第十一話 兄の江戸時代の記憶 〜もうひとつの幼い江戸の記憶〜
第十一話で家族の江戸時代の回想シリーズが最後になります。
兄 神楽坂寛之助
文久2年(1862)8.8生まれ
兄として蔵之助を支えていて、いつも蔵之助の一歩先を行く少年だった。江戸時代の記憶は蔵之助よりも鮮明に残っている。学制までの2年間は寺子屋に通っていた。
祖父上からは、武士と幕府の江戸を聞いた。
美帆祖母上からは、浮世絵と旅の江戸を聞いた。
父上からは、黒船から大政奉還へ崩れていく江戸を聞いた。
母上からは、飯を炊き、服を繕い、子どもを育てながら生きた江戸を聞いた。
最後に残っていたのが、兄上だった。
神楽坂寛之助。
文久二年・一八六二年生まれ。
わしより、二歳上。
祖父母や父母のように何十年も江戸を生きたわけではない。
兄上が覚えている江戸も、ほんの幼いころだけだった。
だが、だからこそ、わしにとっては、誰より近い江戸だった。
同じ家。
同じ父母。
同じ道。
同じ音。
同じ匂い。
同じ幕末。
兄上は、わしが覚えているものを、わしより少しだけ鮮明に覚えている人だった。
⸻
ある夜、わしは兄上に言った。
「兄上」
「なんじゃ」
「兄上にも江戸の話を聞きたい」
兄上が笑った。
「わしに?」
「そうじゃ」
「祖父上や父上みたいな話はできないぞ」
「いい」
「将軍とも話してない」
「知ってる」
「黒船も見てない」
「それも知ってる」
兄上は少し考えた。
「わしが覚えてるのは、本当に小さいころだけじゃぞ」
「それが聞きたい」
兄上は不思議そうにわしを見た。
「お前、自分だって江戸生まれじゃろ」
「あまり覚えておらん」
「まあ、お前は二つ下じゃからな」
その言い方が少し腹立たしい。
「少しは覚えておる」
「何を?」
「土の匂い」
兄上の顔が変わった。
「それから?」
「雨に濡れた木」
「…ああ」
「草履の音」
兄上がゆっくり頷いた。
「覚えてる」
わしは身を乗り出した。
「本当に?」
「ああ」
それだけで何かがつながった気がした。
⸻
兄上の記憶にある江戸は明るい絵のようなものではなかった。
細切れだった。
朝、遠くから聞こえる鐘。
道を歩く人の草履。
馬。
荷車。
商人の声。
冬の火鉢。
夏のむっとするような暑さ。
夕暮れ。
少しずつ暗くなる家の中。
行灯。
油の匂い。
雨の日。
土。
湿った木。
濡れた草鞋。
「同じじゃ」
わしは思わず言った。
「何が?」
「わしの記憶と」
兄上が少し笑った。
「そりゃ同じ家にいたからな」
嬉しかった。
わしが勝手に作った記憶ではない。
自分だけの曖昧な夢でもない。
兄上も覚えている。
「父上の刀も覚えてる?」
「ああ、むしろお前より覚えてると思う」
家を出る父上。
髷。
刀。
袴。
足袋。
草履。
今のざんぎりの父上とは、まるで違う。
「母上の着物は?」
「覚えてる」
「家の匂いは?」
「覚えてる」
「江戸って、本当にあったんだな」
わしが言うと兄上は笑った。
「何を今さら」
でもわしには大事だった。
⸻
兄上が覚えている江戸で、一番古い家族の記憶の一つ。
それがわしの誕生だった。
「俺、お前が生まれた日のこと、少し覚えてるぞ」
「本当に?」
「全部じゃない」
兄上は当時、一歳半ほど。
普通なら記憶として残るにはかなり幼い。
だから本人も、後から聞いた話と、本当に覚えている感覚が混ざっているのかもしれない。
それでも兄上は覚えていると言った。
家の中がいつもと違ったこと。
大人たちが慌ただしかったこと。
母上のいる部屋へ入ろうとして止められたこと。
そして小さな泣き声。
「それがわし?」
