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第十話 母の江戸時代の記憶 〜幕末の暮らし〜

母 田沼志帆(たぬましほ)→神楽坂志帆(かぐらざかしほ)

天保14年(1843)3.31生まれ

職人の家系として印刷業に携わっている。少女時代に幕末を過ごし、文久元年(1861)12月、武家の養女から、神楽坂権兵衛の正妻となり、若くして結婚した。幕府の滅亡や文明開化には驚きつつも諸行無常として受け止めた。

祖父上からは、武士と将軍の江戸を聞いた。

美帆祖母上からは、浮世絵と旅と芝居の江戸を聞いた。

父上からは、黒船から大政奉還へ向かって崩れていく幕末を聞いた。


まだ、聞いていない人がいた。母上―神楽坂志帆。

天保十四年・一八四三年生まれ。

父上より十歳年下。

黒船が来たときには十歳。

大政奉還のときには二十四歳。

わしが生まれたときには、二十歳を過ぎた母親だった。


父上の話には刀が出てきた。

将軍が出てきた。

井伊直弼や勝海舟や坂本龍馬まで出てきた。

ではその同じ時代を、母上は何を見ながら生きていたのだろう。


ある日の夕方、母上が台所仕事をしているところへ、わしは近づいた。


「母上」


「なあに」


「昔の話を聞かせてくれ」


「今度は私?」


「うん」


「お祖父様、お祖母様、お父様と来て、とうとう私なのね」


「まだ兄上もおる」


「順番待ちなのね」


母上は少し笑った。


「何を聞きたいの?」


わしは少し考え、


「母上が子どもだったころの江戸」


と答えた。


少しだけ懐かしそうな顔になった。


「それなら私のお母様―美帆母さんの話から始めないといけないわね」


⸻


母上が幼かったころ、美帆祖母上は、すでに旅好きだった。


「母さんね、本当にじっとしていない人だったの」


「今もそうではないか」


「今よりもっとよ」


幼い母上は、美帆祖母上について何度も江戸の外へ出た。

遠くまで行くこともあれば、江戸近郊の寺社へ行くだけの日もある。


東海道。

日光道中。

あるいは街道から少し外れた村。


「母上も歩いたの?」


「歩いたわよ」


「疲れなかった?」


「疲れた」


「やっぱり」


「でも、子どもって不思議なのよ、着くまでは疲れたって泣くのに、着いたらすぐ走り回るの」


母上は笑った。


「宿場にも泊まった?」


「もちろん」


小さな旅籠。

大きな宿場。

茶屋。

馬。

荷を担ぐ人足。

旅人。

草鞋。

街道沿いに立つ道標。


「美帆母さんは、道標を見るのが好きだった」


「なぜ?」


「次はどこへ行こうかって考えるのが好きだったのよ」


道標には、右はどこ、左はどこ、この道を行けば何里、寺社の名前、宿場の名前、そういう文字が刻まれていた。

幼い母上にはそれが全部知らない世界へ続く矢印に見えたという。


「母さんに手を引かれて歩くとね、江戸が世界の全部じゃないって、子どもながらに分かるの」


わしは美帆祖母上から聞いた話を思い出した。(第八話)

