第十九話 次女の死
五人の子どもに囲まれた暮らしが、いつまでも続くような気がしていた。
修蔵。
節子。
光蔵。
美嘉。
春子。
朝になれば誰かが騒ぎ、誰かが泣き、誰かが愛海に叱られる。
静かな時間などほとんどなかった。
その中でも、美嘉は少し特別な子だった。
幼いころから身体が丈夫ではなかった。
季節が変われば風邪を引く。
寒い日が続けば咳をする。
兄や姉が一晩寝れば治ってしまうような熱でも、美嘉だけは何日も床に伏すことがあった。
「また熱があるな」
わしが額に手を当てる。
「ちょっとだけ」
美嘉はそう答える。
「ちょっとではない」
「でも、美嘉、元気だよ」
そう言って笑う。それが、あの子だった。
具合が悪いことを隠しているわけではない。
ただ、病気だからといって一日中暗い顔をしているような子ではなかった。
元気な日は、兄や姉と一緒に遊んだ。
修蔵のあとを追いかける。
節子に髪を整えてもらう。
光蔵が何かを分解していると、その隣に座って眺める。
「光兄、それなに?」
「時計」
「こわれたの?」
「壊したんじゃない。開けたんだ」
「でも動いてないよ」
「今から戻すの!」
そんなやり取りを聞いて、節子が呆れた。
「光蔵、それ昨日も言ってたでしょう」
美嘉は笑う。
具合のよい日の美嘉を見ていると、病弱であることなど忘れてしまいそうだった。
そして明治三十五年(1902)、末娘の春子が生まれた。
美嘉にとって初めての妹だった。
愛海に抱かれた小さな赤子を、美嘉は不思議そうに覗き込んだ。
「母上」
「なあに?」
「これ、春子?」
「そうよ」
「ちっちゃい」
「美嘉も昔はこんなだったのよ」
美嘉は首を振った。
「ちがうよ」
「どうして?」
「美嘉はもっと大きかったと思う」
皆が笑った。
美嘉は春子の小さな手をつついた。
すると春子の指が、美嘉の指を握った。
「わっ」
美嘉が慌てて手を引く。
「つかんだ!」
「赤ちゃんは握るのよ」
愛海が言った。
しばらくすると、また恐る恐る指を差し出す。
もう一度握られる。
今度は手を引かなかった。
「春子、美嘉のこと分かるのかな」
「どうじゃろうな。まだ分からんかもしれん」
わしが答えた。
「じゃあ、美嘉がお姉ちゃんだって教える」
そう言った。それから美嘉は、春子の顔をよく覗き込むようになった。
春子の髪が少しずつ伸び始めると、
「母上、春子の髪きれい」
と言ったこともある。
「美嘉の髪も綺麗ですよ」
「春子のほうが黒いよ」
まだ幼いのに、妹の髪を指先でそっと撫でる姿は、本当に姉らしく見えた。
だからこそ、わしらは信じていたのかもしれない。
病弱ではあるけど、美嘉はこのまま大きくなる。
春子と一緒に遊ぶようになる。
学校へ行く。
大人になる。
それが当然だと思っていた。
明治三十六年(1903)の暮れ。
美嘉が、また風邪を引いた。
最初は誰も、それほど深刻には考えていなかった。
「またか」
わしもそう思った。
咳が出る。
微熱がある。
食欲が落ちる。
いつものことだった。
愛海が布団を整えた。
「しばらく休んでいれば治りますよ」
美嘉もうなずいた。
「お正月には元気になる?」
「もちろん」
愛海が答えた。
だが、治らなかった。
年が明けても、美嘉の咳は残った。
むしろ以前より深くなった。
夜になると何度も咳き込む。
身体がだるいと言う。
食事も、以前ほど食べられない。
頬が少しずつ痩せていった。
ある日、わしが仕事から帰ると、愛海の顔色がおかしかった。
「どうした」
「先生が…」
そこで言葉が止まった。嫌な予感がした。
「何と言った」
愛海はしばらく答えなかった。
