第二十一話 産業革命と暮らしの変化
日露戦争から帰ってきたころ、わしは時折、町を歩きながら妙な感覚に襲われることがあった。
ここは本当に、わしが子どものころに暮らしていた日本なのか。そう思うのである。
わしが生まれたころには、まだ江戸幕府があった。
幼いころには、人の移動といえば歩くか、駕籠か、馬だった。町には木造家屋が並び、夜になれば暗くなり、遠い土地で起きた出来事を知るにも時間がかかった。
それから四十年ほどしか経っていない。
だが明治も後半になると、日本の風景はまるで違っていた。
煙突が立つ。
汽笛が鳴る。
工場では機械が動き続ける。
鉄道が人と物を運び、新聞が遠くの出来事を翌朝には伝える。
巨大な会社が生まれ、多くの人間がそこで働く。
わしが子どものころ、「文明開化」という言葉とともに珍しがって見ていたものが、今では暮らしの一部になりつつあった。
日本では明治の後半にかけて、産業が急速に大きくなっていた。
その中心の一つが紡績や製糸だった。
生糸は外国へ輸出され、日本が外貨を得る重要な品となった。
製糸場や紡績工場には多くの女性たちが働いていた。
町を歩けば、工場へ向かう若い女たちを見ることもあった。
「随分増えたものじゃな」
わしがそう呟いたことがある。
父上は、
「昔なら、女があれほど大勢、一つの場所へ働きに出ること自体が珍しかった」
と言った。
もっとも、工場での暮らしが楽だったわけではない。
長い時間働く者もいる。
遠い農村から出てきた娘もいる。
機械の音の中で、一日中作業する者もいる。
産業が発達するということは、便利になるということだけではない。
新しい仕事が生まれれば、新しい苦労も生まれる。
わしは軍人だったから、産業そのものを動かす立場ではなかった。
それでも、国力と産業が切り離せないことは、日清・日露の二つの戦争を通して嫌というほど分かっていた。
兵士がいても、鉄道がなければ運べない。
銃があっても、鉄がなければ作れない。
軍艦も、大砲も、機関車も、工場も、すべて大量の鉄と石炭を必要とする。
その象徴のように感じられたのが、官営八幡製鉄所だった。
明治三十四年(1901)に操業を始めた大規模な製鉄所である。
「日本でこれほど鉄を作る時代になったか」
その話を聞いた時、わしは驚いた。
子どものころのわしにとって、鉄とは刀や農具などに使うものという感覚が強かった。
それが今では、鉄道の線路となり、橋となり、機械となり、軍艦となり、工場そのものを支えている。
石炭も同じだった。
蒸気機関車を走らせる。
蒸気船を動かす。
工場を動かす。
製鉄にも必要になる。
地下から掘り出した黒い石が、国全体を動かしているようにすら見えた。
そして産業が大きくなるにつれて、三井、三菱、住友などの巨大な企業集団も力を持つようになった。
銀行。
鉱山。
貿易。
海運。
工業。
いくつもの事業を抱え、大きな資本を動かしていく。
昔なら、一つの商家がこれほど多くの産業に関わるなど、わしには想像もできなかった。
兄上・寛之助からは、海運についてよく聞いた。
海軍軍人である兄上にとって、民間の船も身近な存在だった。
ある時、兄上が言った。
「鉄道ばかり見ておるがな、蔵之助、海も変わっておるぞ」
「分かっておる」
「本当に?」
「兄上はいつもそれを言うな」
「お前は陸軍だから、何でも陸の話にしたがる」
わしらは笑った。
兄上によれば、港へ行けば蒸気船が行き交い、人だけでなく大量の貨物が国内外へ運ばれていた。
郵便。
石炭。
綿花。
生糸。
機械。
さまざまな物が海を越えて動く。
「軍艦だけが海を走っているわけではない」
兄上は言った。
「国を豊かにするのは、むしろ商船の方かもしれんぞ」
「海軍大佐がそんなことを言ってよいのか」
「海軍だからこそ分かるのじゃ」
なるほどと思った。
そして陸では、何といっても鉄道だった。
明治二十二年(1889)には、新橋から神戸までを結ぶ東海道線が全通していた。
かつて何日もかかった道のりを、列車が一晩で結ぶ。
わしが子どものころ、初めて汽車を見た時には、黒い煙を吐く巨大な生き物のように感じた。
だが、わしの子どもたちにとって鉄道は最初から存在しているものだった。
特に修蔵は、幼いころから鉄道が好きだった。
小さなころから、汽車を見ると目の色が変わった。
「父上、汽車見に行こう」
「昨日も見たではないか」
「昨日のと今日のは違う」
「何が違うのじゃ」
「違うんだよ」
わしにはよく分からなかった。
駅へ連れていけば、修蔵は機関車が入ってくるのをじっと見ていた。
車輪。
煙突。
連結器。
客車。
線路。
信号。
