第十二話 西南戦争と祖父の死
西南戦争 1877(明治10年)1月29日〜9月24日
旧薩摩藩の不平士族約3万人が西郷隆盛を指導者として挙兵した最大規模の反乱。政府軍に敗れ、西郷は自刃。
明治十年・一八七七年。
わしは十三歳になっていた。
前年、弟の葵を失った。
父上は刀を手放し、髷を切った。
祖父上―神楽坂金右衛門だけは、「腰に差さなければよい」と言い、刀を捨てず、髷も切らなかった。
わしはそんな祖父上から、家斉公のころから続く江戸の話を聞いた。
将軍。
武士。
天保の改革。
異国船。
大塩平八郎。
水野忠邦。
祖父上の中には、わしが生まれるはるか前の江戸が残っていた。
だが明治十年、その祖父上が生きてきた武士の時代に、最後の大きな戦が起こった。
九州、鹿児島。
西郷隆盛。
士族と新政府。
西南戦争だった。
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最初は噂だった。
「鹿児島の士族が立ったらしい」
町でそんな話を聞いた。
「西郷隆盛がいる」
「熊本へ向かっている」
「政府軍と戦になる」
わしは家へ帰るなり、父上に聞いた。
「父上、西郷隆盛が戦を始めたのか?」
父上は少し険しい顔をした。
父上は幕末、まだ西郷が薩摩藩士として江戸を往来していたころに、短く言葉を交わしたことがある。
「そう簡単な話でもない」
「では何なのじゃ」
「鹿児島の士族と政府の間に、もう引き返せないところまで亀裂ができたのじゃろう」
「西郷は新政府を作った人ではないのか?」
「ああ」
「なのに新政府と戦うのか?」
「そういうことじゃ」
わしには、どうにも理解できなかった。
幕府を倒した側の人間が、今度は明治政府と戦う。
数年前まで同じ側だった人々が、敵と味方に分かれる。
「歴史の中にいる人間は、自分がどこにいるのか分からん」
以前、父上がわしにそう言った。
その意味が、また一つ分かったような気がした。
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祖父上は、西南戦争の話を聞くたびに黙った。
「祖父上、鹿児島の士族が勝ったら、武士の世に戻るの?」
すると祖父上は、わしを見た。
「戻らん」
「でも士族が戦っておるのじゃろ」
「だからといって、江戸が戻ってくるものか」
祖父上は、以前ならもっと強い声で言っただろう。
だがこのころの声には、どこか力がなかった。
「幕府はない。藩もない。禄もない。刀を差して歩くこともできん。汽車は走り、電信が飛び、役所も軍も昔とは違う」
祖父上は窓の外を見た。
「戦に勝ったところで、時計を逆に回すことはできん」
十三歳のわしには、妙な言葉に聞こえた。
「なら祖父上は、西郷たちを応援しておらんの?」
「分からん」
と答えた。祖父上が、「分からん」と言うのは珍しかった。
「武士として思うところはある。だが、政に不満があるからといって、戦をすれば人が死ぬ。わしはもう、戦で若者が死ぬのを見たい年ではない」
それを聞いて、少し意外だった。若いころの祖父上なら、もっと勇ましいことを言ったのではないだろうか。
だが祖父上は、もう八十に近かった。
人生の終わりに近づいた武士にとって、戦とは、名誉より先に、死ぬ人間の姿として見えるのかもしれなかった。
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春、西郷軍は熊本城を攻めた。
田原坂で激しい戦いが続いた。
東京にも、戦況の知らせが入ってきた。
昔の戦とは違った。
九州で起こっていることが、新聞や電信によって東京へ伝わった。
「もう分かったのか?」
わしは驚いた。
「九州の話じゃろ?」
父上が言った。
「これが今の時代じゃ」
それを聞いていた祖父上が、小さく鼻を鳴らした。
「戦の知らせまで速くなったか」
「便利ではないか」
わしが言う。
祖父上は答えなかった。
ただ戦況が届くたび、必ず聞いていた。
「熊本はどうなった。田原坂は。西郷軍は」
父上が新聞や人づてに得た話を、祖父上へ伝える。
最初、西郷軍には勢いがあったが、政府軍が押し返し始めた。
田原坂。
熊本城。
人員。
銃。
弾薬。
補給。
新政府の軍隊は、かつての諸藩の寄せ集めとは違う。
徴兵によって集められた兵まで戦っていた。
士族だけの軍ではない。