そして小さな声で言った。
「結核ではないかと」
胸の中が冷たくなった。
「…結核?」
「肺の結核だそうです」
わしは、その言葉を知っていた。肺病や労咳とも呼ばれ、多くの人間の命を奪ってきた病。
日清戦争のころ、病の恐ろしさを嫌というほど見た。
だが戦場で病人を見ることと、自分の娘が病に侵されることはまるで違った。
「治るのですか」
愛海が医師に尋ねたという。
返ってきた言葉は、希望に満ちたものではなかった。
身体を休ませること。
栄養をつけること。
空気のよいところで静養すること。
できることはある。だが、病そのものを確実に治す薬などなかった。
わしは何度も考えた。
もっと早く気づけなかったのか。
いつもの風邪だと思っていた。
もっと前に医者へ見せていれば。
もっと身体を休ませていれば。
何か違ったのではないか。
「蔵之助さん」
愛海に呼ばれた。
「自分を責めないでください」
「しかし」
「私だって同じことを考えています」
愛海の声が震えた。
「でも今、美嘉の前でそんな顔はできません」
その通りだった。
美嘉自身が、一番苦しい。
それから家の空気は変わった。
修蔵は、もう十四歳になっていた。
病気の重さを理解できる年齢だった。
「父上」
ある夜、修蔵が聞いた。
「美嘉は治るんだよな」
答えられなかった。
「父上」
「…わしにも分からん」
修蔵は黙った。
少し前まで声変わりでひっくり返っていた声が、もう随分低くなっていた。
「治ってほしい」
「ああ」
「俺、何でもするから」
わしは息子の肩に手を置いた。
「美嘉の前では、いつも通りにしてやれ」
「…うん」
節子はもっと露骨だった。
美嘉のそばから離れたがらなかった。
水を持っていく。
布団を直す。
咳をすれば背中をさする。
「姉上」
美嘉が弱い声で言った。
「なあに?」
「ずっといるね」
「いて悪い?」
「悪くない」
「じゃあいる」
「うん」
光蔵は、最初は病気の意味を十分に理解していなかった。
「美嘉、いつ遊べる?」
そう尋ねて、節子に睨まれたこともあった。
だが、美嘉が以前のように起き上がらなくなるにつれて、光蔵にも何かが分かってきた。
ある日、自分が大切にしていた小さな玩具を美嘉の枕元へ置いた。
「これ、置いとく」
「光兄のじゃないの?」
「いいよ」
「壊してない?」
「壊してない!」
美嘉が少し笑った。
その笑顔を見て、光蔵も笑った。
春子だけは、まだ幼すぎた。
家の中で何が起きているのか分からない。
時々、美嘉の部屋へ入ろうとする。
愛海が抱き上げて止める。
「春子、今日はこっちへいましょうね」
それでも春子は、
「みか」
と姉の名を呼ぶことがあった。
その声が聞こえると、美嘉は少しだけ顔を上げた。
「春子?」
「いるわよ」
愛海が答える。
「会いたい」
体調のよい時を選んで、少し離れたところから春子の顔を見せることもあった。
春子は何も知らず、美嘉へ手を伸ばす。
美嘉も、細くなった手を伸ばした。
「春子」
声が弱かった。
「髪、また伸びたね」
それでも笑った。
年が明けてから、美嘉は目に見えて弱っていった。
起き上がれる時間が短くなった。
声も小さくなった。
咳をした後、息を整えるまで時間がかかる。
わしは仕事から帰るたび、真っ先に美嘉の様子を聞くようになった。
「今日はどうだった」
「午前中は少し食べました」
ある日はそう聞いて安心する。
「今日はほとんど…」
別の日には、それだけで胸が沈んだ。
一月二十四日。
朝から、美嘉の様子が明らかに違っていた。
愛海はずっとそばにいた。
わしも離れなかった。