何がそれほど面白いのかと思ったが、本人には全部が違って見えるらしい。
成長すると、興味はますます深くなった。
ただ汽車を見るだけではなく、
「どうしてこんな重いものが走れるのか」
「坂道ではどうするのか」
「橋はどれくらいの重さに耐えられるのか」
などと言うようになった。
やがて高等学校へ進んだ修蔵は、東京帝国大学の工科大学へ進みたいと話すようになった。
ある晩、食事の後に修蔵が言った。
「父上」
「なんじゃ」
「俺、鉄道を作る仕事がしたい」
わしは息子を見た。
「作る?」
「機関車だけじゃない。線路とか、橋とか、駅とか」
修蔵は珍しく熱のこもった声で話した。
「もっといろんな場所に鉄道を通したいんだ」
「軍人にはならんのか」
わしが冗談半分に言うと、修蔵は少し困った顔をした。
「父上、軍人になってほしい?」
「いや」
即答した。
修蔵が驚いた。
「お前の人生じゃ。お前が決めればよい」
愛海が横で笑った。
「そう言いながら、本当は少し寂しいんでしょう」
「なぜじゃ」
「息子が自分と同じ道へ進まないから」
「そんなことはない」
「本当に?」
「…少しはあるかもしれん」
修蔵が笑った。
「でも俺、鉄道がいい」
「ああ。それでよい」
むしろ、わしは嬉しかった。
わしらの世代が軍隊を作り、国の形を整える時代を生きたのだとすれば、修蔵たちの世代は、その国の中に鉄道を敷き、工場を作り、人の暮らしを豊かにしていく世代なのかもしれない。
そう思った。
そして、もう一人、光蔵もいた。
光蔵は相変わらず、何でも分解した。
時計。
玩具。
壊れかけた道具。
時には壊れていないものまで開ける。
「光蔵」
「はい」
「これは誰が開けた」
「僕です」
「なぜじゃ」
「中が見たかったから」
「戻せるのか」
「…たぶん」
この会話を何度繰り返したか分からない。
ある日、修蔵が弟に尋ねた。
「光蔵は大きくなったら何になるんだ?」
光蔵は少し考えた。
「機械を作る人」
「何の機械?」
「まだ分からない」
「分からないのかよ」
「だって、まだ作ってないから」
修蔵が笑った。わしも笑った。
だが光蔵は真剣だった。
「今ないものを作りたい」
その言葉を聞いた時、わしは少し驚いた。
わしの祖父・金右衛門の世代なら、既にあるものを受け継ぐことが大切だった。
父上の世代は、古い仕組みが崩れていく中で生き方を変えなければならなかった。
わしらの世代は、新しい国を作る過程を生きた。
そして子どもたちは、
「今ないものを作りたい」
と言う。
これが時代の変化なのだろうと思った。
変わったのは産業だけではない。
毎日の暮らしそのものも、わしが子どものころとは少しずつ違っていた。
洗濯一つを取ってもそうだった。
明治の初めころは、井戸から水を汲み、木のたらいに張って手で揉み洗いをするのが普通だった。
灰汁や米のとぎ汁などを汚れ落としに使うこともあった。
石鹸も存在はしていたが、誰もが気軽に使うようなものではなかった。
それが明治の後半になると、石鹸も以前より見かけるようになり、水はポンプから汲み取れるになり、洗濯板も少しずつ広まっていった。
だからといって洗濯が楽になったわけではない。
水を汲む。
衣類を濡らす。
擦る。
すすぐ。
絞る。
干す。
愛海たちが行う家事は、相変わらず大変だった。
一度わしが手伝って、
「随分力が要るな」
と言うと、愛海に、
「今ごろ気づいたのですか」
と笑われた。
炊事も同じだった。
薪や炭を使って火を起こす。
火加減を調整する。
米を炊く。
魚を焼く。
煮物を作る。
火をつければ終わりではない。
強すぎれば焦げる。
弱ければ煮えない。
煙も出る。
灰の始末も必要である。
保存も難しかった。
暑い季節には、食べ物はすぐ傷む。
塩に漬ける。
干す。
味噌や醤油を利用する。
漬物にする。
そうやって食べ物を長く持たせる。
夏になれば、家の中を涼しくする工夫をする。
簾を掛ける。
障子や戸を開けて風を通す。
団扇や扇子を使う。
打ち水をする。
日陰を作る。
それでも暑い日は暑い。
冬になれば火鉢や炬燵が活躍した。
炭を入れ、身体を近づける。
家全体を暖めるというより、人間が暖かいところへ寄っていく。
朝になれば布団から出るのが嫌になる。
光蔵など、
「寒い」
と言ってなかなか起きない。
「起きろ」
「寒い」
「学校じゃ」
「寒い」
「同じことしか言わんのか」
「だって寒いから」
そんな朝もあった。
交通も変わった。
鉄道が伸びても、駅から家まですべて列車で行けるわけではない。
町では人力車をよく見た。
明治の初めに急速に普及し、人を乗せて走る車夫の姿はすっかり町の風景になっていた。
馬車も走っていた。
