第十五話 結婚と長男・長女誕生
陸軍少尉となってしばらく経ったころ、わしの人生には、軍隊とはまるで違う世界が入り込んできた。
その人の名は、桜井愛海といった。
愛海は明治元年の生まれで、わしより四つ年下だった。
初めて会った時の印象を言うのなら、静かな人だった。
軍隊に入って以来、わしの周囲にあるのは号令、靴音、銃声、馬の鳴き声、男たちの大声ばかりだった。その中で、愛海の落ち着いた話し方は不思議なほど耳に残った。
「軍人さんというのは、いつもそんなに背筋を伸ばしているものなのですか」
初めて話した時、愛海はそう言った。
「癖になっておるのかもしれん」
「家でも?」
「…家では多少は楽にしておる」
「多少なのですね」
愛海が笑った。
わしは返す言葉に困った。
軍隊では命令することにもされることにも慣れていた。だが、若い女性と話すことにはまるで慣れていなかった。
後になって母上にその話をすると、大いに笑われた。
「軍人になっても、そこは子どものころと変わらないのね」
「母上まで何を言う」
「だって、あなたは昔から女の子を前にすると急に口数が減ったでしょう」
「そんな覚えはない」
「母親には分かります」
父上は隣で黙って茶を飲んでいたが、口元が少し笑っていた。
愛海と会う回数が増えるにつれ、わしは彼女の穏やかさだけでなく、その芯の強さにも気づくようになった。
軍人の妻になるということは、夫がいつも家にいる生活ではない。訓練もある。勤務もある。将来、戦が起これば遠くへ赴く可能性もある。
わしはそれを隠さず話した。
「軍人の家というものは、決して楽ではないと思う」
愛海は黙って聞いていた。
「長く家を空けることもあるだろう。危険な仕事でもある。それでも…」
わしはそこで言葉に詰まった。
戦術について説明するなら、いくらでも話せる。
だが、自分の人生を誰かと共にしたいという気持ちを言葉にするのは、別の難しさがある。
「それでも?」
愛海が聞いた。
「…それでも、わしは愛海と一緒に生きたいと思っておる」
愛海は少し驚いた顔をしたあと、静かに微笑んだ。
「私もです」
そうして、わしらは明治二十一年(1888)四月、結婚することになった。
その一年前には、兄上・寛之助がすでに家庭を持っていた。
祝いの席で兄上は、わしの顔を見るなり笑った。
「蔵之助、お前もついにか」
「なんじゃ、その言い方は」
「弟が結婚するとなれば、兄として嬉しいに決まっておる」
「去年、自分が結婚した時には随分緊張しておったくせに」
「それを言うな」
兄上の妻も笑った。
父上と母上も喜んでくれた。特に母上は、愛海を迎える日を心待ちにしていたようだった。
「これで蔵之助も少しは家のことを考えるようになるでしょう」
「今までも考えておる」
「軍隊のことばかり話している人が?」
「……」
愛海まで笑っていた。
そして、母方の祖母・美帆も祝いに来た。
そのころすでに七十近くになっていたが、相変わらず目には好奇心があった。
「蔵之助もお婿さんかい」
「婿ではない、祖母上」
「細かいことを言うところは昔から変わらんねえ」
美帆祖母は愛海の顔をじっと見て、それから満足そうにうなずいた。
「この子なら大丈夫そうだ」
「何がです?」
愛海が尋ねる。
「蔵之助は真面目すぎるからね。こういう子には、よく笑う人がそばにいた方がいい」
「祖母上」
「当たっているでしょう?」
愛海は少し困ったように笑った。
わしだけが黙った。
結婚後、わしらの生活が始まった。
それは華やかなものではなかった。
朝になればわしは勤務へ出る。
愛海は家の仕事をする。
炊事、洗濯、掃除、水汲み、火の管理。
洗濯するにも、まずは井戸水から汲み上げ、木製のたらいを使って、手で揉み洗いをする。固形石鹸も少しずつ世に出回ってきたが、まだ貴重であり、木灰に湯を注いで取った灰汁や、米のとぎ汁を汚れ落としに使うことも多かった。
冬の水は冷たく、夏の台所は暑い。
わしが家へ戻るころには、愛海が一日の仕事をほとんど終えていることも多かった。
最初のころ、わしはそれを当然のもののように見ていた。
だが、ある晩、愛海が眠ったあとに荒れた手を見て、ふと思った。
軍隊で一日動くわしだけが大変なのではない。
家を守るという仕事もまた、終わりのない仕事なのだ。
それからは、できる範囲で手伝うようになった。
とはいえ、愛海からすれば不慣れなわしの仕事は危なっかしかったらしい。
「蔵之助さん、そこではありません」
「ここではないのか」
「違います」
「軍隊では物の位置は全部決まっておるぞ」
「ここは軍隊ではありません」
「…はい」
結婚してから、わしが最も頻繁に負ける相手は愛海になった。
明治二十二年(1889)二月十一日。
長男が生まれた。
名前は修蔵。
生まれたばかりの我が子を初めて見た時、わしはどうすればよいのか分からなかった。あまりにも小さかった。
「抱いてみますか」
愛海が言った。
「わしが?」
「父親でしょう」
「壊れぬか」
愛海が吹き出した。
「壊れませんよ」
「いや、しかし…」
銃を持つことには慣れている。
刀も扱える。
馬にも乗れる。
それなのに、生まれたばかりの赤子を抱くことだけは怖かった。