修蔵。
節子。
光蔵。
そして幼い春子。
四人の兄弟も、美嘉の近くに集まった。
美嘉はほとんど目を開けられなくなっていた。
「美嘉」
愛海が手を握る。
「母上…」
「ここにいますよ」
「父上は?」
「ここじゃ」
わしも手を取った。
小さかった。以前より、ずっと細くなっていた。
「兄上…」
修蔵が近づいた。
「いるよ」
「姉上」
「ここよ」
節子は泣くのを必死にこらえていた。
「光兄」
「いる」
光蔵の声は震えていた。
美嘉の目が、最後に春子の方へ向いた。
まだ二歳にもならない妹。
春子は愛海のそばから、美嘉を見ていた。
「はる…」
美嘉の声は、ほとんど息のようだった。
愛海が春子を少し近づけた。春子は姉の顔を見た。
「みか」
美嘉の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったように見えた。
「春子…かわいいね」
それが、美嘉が妹に残した最後の言葉になった。
しばらくして、呼吸が浅くなった。
愛海は何度も名前を呼んだ。
「美嘉」
返事はない。
「美嘉」
わしも呼んだ。
胸がわずかに動く。
そして、止まった。
静かだった、あまりにも静かだった。
家の中には六人もいるのに、何の音もしない。
愛海が美嘉を抱きしめた。
「美嘉…」
その声を聞いた瞬間、節子が泣き崩れた。
「美嘉!」
修蔵は顔を伏せた。拳を強く握っていた。
光蔵は、何が起きたのか理解できないような顔で妹を見ていた。
「美嘉?」
返事はない。
「美嘉」
もう一度呼ぶ。
「起きてよ」
わしは光蔵の肩を抱いた。
「光蔵」
「父上、美嘉、寝てるだけだよね」
答えなければならなかった。それが父親の役目だった。
だが声が出なかった。
ようやく、
「…美嘉は、亡くなった」
と言った。
光蔵がわしを見た。
そして初めて、大声で泣いた。
春子だけは、まだ死というものを理解していなかった。
皆が泣いているのを見て、不安そうな顔をしていた。
「母上?」
愛海は涙を拭き、春子を抱いた。
「大丈夫よ」
大丈夫なはずなどなかった。
その日のうちに、わしは何度も美嘉の顔を見た。
眠っているようだった。
熱も、咳も、苦しそうな呼吸も、もうない。
やっと楽になれたのだって思おうとした。
だが父親の心は、そんなに簡単なものではなかった。
なぜ、この子なのだ。まだ幼い。
何も悪いことなどしていない。
これからだった。
学校にも行く。
大人になる。
結婚するかもしれない。
子どもを持つかもしれない。
そのすべてが消えた。
戦場では、人が死ぬ理由を無理にでも理解しようとできた。
戦争だから。
敵がいるから。
病が流行ったから。
だが、幼い娘の死には、納得できる理由などなかった。
葬儀の日、父上と母上が来た。
父上・権兵衛は、美嘉の小さな棺を長い間見つめていた。
「子が先に逝くのは…」
そこまで言って、言葉を失った。
母上・志帆は愛海を抱いた。
「よく看てあげましたね」
その一言で、愛海はまた泣いた。
「助けてあげられませんでした」
「違います」
母上は強く言った。
「最後まで母親でいてあげたでしょう」
美帆祖母も来た。
八十を越えた祖母が、幼い曾孫の葬儀に立っている。
本来なら順番が逆だと、わしは思った。
祖母も同じことを考えたらしい。
「年寄りの私が残って、小さい子が先に逝くなんてねえ…」
美帆祖母は棺のそばへ座った。
「美嘉ちゃん。もっと大きくなったところを見たかったよ」
いつも明るく、昔話をするときには目を輝かせる祖母だった。
その祖母の背中が、その日だけはとても小さく見えた。