荷物を運ぶ馬車。
人を乗せる馬車。
道が整えられるにつれて、それらも増えた。
だがその一方で、汽車が遠くの町と町をつないでいく。
昔なら、
「遠いところへ行く」
こと自体が大仕事だった。
今では時刻を確かめ、駅へ行き、切符を買えば、列車で遠くへ向かえる。
距離の感覚そのものが変わっていった。
情報もそうだった。
わしが幼いころは、遠くの出来事を知るには、人づてに聞くか、瓦版のようなものを見るしかなかった。
だが明治になると新聞が急速に広まった。
政治。
事件。
戦争。
経済。
外国の出来事。
さまざまな情報が紙に載って届く。
父上など、朝になると新聞を読むことが習慣になっていた。
「父上、また新聞ですか」
「世の中が動いておるからな」
「昨日も動いていましたよ」
「今日も動いておる」
もっともだった。
日清戦争でも日露戦争でも、国民は新聞を通して戦況を知った。
それだけ新聞の力も大きくなっていた。
だが、わしは戦地から帰った人間として、一つだけ注意していた。
新聞に書かれた「勝利」と、戦場で見る「勝利」は違う。
紙面では、「我軍大勝」という数文字で終わる。
その裏で何人が死に、何人が傷つき、何人の家族が待っているかまでは、数文字では伝わらない。
便利になるということは、世の中が単純になることではなかった。
むしろ、関わる人間が増え、仕組みが大きくなり、以前より複雑になっていった。
それでも、明治という時代を振り返る時、わしはいつも思う。
よくこれほど変わったものだ、と。
わしが六歳のころ、初めて鉄道を見た時には、汽車そのものが未来のように見えた。
それが今では、修蔵が、
「もっと鉄道を作りたい」
と言っている。
わしが若いころ、外国製の機械を珍しがっていたのに、光蔵は、
「自分で機械を作りたい」
と言っている。
いつの間にか、外国から新しいものが来るのを眺めるだけの時代から、日本人自身が新しいものを作ろうとする時代へ変わり始めていた。
ある夕方、修蔵と光蔵が二人で話していた。
「兄上が鉄道を作ったら、僕が機関車を作る」
光蔵が言った。
「作れるのか?」
「作れるようになる」
「じゃあ俺が線路を敷く」
「僕が機械を作る」
「それならどこへでも行けるな」
二人は笑った。
わしは少し離れたところから、その会話を聞いていた。
軍人のわしには、鉄道技師の詳しい仕事も、機械技術者の世界も分からない。
だが、それでよいと思った。
子どもが親の知らない世界へ進んでいく。
それこそ、時代が前へ進んでいる証拠なのかもしれない。
愛海が隣へ来た。
「何を見ているのですか」
「あの二人じゃ」
修蔵と光蔵を見る。
「随分先のことを話しておる」
「子どもは未来の話が好きですから」
「わしらが子どものころには、鉄道技師になりたいとも、機械を作りたいとも思えなかった」
「そんな仕事そのものが身近ではなかったのでしょう?」
「ああ」
しばらく二人を眺めた。そしてわしは言った。
「この子らが大人になるころ、日本はどうなっておるのだろうな」
愛海は笑った。
「また変わっているでしょうね」
「これ以上か?」
「蔵之助さんのお父様だって、あなたが生まれたころには今の日本を想像できなかったでしょう?」
それを言われると何も返せなかった。
確かにそうだった。
江戸が終わった。
武士が消えた。
鉄道が走った。
工場が建った。
巨大な会社が生まれた。
鉄と石炭が国を動かすようになった。
新聞が世の中を結び、人や物が以前とは比べものにならない速さで動くようになった。
そして、その新しい時代の中で育った子どもたちが、今度は自分たちの手で次の時代を作ろうとしている。
わしは軍服を着て、日本という国を守ることを自分の務めだと考えてきた。
だが国を作るのは、軍人だけではない。
鉄道を造る者。
機械を作る者。
鉄を作る者。
石炭を掘る者。
船を動かす者。
糸を紡ぐ者。
新聞を作る者。
そして毎日の家を守る者。
そういう無数の人間によって、国は動いている。
二つの戦争を経験した後だったからこそ、わしは以前より強くそう思うようになっていた。
強い国とは、兵隊の多い国だけではない。
人が働き、物を作り、運び、学び、暮らしていける国なのだ。
そしてその変化の続きを担うのは、もうわしらだけではない。
修蔵たちの世代なのだ。
明治という時代は、古いものを壊しただけの時代ではなかった。
何もなかった場所に線路を敷き、煙突を立て、機械を動かし、人々の暮らしそのものを作り替えていった時代だった。
そしてわしは、その変化の中で育った自分の息子たちが、今度は新しい時代を作る側へ進もうとしていることを、少し誇らしく眺めていたのである。