恐る恐る腕の中に修蔵を受け取った。
軽い。
そして温かい。
小さな指が、わしの指を握った。
その瞬間、不思議な感覚になった。
軍隊では、国を守るという言葉を何度も聞いた。
だがこの時初めて、「守る」という言葉が具体的な形を持った気がした。
この小さな命を、愛海を、この家を守る。
国というものも、本当はこういう家々の集まりなのではないか。そんなことを考えた。
父上も母上も初孫を喜んだ。
母上は修蔵を抱きながら、
「あなたがこんなに小さかったころを思い出すわ」
と言った。
「わしもこんなだったのか」
「当然でしょう」
「全く想像できん」
「あなたはよく泣いたのよ」
「それは兄上ではないのか」
「あなたです」
兄上が横から笑った。
「蔵之助、諦めろ。母上の記憶には勝てん」
父上は修蔵の顔をじっと見ていた。
そして静かに言った。
「わしも祖父か」
その声には、嬉しさと、少しの驚きが混じっていた。
幕府の時代に生まれ、刀を差していた父上が、明治の世で孫を抱いている。
美帆祖母に至っては曾祖母になった。
「また一人増えたねえ」
祖母は嬉しそうに修蔵を眺めた。
「この子が大きくなるころには、世の中はどうなっているんだろうね」
誰にも分からなかった。
修蔵を育てる日々が始まった。
だが、子どもを育てるということは、喜びだけではなかった。
熱を出せば心配になる。
咳が続けば、肺の病ではないかと危惧する。
幼い子が病で亡くなることも珍しくなかった。
わし自身、幼い弟を亡くしていた。
だから修蔵が高熱を出した夜には、昔の記憶が否応なく蘇った。
小さな身体が熱くなり、愛海が濡らした布を額に当てている。
「大丈夫でしょうか」
愛海の声も不安だった。
「大丈夫じゃ」
わしは答えた。
しかし、それは愛海に言ったというより、自分自身に言い聞かせた言葉だった。
夜中、修蔵の寝息を何度も確かめた。
軍隊では弱音を吐くなと教えられる。
だが我が子の病を前にした父親など、何の強さも持っていなかった。
翌日、熱が少し下がった時の安堵は忘れられない。
修蔵は少しずつ成長した。
初めて一人歩きしたときは愛海と一緒に感動した。
歩けるようになれば家の中を動き回り、物を触り、転び、また立ち上がる。
「修蔵、それは触るな」
わしがそう言うと、愛海が笑う。
「まだそんなに話せませんよ」
「今のうちから教えておくのじゃ」
「一歳ですよ」
父上はそんなわしを見て言った。
「子どもは兵ではないぞ」
「分かっておる」
「本当か?」
「父上まで…」
修蔵は、わしの軍帽を見つけると喜んだ。
床に置いていたものを勝手にかぶり、顔まで隠して歩こうとして転んだこともあった。
「こら、修蔵!」
わしが慌てて抱き上げると、本人はけらけら笑っていた。
愛海も笑っている。
家の中には、以前にはなかった声が増えた。
わしはそれが嬉しかった。
そして明治二十五年(1892)十月二十日。
今度は女の子が生まれた。
節子と名づけた。
修蔵が生まれた時ほどではないにせよ、やはり抱く時には緊張した。
「二人目ですよ」
愛海に言われた。
「赤子は何人目でも小さい」
修蔵は三歳になっていた。
妹を見て、不思議そうな顔をしていた。
「赤ちゃん?」
「そうじゃ。お前の妹じゃ」
「いもうと?」
「節子という」
修蔵はしばらく妹の顔を見ていた。
そして、小さな手で節子の手を触った。
節子が指を握る。
修蔵が驚いて手を引っ込めた。
「つかんだ!」
家中が笑った。
そのとき、わしは二人の子どもを見ながら、初めて自分が「家族の中心にいる世代」になったことを実感した。
幼いころのわしにとって、世界の中心には祖父母や父母がいた。
何かあれば父上を見る。
困れば母上を頼る。
昔のことを知りたければ祖父母に聞く。
だが今度は、修蔵と節子がわしを見る。
わしが父なのだ。
それは軍の階級よりも、はるかに重い役目に思えた。
ある夜、子どもたちが寝静まったあと、愛海と二人で話した。
「大きくなったら、この子たちは何になるのでしょうね」
愛海が言った。
「まだ早すぎる」
「考えるくらい、いいでしょう」
わしは眠っている修蔵と節子を見た。
「軍人でなくてもよい」
愛海が少し驚いた。
「蔵之助さんなら、男の子は軍人に、と言うのかと思いました」
「わしは自分で陸軍を選んだ。修蔵にも自分で選ばせたい」
「では節子は?」
「同じじゃ」
「女の子ですよ」
「女の子でも、自分の人生は自分のものじゃろう」
愛海は少し黙り、それから微笑んだ。
「そういうところ、私は好きですよ」
「急に何を言う」
「本当のことです」
わしは照れ隠しに茶を飲んだ。
窓の外には、明治の夜が広がっていた。
父上の幼いころにはなかった鉄道が走り、街には新しい西洋風の建物が増え、学校へ通う子どもも増えている。
日本そのものが、まだ成長の途中にあった。
そしてわしの家にも、二人の新しい命が生まれた。
修蔵。
節子。
眠っている二人を見ながら思った。
――どうか、この子らが安心して大人になれる国であってほしい。
兵士として守りたいものが、また二つ増えた。
修蔵が生まれて少し経った頃、わしは中尉に昇格したが、わしは中尉である前に、愛海の夫となり、修蔵と節子の父になったのである。