「百姓の倅も兵になっているのか」
祖父上が尋ねた。
「はい」
父上が答えた。
祖父上は黙った。
昔なら戦うのは武士、それが当たり前だった。
だが、もう違う。武士の特権だった戦うことすら、武士だけのものではなくなった。
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夏に入るころ、西郷軍は少しずつ追い詰められていった。
そして祖父上も、少しずつ弱っていった。
最初は咳だった。
「祖父上、風邪か?」
「このくらい何でもない」
いつもの答えだが、咳は止まらなかった。
熱が出る。
息が苦しそうになる。
父上が、「医者に診てもらってください」と言った。
医者は祖父上を診た。
胸の音。
熱。
呼吸。
しばらくして、肺を患っているらしいと言った。
肺炎。わしはその言葉を、葵のときと同じように、嫌な病気の名前として覚えた。
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祖父上は、布団で過ごす時間が増えた。
髷は、最後まで切らなかった。
刀も、家に残っている。
ときどき。わしは祖父上の部屋へ行った。
「祖父上」
「なんじゃ」
「江戸の話の続きを聞かせてくれ」
祖父上が笑った。
「まだ聞くのか」
「全部聞くと言ったじゃろ」
以前、わしは祖父上に言った。
「全部聞くまで死ぬなよ」
祖父上は、「無茶を言う」と笑った。
あの言葉を思い出す。
だからわしは急いだ。
「家慶公の話をもっと」
「ああ」
「黒船のときは」
「それは前にも話した」
「もう一度聞きたい」
「お前はしつこいな」
そう言いながら、祖父上は話してくれた。
だが、以前とは違った。
途中で咳き込む。
息を整える。
話が止まる。
「今日はもういい」
とわしが言う。
「聞きたいのではなかったのか」
「でも苦しいじゃろ」
「苦しい」
「なら休め」
祖父上は笑った。
「お前も少しは人を気遣えるようになったか」
「十三じゃぞ」
「まだ十三じゃ」
また、子ども扱いされた。
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祖父上が床に伏せているころ。
西郷軍も九州の南へ南へと退いていた。
「また負けたそうです」
父上が戦況を伝える。祖父上は目を閉じた。
「そうか」
以前なら、詳しく聞いたが、夏の終わりには。「そうか」としか言わなくなった。
「祖父上」
わしが聞いた。
「悲しい?」
祖父上は目を開ける。
「何がしゃ」
「士族が負けていくのが」
祖父上は言った。
「少しな」
「やっぱり西郷を応援してた?」
「そういう話ではない」
祖父上は苦しそうに息をした。
「わしらのような武士が、世の中の中心から退いていく。それを見ているのが…寂しいのじゃ」
祖父上は生まれたときから武士だった。
徳川家斉の時代、剣術を習い.幕府へ仕え、将軍を見て、外国船を警戒し、幕末を生き、明治維新を見た。
今、九州で刀を手にした士族たちが、新しい政府軍に押し返されている。
それは祖父上にとって。ただ遠い九州の戦争ではなかった。
自分の時代が。完全に過去へ押し流されていく光景だったのだと思う。
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九月、祖父上の具合は、明らかに悪くなった。
熱。
咳。
息苦しさ。
食事もほとんど取れない。
父上と母上が何度も部屋へ来た。
寛之助兄上も。
わしも。
美帆祖母上も見舞いに来た。
家族が、少しずつ祖父上の周りへ集まり始めた。
葵のときと似ていた。
それが怖かった。
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九月二十四日、九州から大きな知らせが届いた。
城山。
政府軍の総攻撃。
西郷軍壊滅。
西郷隆盛、死す。
半年以上続いた西南戦争が、終わった。
父上が、祖父上の枕元へ来た。
言うべきかどうか、迷っているようだった。
祖父上が気づいた。
「何かあったか」
「…父上」
「西郷か」
父上は黙った。
それだけで祖父上には分かったらしい。
「死んだか」
「はい」
祖父上は目を閉じた。
「西南戦争も、ほぼ終わりました」
父上が言った。
祖父上は長く息を吐いた。
「そうか」