祖母上は旅をして、母上は、その祖母上に連れられて旅をした。

同じ道を親子で歩いていたのだ。


⸻


「富くじって知ってる?」


母上が突然言った。


「富くじ?」


「今では昔ほど見ないでしょうけれど」


寺社などで札を売り。

当たれば大金。

外れれば何もない。


「博打?」


「まあ、そうね」


母上は少し困った顔をした。


「ただ、私が小さいころには、昔のような大きな富興行はすでに厳しく禁じられていたの」


「では母上はやってないの?」


「子どもがするものではありません」


「じゃあ、なぜ覚えておる」


母上は笑った。


「大人たちがよく話していたからよ」


昔、寺で富くじがあった。

誰が当たった。

誰が大金を夢見た。

富札を買って「今度こそ当たる」と騒いだ。


「美帆母さんも?」


「話は好きだったわね」


「買ったことは?」


「それは本人に聞きなさい」


「今度聞こう」


母上が笑った。

富くじが禁じられても一攫千金を夢見る人間の気持ちまでは消えない。

町では昔の富くじの話が残っていた。

「もし大金が当たったら何をする?」と、子ども同士で話したこともあったという。


⸻


母上の幼いころの暮らしには、信仰も近かった。

神社。

寺。

地蔵。

稲荷。

さまざまな祭り。


その中でも母上が覚えていたのが、庚申講だった。


「こうしんこう?」


「何人かで集まるのよ」


庚申の日、人々が集まる。

食事をする。

話をする。

祈る。

地域によってやり方は違う。


「何を祈るの?」


「無病息災とか、家内安全とか。いろいろ」


庚申塔。

青面金剛。

三猿。

見ざる。

聞かざる。

言わざる。


「日光の三猿と同じ?」


「そういう姿もよくあるわね」


わしは面白くなった。


母上にとって信仰は、何か特別な日だけのものではなかった。

道の脇に石仏がある。

家に神棚がある。

寺へ行く。

祭りがある。

講がある。

病気になれば祈る。

旅に出れば道中安全を願う。


「本当に神様が守ってくれると思っていた?」


母上は少し考えた。


「子どものころはね」


「今は?」


「今も祈るわよ」


「でも葵は…」


言ってからしまったと思った。

母上の手が止まった。


弟の葵、まだ死んで間もない。

どれほど祈っても戻ってこなかった。


「祈れば何でも叶うわけではないわ」


「じゃあ、なぜ祈るの?」


「人間には、何もできないことがあるからよ」


その答えはわしにはよく分からなかった。


「何もできないとき、それでも、何かしたいでしょう」


葵の枕元にいた母上を思い出した。

手を握り、名前を呼び、ただそばにいた。

あれも、祈りに近かったのかもしれない。


⸻


母上が十歳のとき、町に妙な噂が流れた。


「黒い船が来た」


黒船、父上が祖父上と実際に見たという、あの船。


だが母上には噂という形で黒船がやってきた。


「母上は見ていないの?」


「直接はね」


母上は答えた。


最初は何が本当なのか分からない。

異国の船が来た。

大きい。

煙を吐く。

大砲がある。

江戸まで攻めてくる。

日本を乗っ取る。

外国人は恐ろしい。

いや、ただ話し合いに来た。


「みんな、言うことが違ったの?」


「全然違ったわ」


母上は苦笑した。子どもたちまで影響された。


「異人が来るぞ」


「さらわれるぞ」


そんな話をして怖がる。


夜、外の音がする。もしかして外国人が来たのではないか、そんなことまで考えたという。


「父上は実際に黒船を見たのに母上は噂だけなんだな」


「同じ出来事でも、そういうものよ」


父上には砲と蒸気船。

母上には町に広がる恐怖と噂。


どちらも同じ黒船だった。


⸻


黒船以後、世の中は少しずつ変わった。

外国との交易が始まった。

物・金が動く。

そして暮らしの値段も動いた。


「物価が上がったの」


「ぶっか?」


「米も、油も、紙も、いろいろよ」


わしは首を傾げた。


「高くなると、そんなに困る?」


母上に睨まれた。


「あなたは家計を考えなくていいから、そう言えるのよ」


母上が若い娘だったころ、幕末の物価高は、町の暮らしに直接響いた。

米。

味噌。

醤油。

薪や炭。

油。

布。

生活に必要なもの。


少しずつ高くなる。昨日まで買えた量が買えなくなる。


「政治が変わるのって、町の人には、まず値段で分かることがあるのよ」


その言葉、わしには新鮮だった。

父上の話では、条約、幕府、尊王攘夷、大老、将軍。

そんな大きな話だった。


母上の話では、米が高く、油を節約し、新しい着物を買わない。


「そんなことで時代が分かるの?」


「そんなことだから分かるの。毎日の暮らしに届いて初めて、大きな出来事が本当に大きな出来事になるのよ」


⸻


「幕末って、どんな暮らしだった?」


「普通よ」


と母上は答えた。


「普通?」


「そう」


それが一番意外だった。


「だって幕末じゃぞ」


「だから何?」


「歴史の大変な時期ではないか」


「でも朝は来るでしょう」


母上が言う。


朝起きる。

顔を洗う。

飯を作る。

着物を着る。

掃除。

洗濯。

仕事。

買い物。

子どもの世話。

夜になれば寝る。


「毎日、尊王攘夷について考えていたと思う?」


「少しくらい」


「そんな暇ありません」


一刀両断だった。


着るもの、普段は着物。

木綿。

季節によって重ねる。

傷めば繕う。

古くなれば別の使い道にする。


「服は大事に使うのよ」


「今でもそうじゃろ」


「あなたはすぐ汚すでしょう」


「それは別の話じゃ」


食事。

米。

麦。

味噌汁。

漬物。

魚。

豆腐。

野菜。

季節によって変わる。

毎日豪華なものを食べるわけではない。


「牛鍋なんて?」


「そんなの、あなたたちの時代になってからよ」


わしが食べた牛鍋を思い出した。(第四話)


