」
「なんじゃ」
「国というものは、本当に少しずつしか変わらんのですな」
「ああ」
「戦争なら、勝敗が一日で決まることもある」
「日本海海戦のようにな」
「だが外交は違う。一度負けても終わりではないし、一度勝っても終わりではない。祖父上の世代が屈辱だと思ったものを、孫の我々が終わらせた」
「ああ」
「なら、我々が今残している問題も、子どもたちの世代が解決することがあるのかもしれんな」
修蔵。
節子。
光蔵。
春子。
わしの子どもたちの顔が浮かんだ。
彼らが大人になる時、日本がどうなっているかなど分からない。
わしらの父や祖父だって、今の日本を想像できなかっただろう。
五十三年前、外国の力を前に、幕府は不利な条約を受け入れた。
その時、祖父たちが感じた悔しさを、わしらは話として受け継いだ。
そして明治四十四年(1911)。その孫であるわしと兄上は、酒を飲みながら、不平等条約がついに過去になったことを語り合っていた。
江戸から明治へ。
開国から条約改正へ。
屈辱から対等へ。
長い長い道のりだった。
だが、その夜のわしは思った。
歴史とは、ある一人の英雄だけが作るものではない。
うまくいかなかった者。
途中で倒れた者。
批判された者。
交渉を引き継いだ者。
そして、その時代をただ生きた者。
そういう人間たちが少しずつ次へ渡していったものが、何十年も後になってようやく一つの結果になる。
ならば、わしらの人生もまた、まだ途中なのだろう。
明治は、まだ終わっていなかった。