外から明治の東京の音が聞こえる。
人の声。
車輪。
遠くの町。
新しい時代は、祖父上の部屋とは関係なく動き続けている。
祖父上が口を開いた。
「権兵衛」
「はい」
「わしの刀は」
「あります」
「捨てるな」
父上の顔が少し揺れた。
「はい」
「差す必要はない、もう、その時代ではない」
「…はい」
「だが、わしが武士だったことまで、捨てる必要はない」
父上は、深く頭を下げた。
⸻
祖父上は、わしを見た。
「蔵之助」
「ここにおる」
近づいた。
祖父上の顔は以前よりずっと小さく見えた。
「江戸の話は覚えておるか」
「覚えておる」
「家斉公は」
「祖父上が生まれたときの将軍」
「天保の改革は」
「水野忠邦」
「異国船は」
「黒船よりずっと前から来ていた」
「伊能忠敬は」
「祖父上が若いころ会った」
祖父上が、ほんの少し笑った。
「よし」
「まだあるぞ」
わしは言った。
「まだ聞いてないことがある」
祖父上は目を細めた。
「欲張りだな」
「全部聞くって言ったじゃろ」
「全部は無理だ」
「なら、まだ死ぬな」
声が震えた。
祖父上は、しばらくわしを見ていた。
「蔵之助」
「なんじゃ」
「人は、全部を残して死ねるものではない」
「嫌じゃ」
「聞け」
「嫌じゃ」
十三歳にもなって、わしは子どものように言った。
祖父上はゆっくり手を伸ばした。
わしの頭へ触れた。
子どものころなら、背筋を伸ばせ、泣くな、武士の家の子だ、そんなことを言ったかもしれない。
だがこの日は違った。
「なら、お前が覚えておけ」
わしは泣きながら頷いた。
⸻
九月三十日、夜、祖父上の呼吸は、さらに弱くなった。
父上。
母上。
寛之助兄上。
わし。
皆がいる。
祖父上は部屋を見渡した。
そして小さな声で言った。
「江戸が…遠くなった」
祖父上の目に、何が見えていたのか、わしには分からない。
家斉公の時代か。
若いころの江戸か。
剣術の稽古か。
異国船か。
幕府か。
それとも、ただ家族の顔だったのか。
「父上」
権兵衛父上が呼んだ。
祖父上は、息を整えた。
そして最後にこう言った。
「権兵衛」
「はい」
「もうよい」
「何がです」
「刀を差さなくてもよい」
父上の目に涙が浮かんだ。
「はい」
祖父上は、わしらを見た。
「わしら武士の時代は…終わった」
長い間、誰よりも武士であることにこだわっていた人だった。
廃刀令が出ても刀を捨てなかった。髷を切らなかった。
だからこそその人が言った「終わった」という言葉は、誰の言葉よりも重かった。
「だが、生き方まで…なくなるわけではない」
父上が泣きながら頷いた。
祖父上はそれを見た。
そして、静かに目を閉じた。
神楽坂金右衛門。
寛政九年生まれ。
七十九歳。
肺炎。
祖父上は西南戦争が終わったころ、この世を去った。
⸻
翌朝、家の中から祖父上の声が消えていた。
「蔵之助!」
と呼ぶ声。
「背筋を伸ばせ」
「字が汚い」
「武士がそんなことでどうする」
もう聞こえない。
祖父上の刀だけが家に残った。
そして髷を結った祖父上の姿はもうどこにもなかった。
⸻
葬儀の日、家には多くの人が集まった。
祖父上の妻・志津江祖母上。
父上・権兵衛。
母上・志帆。
兄上・寛之助。
わし。
美帆祖母上も来た。
親族。
古くから祖父上を知る人。
旧幕臣。
かつての武士。
近所の人々。
中には、まだ髷を残している老人もいた。
だが、ざんぎりの者のほうがもう圧倒的に多かった。
わしはその光景を見た。
祖父上の葬儀なのに、まるで江戸の武士たちが、自分たちの昔を見送っているように感じた。
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父上は、棺の前に座っていた。
もう髷ではない。
腰に刀もない。
警察で働く、明治の人間の姿。
その前に、江戸を最後まで手放そうとしなかった父親が眠っている。
「父上」
わしが隣へ行った。
父上は祖父上の顔を見たまま言った。
「わしが子どものころはな、あの人は、絶対に死なないように見えた」
わしは驚いた。
「父上もそう思ったの?」
「ああ」
わしも同じだった。
祖父上はずっと祖父上だと思っていた。
江戸から明治まで、何十年も生きてきた。
この先もずっと家の奥に座り、昔話をして、わしを叱るような気がしていた。
違った。
葵は五歳で死んだ。
祖父上は七十九歳で死んだ。