住まい。

畳。

障子。

襖。

火鉢。

行灯。

井戸。


「暗かった?」


「夜は暗いわよ。今みたいにガス灯もないし」


夕方になれば、家の中も外も今よりずっと暗い。

だから日が暮れるということの意味が今とは違った。


「夜は夜だったの」


母上は言った。

なんだかその言葉が好きだった。


⸻


そして母上が二十歳近くになる頃、子どもを育てる立場になった。

最初の子が、寛之助兄上。

そのあと、わし。


「わしが生まれたとき、どうだった?」


「泣いたわよ」


「母上が?」


「あなたが」


「わしは覚えておらん」


「覚えていたら怖いわ」


母上は笑った。


子育て、それも幕末の生活だった。

おむつ。

乳。

夜泣き。

熱。

腹を壊す。

転ぶ。

泣く。

兄弟喧嘩。


「父上は手伝った?」


「今よりは少なかったわね」


「父上!」


父上のいないところで言っておこうと思った。

母上が笑う。


父上もわしらを抱いた。

あやした。

病気になれば心配した。


ただ、家の外では幕府が揺れている。

家の中では子どもが泣いている。


「上野戦争のころも?」


母上の顔が少し曇った。


「あのころは本当に怖かった」


寛之助兄上。

わし。

幼い子どもが二人。


外では戦が近づいている。

砲声。

噂。

逃げる人。

戸締まり。

火事への恐怖。


「でも、子どもはお腹が空けば泣くの」


どんなときでも飯を食べさせる。

寝かせる。

泣けば抱く。


「戦だからって、子育てを止められないでしょう」


それは父上のどんな政治の話よりもわしには強く感じられた。


⸻


慶応三年・一八六七年。

大政奉還。


「母上は、どう知ったの?」


「人づてよ」


町の噂。

父上の話。

家の中の空気。

徳川慶喜公が政を朝廷へ返した。


「どう思った?」


母上は少し笑った。


「よく分からなかった」


父上と同じだった。


将軍が政を返す。だから何が起こるのか、幕府は消えるのか、明日から町は変わるのか、税は、仕事は、暮らしは、誰にも分からない。


父上は愕然としていた。

金右衛門祖父上は怒っていた。

美帆祖母上は、「また時代が変わるのかしらね」と、比較的冷静だった。


そして母上は子どもたちを見た。

寛之助兄上。

わし。

「この子たちは、これからどうなるのだろう」

それが最初に思ったことだったという。


「幕府より、わしら?」


「当たり前でしょう。私にとっては、将軍様よりあなたたちのほうが大事だもの」


わしは少し照れた。


「でも、武士の家なのに」


「武士の家だから何?」


母上は言った。


「国がどうなっても、子どもを生かさなくてはいけないの」


その言葉、父上とはまったく違った。

父上は幕府がなくなれば、自分は何者になるのかと考えた。

母上は幕府がなくなったあとも、子どもをどう生かすか考えた。


同じ大政奉還、見えているものが違った。


⸻


「母上は江戸が終わるの、悲しかった?」


母上は長いこと考えた。


「悲しいというより不安だった」


「何が?」


「分からないことが多すぎたから」


将軍がいなくなる。

新しい政府。

新しい制度。

戦。

物価。

暮らし。

子ども。

夫。

親。

何がどうなるのか分からない。


でも朝になれば起きるしかない。

飯を作るしかない。

子どもを着替えさせるしかない。


「時代が変わるときって、普通の人は、歴史を作っているなんて考えないのよ」


「じゃあ何を考える?」


「明日のこと」


その答え、わしは忘れない。


⸻


わしは祖父上の話を聞いたとき、江戸時代は将軍と武士の時代に見えた。