「たぶんな」
「たぶんか」
「一歳の記憶に何を期待してる」
少しして祖母上か誰かに抱かれて赤ん坊のわしを見た。
「どう思った?」
「赤いと思った」
「それだけ?」
「小さいとも思った」
「感動は?」
「一歳児に求めるな」
兄上は笑った。
でもそのあと少し真面目な顔になった。
「ただ」
「なんじゃ」
「お前が泣くと、うるさいと思ったのは覚えてる」
「ひどい!」
「本当だから仕方ない」
⸻
わしが少し大きくなってからのことは、もっとはっきり覚えているという。
わしが歩けるようになる。
兄上のあとをついていく。
転ぶ。
泣く。
兄上の持っていたものを欲しがる。
兄上が怒る。
母上に叱られる。
そしてまた一緒に遊ぶ。
「お前、何でも俺の真似したぞ」
「そんなことない」
「した」
「例えば?」
「棒を持ったら、お前も棒を持つ」
「子どもなら普通じゃ」
「わしが石を拾えば、お前も拾う」
「それも普通」
「わしが走れば、お前も走る」
「兄上が真似されやすかっただけじゃ」
「何じゃそれ」
兄上は笑った。
わしは少し嬉しかった。
自分の覚えていない自分を兄上が覚えている。
それは不思議な感じだった。
⸻
幕末の家には子どもでも分かるほど、妙な空気があったという。
「父上と祖父上が、よく小さい声で話してた」
「何を?」
「分からない」
分からない。だからこそ怖かった。
子どもは大人が笑っているか、怒っているか、怖がっているか、それくらいは分かる。
言葉の意味が分からなくても家の空気は分かる。
「わしは父上が怖い顔してると、何か悪いことしたかなって思ってた」
「自分が?」
「ああ」
でも違った。
幕府。
朝廷。
長州。
薩摩。
異国。
戦。
そういう話だった。
「大人が世の中のことで悩んでるなんて、子どもには分からないからな」
兄上が言う。
わしにも似たような記憶があった。
聞いたことのない言葉。
知らない名前。
何か大変なことが起きている。
でも何なのか分からないあの感覚、兄上も同じだった。
⸻
そして、兄上が五歳、わしが三歳。
大政奉還。
そのころの兄上は、わしより少しだけ状況を理解していた。
「将軍様が、何かを返した」
それくらい。
「わし、お前に聞かれたの覚えてるぞ」
兄上が言う。
「何を?」
「将軍様は何を返したんだって」
わしは固まった。
「玩具か? 刀か?」とわしが聞いた。(第二話)
兄上が笑った。
「そうそう!」
「本当に覚えておったのか!」
「お前、真顔だったぞ」
「三歳だったんじゃ! 仕方ないじゃろ!」
兄上は腹を抱えて笑った。
わしも結局笑った。
だが少しして、兄上は言った。
「わしも分かってなかったけどな」
将軍が政権を返す。
幕府が終わりへ向かう。
そんなこと五歳の子どもが分かるはずもない。
ただ大人たちの顔で大変なことだと分かった。
⸻
翌年、慶応四年・明治元年。
上野戦争。
これは、兄上の記憶の中で、かなり鮮明だった。
「音」
兄上が言った。
「一番覚えてるのは、やっぱり音じゃ」
砲声。
「雷だと思った?」
「最初はな」
でも父上の顔を見て違うと分かった。
母上が戸を閉める。
子どもたちを家の中へ集める。
「外へ出るな」
父上の声。
わしは怖がっていた。
「蔵之助、覚えてるか?」
「少し」
わしは母上のそばにいた。
大きな音がすると身体が縮む。
「怖い」と言った気もする。
兄上はそれを覚えていた。
「お前、母上の着物つかんでた」
「…本当か」
「ああ」
少し恥ずかしかった。
でも四歳だ。仕方ない。
「兄上は怖くなかったの?」
兄上は笑わなかった。
「怖かった」