長さはまるで違う。
それでも死ねばもう話せない。
そのことは同じだった。
⸻
葬儀が進む。
線香の煙。
読経。
すすり泣く声。
美帆祖母上が、そっと肩へ手を置いた。
母上も目を伏せていた。
寛之助兄上は黙って手を合わせた。
わしも手を合わせた。
だが何を祈ればいいのかわからなかった。
「安らかに」なのか。
「ありがとう」なのか。
「もっと話を聞きたかった」なのか。
全部だった。
⸻
棺が運ばれる。
わしは祖父上の刀のことを思った。
あの刀は棺には入らなかった。
家に残す。
それが祖父上の遺志だった。
武士の時代は終わった。
だが、武士として生きた人間まで、なかったことにはならない。
刀はその証として残る。
そしてもう一つ、残ったものがある。
祖父上の話。
それはわしの中にあった。
⸻
葬儀が終わったあと、わしは。祖父上が座っていた場所へ行った。
誰もいない。
少し前なら、「何をぼんやりしておる」と言われただろう。
わしは座った。
「祖父上」
返事はない。
分かっている。
それでも呼んだ。
「西郷も死んだぞ」
もちろん祖父上はもう知っていた。
「西南戦争も終わった」
返事はない。
「祖父上の言ったとおりなのかもしれんな」
わしら武士の時代は終わった。
九州では士族中心の軍が敗れた。
神楽坂家では金右衛門祖父上が死んだ。
偶然だ。分かっている。
だが十三歳のわしには同じ年に起きた二つのことが、どうしても重なって見えた。
⸻
祖父上が死んだから武士の時代が終わったのではない。
西郷が死んだから突然武士が消えたわけでもない。
もう何年も前から少しずつ終わっていた。
廃藩置県。
秩禄処分。
廃刀令。
徴兵令。
断髪。
新しい役所。
新しい軍隊。
新しい学校。
新しい町。
そして西南戦争。一つずつ昔の仕組みが消えていった。
祖父上はその全部を見た。
そして最後に自分で認めた。
「終わった」
と。
わしはその言葉の続きを忘れなかった。
「生き方までなくなるわけではない」
祖父上が、父上へ残した言葉。
刀を差さなくても、武士でなくても、誠実でいること、自分を律すること、弱い者を守ること、約束を守ること、学ぶこと、逃げるべきでないところでは逃げないこと、それらまで廃刀令で消えるわけではない。
わしは祖父上の刀を手に取ることはしなかった。
ただ袋に納められたそれを見た。
「祖父上、わし、覚えておくからな」
家斉公。
家慶公。
家定公。
家茂公。
慶喜公。
大御所政治。
天保の改革。
黒船以前の異国船。
伊能忠敬。
大塩平八郎。
水野忠邦。
武士の稽古。
江戸の暮らし。
全部ではない。
祖父上が言った通り、一人の人間の人生を、全部残すことなどできない。
それでも聞いたものだけはわしの中に残る。
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祖父上を葬ったあと、東京の町はいつも通り動いていた。
汽車は走る。
電信と新聞は届く。
学校へ子どもが通う。
ざんぎり頭が増える。
新政府は西南戦争に勝った。
日本はさらに明治の国になっていく。
そしてわしの家からは、江戸時代を最も長く知る人間が一人いなくなった。
十三歳のわしは初めて、「昔がなくなる」ということを本当の意味で感じた。
建物が壊れることでもない。
制度が変わることでもない。
昔を覚えている人間が、一人ずつ死んでいくこと。
それが、過去が遠くなっていくということなのだ。
だから聞いておかなければならない。
覚えておかなければならない。
そしていつか誰かへ話さなければならない。
祖父上がわしにしてくれたように。
明治十年九月。
西郷隆盛が城山に倒れ、西南戦争が終わったころ。
神楽坂金右衛門もまた、七十九年の人生を終えた。
一人は、最後の大規模な士族反乱の中心で。
一人は、東京の小さな家の布団の上で。
まったく違う場所で、武士として生きた二人の男が同じ時代の終わりに倒れた。
そして残されたわしは、祖父の死を悲しみながらも、少しずつ理解し始めていた。
時代は、人が死んだから終わるのではない。
けれど、その時代を生きた人が死ぬたびに、昔は確実に遠くなっていく。
だからこそわしは祖父上から受け取った江戸を忘れまいと思った。
第十二話のゲスト出演
祖父上の妻・志津江祖母上 (旗本の妻で、蔵之助からみて父方祖母にあたる)