美帆祖母上の話を聞いたとき、江戸時代は浮世絵と旅と芝居の時代に見えた。

父上の話を聞いたとき、江戸時代は黒船と政治と争いの中で壊れていく時代に見えた。


そして母上の話を聞いたとき、江戸時代は、飯を炊き、服を繕い、子どもを育て、祭りへ行き、旅をして、物価に困り、噂に怖がり、それでも朝になれば起きる。

そんな時代に見えた。


「母上」


「なあに」


「歴史って、なんなのじゃろうな」


母上が笑った。


「急に難しいことを聞くのね」


「祖父上も、祖母上も、父上も、母上も、みんな同じ時代を生きたのに、話が全然違う」


「当たり前でしょう」


同じ答えだった。


「人が違えば、見えるものも違うもの」


母上は最後にこう言った。


「蔵之助、あなたも、今を覚えておきなさい」


「明治を?」


「そう」


「なぜ?」


「あなたにとっては、今が普通でしょう」


確かに。


汽車がある。

ガス灯がある。

ざんぎりの人がいる。

警察がいる。

学校がある。

わしにとって少しずつ当たり前になってきている。


「でも、いつか、今のことを昔話として聞きたがる人がいるかもしれないわ」


わしは笑った。


「誰が?」


「さあ」


母上も笑った。


わしにはそんな未来など想像できなかった。

自分が誰かに昔話をする、まだ十三歳のわしにはずっと先のことだった。


⸻


その夜、布団に入ってからわしは母上の話を思い返した。


美帆祖母上と歩いた街道。

道標。

宿。

富くじの噂。

庚申講。

神社。

寺。

黒船の噂。

物価高。

着物。

飯。

暗い夜。

子育て。

大政奉還。


父上の幕末には、刀があった。

母上の幕末には、鍋と針と子どもの手があった。

どちらも本当なのだ。

むしろ両方なければその時代は分からない。


わしは少しずつ理解し始めていた。歴史というものは、大きな出来事だけを並べても、人の暮らしは見えない。

大政奉還の裏で、飯を炊いた人がいる。

黒船の噂に怯えながら、子どもを寝かせた人がいる。

物価が上がれば買うものを減らした人がいる。

世の中がどう変わっても明日のために生きた人がいる。

その一人がわしの母だった。


⸻


翌朝、母上はいつものように早く起きていた。

飯を作っている。

何も特別ではない。


だがわしには昨日までとは少し違って見えた。

この人は黒船の噂を聞いた。

幕末の物価高を知っている。

大政奉還を知っている。

上野戦争の砲声の中でわしらを守った。

それでも今日も普通に飯を作っている。


「母上」


「なあに」


「ありがとう」


母上が振り返った。


「急にどうしたの」


「なんでもない」


「変な子ね」


わしは飯を食べた。

いつもの味だった。

でも、その「いつも」というものが、どれだけ多くの時代を越えて続いてきたのか。少しだけ分かった気がした。


祖父上の江戸。

祖母上の江戸。

父上の江戸。

母上の江戸。

わしの中に四つの江戸が入り始めていた。


そして母上の話からわしはもう一つ知った。

歴史が大きく動いているときでも、人間は毎日の暮らしを生きている。

むしろその毎日の暮らしこそ、後になれば本当に失われていくものなのかもしれなかった。

著名な出来事と田沼・神楽坂志帆との時系列


1853(嘉永6年)・10歳 ペリー来航

1860(万延元年)・17歳 五品江戸廻送令・百姓一揆頻発

1862(文久2年)・19歳 尊王攘夷論の激化

1866(慶応2年)・23歳 各地で世直し一揆・打ちこわし頻発

1867(慶応3年)・24歳 大政奉還

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