「じゃあ、何してた?」
「外を見た」
「は?」
父上から外へ出るな、戸を開けるな、と言われていた。
母上も「絶対に外を見に行ってはだめ」と言った。
だから兄上は見たくなった。
「なんでじゃ!」
「子どもだったから」
親に禁止される。
それだけで外に何があるのか気になる。
また砲声。
家の中。
大人たちが慌ただしい。
わしは母上のそば。
父上は外の情報を気にしている。
その隙に兄上はそっと、別の場所へ行った。
戸の隙間、ほんの少し開ける。
「外に兵隊がいたの?」
「家のすぐ前にはいなかった」
人が走る。
遠くで叫ぶ声。
煙。
空。
いつもの道がいつもの道ではない。
もっと見たくなって兄上はさらに開けようとした。
その瞬間。
「寛之助!」
父上。
兄上は凍った。
「何をしている!」
すぐに引き戻された。
戸を閉められた。
「外へ出るなと言ったじゃろう!」
兄上は相当怒られたらしい。
「泣いた?」
「泣いてない」
「本当に?」
「泣いてない」
怪しい。
「父上、怖かった?」
「戦より怖かった」
わしは笑った。兄上も笑った。
そのあと父上は兄上を強く抱いたという。
「勝手に外へ出るな」
もう一度、低い声で言った。
「死ぬぞ」
その一言、兄上は今でも覚えていた。
⸻
江戸が東京になった。
明治になった。
兄上はその変化を、
わしより少し鮮明に覚えている。
「ある日突然、全部変わった感じだった?」
「いや」
兄上は首を振った。
「少しずつじゃ」
名前が変わる。
役人が変わる。
人の髪型が変わる。
服が変わる。
町の雰囲気が変わる。
昔からあったものが消える。
知らないものが増える。
「でも、子どもだからすぐ慣れるんだよ」
それもわしには分かった。
最初は驚いたものが、一年経てば普通になる。
ざんぎり。
洋服。
煉瓦。
ガス灯。
汽車。
「大人は大変だったんじゃな」
兄上が言う。
「祖父上なんか今でも慣れておらん」
「まあな」
二人で笑った。
⸻
「文明開化はどう思った?」
わしが聞いた。
「面白かった」
兄上は即答した。
「祖父上とは大違いじゃな」
「子どもだったからな」
鉄道。兄上も興奮した。
ガス灯。驚いた。
煉瓦。触った。
洋服。笑った。
ざんぎり。自分もいつか切るのかと思った。
牛鍋。食べた。
太陽暦。訳が分からなかった。
「正月が急に来たときは?」
「父上が何を言ってるのか分からなかった」
「わしも!」
二人で笑った。
「わしら、江戸生まれだけど、育ったのは明治なんじゃな」
その言葉、わしは好きだった。
江戸で生まれた。でも物心がつくころには、明治。
だから完全な江戸の人間でもない。
完全な明治生まれでもない。
境目。その上に、兄上とわしは立っていた。
⸻
「兄上が覚えている江戸と、わしが覚えている江戸、似てるな」
「同じ家じゃからな」
また同じ答え。
でもやはり嬉しい。
「わし、自分の江戸の記憶が、いつか消えるんじゃないかと思ってた」
兄上がこちらを見る。
「消えるかもな」
「そういうこと言うな」
「でもわしが覚えてる」
わしは黙った。
「お前が忘れても、わしが覚えてる。わしが忘れても、お前が覚えてるかもしれない」
それは祖母上が言った、紙が覚える、という言葉と似ていた。人も互いの記憶を持っていられる。
「じゃあ、わしが生まれたときのこと、忘れるなよ」
「できるだけな」
「幼いころのわしも」
「覚えてる」
「江戸の匂いも」
「覚えてる」
「上野戦争も」
「それは忘れない」
「寺子屋も」
「ああ」
「全部じゃぞ」
兄上が呆れた。
「無茶言うな」
祖父上にも同じようなことを言った。