修蔵は葬儀の間、長男として必死に耐えていた。兄弟の中で、唯一泣こうとしなかった。
だが棺が運ばれる時、とうとう顔を背けた。
節子は最初から最後まで泣いていた。
光蔵は、自分が美嘉に貸した玩具を握りしめていた。
「入れてあげるのか」
わしが聞くと、光蔵は首を振った。
「持ってる」
「そうか」
「美嘉が触ったから」
わしは何も言わなかった。それでよかった。
そして春子。
春子にはまだ、葬儀の意味さえ分からない。
いつもと違う服。
泣いている家族。
人が大勢集まっている。
ただそれだけだっただろう。
わしは春子を抱き上げた。小さな身体だった。
美嘉も、ほんの少し前までこれくらいだったような気がした。
「春子」
「なあに?」
まだ言葉も十分ではない。
「お前には、姉がおったのじゃ。美嘉という姉じゃ」
春子はわしの顔を見た。
いつか、この子は美嘉のことをほとんど覚えていない大人になる。
それが悲しかった。
美嘉は春子の手を握った。春子の髪を褒めた。
妹を不思議そうに覗き込み、自分がお姉ちゃんだと言った。
だが春子自身の記憶には、おそらく残らない。
ならば、わしらが伝えればよい。
「父上?」
修蔵が近くにいた。
わしは春子を抱いたまま言った。
「この子に、美嘉のことを教えてやろう」
修蔵が黙ってうなずいた。
節子も涙を拭いた。
「私、覚えてる」
「僕も、美嘉のこと、忘れない」
光蔵が言った。
「ああ」
わしは四人を見た。
そして、まだ幼い春子を見た。
春子はその年、まだ最初の七五三すら迎えていなかった。
七五三を祝い、大きくなった姿を見ること、それさえ当たり前ではない時代だ。
わしは幼いころにも、弟を亡くしている。
そして今度は、自分の娘を亡くした。
人は子どもを授かった瞬間から、無事に大人になる未来を勝手に思い描く。
だが、その未来は約束などされていない。
わしは春子を少し強く抱いた。
「この子を無事に育てよう」
愛海を見る。
目は赤く腫れていた。
わしは続けた。
「修蔵も、節子も、光蔵も、春子も」
そして美嘉の棺を見る。
「美嘉が生きられなかった分まで生きろ、などとは言わん」
子どもたちがこちらを見た。
「お前たちは、美嘉の代わりではない。自分の人生を生きればよい。ただ、生きてくれ」
立派な人間になれとは思わなかった。
出世しろとも思わなかった。
家の名を残せとも思わなかった。
ただ生きてほしかった。
愛海がわしの隣へ立った。
二人で春子の小さな手を握った。
美嘉を失った悲しみが消えることはなかった。
五人の子どもを育てていた家から、一人だけ声が消えた。
食事の時にも。
遊んでいる時にも。
子どもたちを呼ぶ時にも。
しばらくの間、わしらは無意識に美嘉の名まで呼びそうになった。
そのたびに、いないことを思い出した。
だが、美嘉がいた場所まで消えたわけではなかった。
光蔵の残した玩具にも。
節子の記憶にも。
修蔵が妹を気遣った日々にも。
春子の髪を「きれい」と褒めた言葉にも。
わしと愛海の心にも。
美嘉は確かにいた。
明治三十七年(1904)一月二十四日。
わしらの五人の子どものうち、初めて一人が先に逝った。
父親になって十五年。
軍人として戦場から生きて帰ったわしは、その日初めて知った。
戦場で人を失う悲しさと、我が子を失う悲しさは、同じ「死」という言葉では到底くくれない。
そしてわしは、美嘉の葬儀の日に誓った。
この子のことを忘れない。
春子にも必ず伝える。
そして残された四人を、自分たちの人生を歩めるところまで育てる。
それが、美嘉を救えなかった父親であるわしに、残された務めなのだと思った。