全部聞くまで死ぬな。
人はいつ死ぬか分からない。葵が教えた。
だからわしは、兄上に少しでも長く覚えていてほしかった。
⸻
兄上は祖父上ほど昔を知らない。
父上ほど幕末の政治も知らない。
母上ほど生活を語れない。
美帆祖母上ほど旅もしていない。
それでも兄上にしか語れない江戸があった。
わしの隣にいた江戸。
わしと同じものを見た江戸。
わしより二年だけ早く生まれ、二年だけ長く覚えている江戸。
それはどんな将軍の話より、どんな事件の話より、わしにとって近かった。
⸻
話を聞き終えたあと、わしらはしばらく黙っていた。
「なあ、蔵之助」
「なんじゃ」
「お前、本当にあんまり覚えてないのか?」
「少しは覚えておる」
「何を?」
わしは目を閉じた。
土の匂い。
雨。
濡れた木。
草履。
馬。
父上の刀。
母上の着物。
暗い夜。
鐘。
そして、横にいる。少し大きな子ども。
「兄上」
「なんじゃ」
「兄上がいた」
寛之助兄上は少し驚いた顔をした。
「江戸の記憶に?」
「うん」
はっきりとした場面ではない。
ただ、自分より少し先を歩いている小さな背中、わしはそのあとを追っている。
「やっぱり。わしの一番古いころから、兄上はおったんじゃな」
「当たり前じゃ」
兄上は笑った。
⸻
翌朝、兄上と一緒に家を出た。
明治の東京。
髷のない男。
洋服。
新しい店。
遠くでは汽車。
もう、わしらが生まれたころの江戸ではない。
でも兄上の横を歩いていると不思議だった。
十年以上前、同じように兄上のあとを追って歩いていた自分が、どこかに重なって見えた。
兄上はわしより二年早く生まれた。
ただそれだけだが、幕末と明治の境目ではその二年が大きかった。
兄上はわしより少しだけ多く、江戸を、幕末を覚えていた。
寺子屋を知っていた。
上野戦争の外をほんの少し見た。
そしてわし自身が覚えていない、幼いわしまで覚えていた。
⸻
わしは思った。
人間の記憶というものは、一人だけでできているのではないのかもしれない。
自分が忘れた自分を、誰かが覚えている。
自分が見落としたものを、誰かが見ている。
自分の曖昧な記憶を、別の人間の記憶が確かめてくれる。
江戸時代。
わしにとってもうそれは遠い昔だけではなかった。
祖父の中にある。
祖母の中にある。
父の中にある。
母の中にある。
そして、兄の中にもある。
最後にわし自身の中にも、ほんの少しだけ残っている。
兄上の話を聞いたことでその小さな記憶は、前より少しだけ本物になった気がした。
やがて、祖父も、祖母も、父も、母も、兄も、一人ずつ、昔を語ってくれる人たちはいなくなる。
そのとき今度は、わしが覚えている側になる。
だが十三歳のわしに分かっていたのは。ただ一つ。
自分一人では覚えていられない過去も、家族となら残していける。
それだけだった。
著名な出来事と神楽坂寛之助との時系列
1862(文久2年)・0歳 文久の改革
1864(元治元年)・2歳 禁門の変
1866(慶応2年)・4歳 薩長同盟
1867(慶応3年)・5歳 大政奉還
1868.1(慶応4年)・5歳 戊辰戦争の勃発
1868.9(明治元年)・6歳 明治改元
1869(明治2年)・7歳 版籍奉還 華族・士族を制定
1871(明治4年)・9歳 郵便制度・廃藩置県
1872(明治5年)・10歳 富岡製糸場・国立銀行条例・学制・福沢諭吉『学問のすゝめ』・太陽暦
1873(明治6年)・11歳 徴兵令・地租改正
1874(明治7年)・12歳 自由民権運動の始まり
1876(明治9年)・14歳 廃刀令
1877(明治10年)・15歳 西南戦争




