第九話 父の江戸時代の記憶 〜幕末の動乱〜
父 神楽坂権兵衛
天保4年(1833)7.27生まれ
旗本の家系として生まれ、24歳で家督相続により神楽坂家の当主になった。幕末の動乱をこの目で見てきた。士族になってからは没落していき、仕事が安定せず迷走した。その後は明治警察の仕事に就いた。
祖父上からは、将軍と武士の江戸を聞いた。
美帆祖母上からは、浮世絵と歌舞伎と旅の江戸を聞いた。
そうなると、次に聞きたい人は決まっていた。
父上―神楽坂権兵衛。天保四年、一八三三年生まれ。
わしが生まれたころ、すでに三十を越えた旗本だった。
今は、髷を切り、刀を手放し、幕府も失い、警察という新しい仕事で働き始めている。
祖父上が「昔の武士」を今も身体に残しているなら、父上は「武士だった人間が明治をどう生き直すのか」を、わしの目の前で見せている人だった。
ある夜、父上が仕事から帰ってきたあと。
わしは聞いた。
「父上の江戸の話も聞かせてくれ」
父上が箸を止めた。
「今度はわしか」
「祖父上にも祖母上にも聞いた」
「知っている。最近のお前は昔話ばかりじゃな」
「聞けるうちに聞いておきたい」
そう言うと父上の顔が少し変わった。
葵のことを思い出したのだと思う。
父上は何も言わず、しばらく飯を食い、
「では、何から聞きたい」
と言った。
「父上が子どもだったころ」
「長くなるぞ」
「構わん」
わしは父上の前へ座り直した。
⸻
父上が子どものころ、何より怖かったのは、金右衛門祖父上だったという。
「やっぱり怖かったのか!」
わしは思わず笑った。
「当たり前じゃ」
父上は不機嫌そうに答えた。
「お前が知っている祖父上より若いのじゃぞ」
考えてみればそうだった。今の祖父上は七十を越えている。
だが父上が六歳、七歳だったころ、祖父上はまだ四十前後。身体も丈夫で、声も今以上に大きかった。
朝、まだ眠い。外は寒い。それでも起こされる。
「権兵衛、起きろ」
「まだ暗いです」
「武士が日の出まで寝ておるな」
木刀を持つ。
構える。
振る。
「腰が高い!」
「はい!」
「腕だけで振るな!」
「はい!」
「返事だけは一人前じゃな!」
「はい!」
「それも返事じゃ!」
わしは笑った。
「祖父上、今と変わらんではないか」
「変わらん」
父上も笑った。
剣だけではなかった。
槍。
弓。
礼法。
読み書き。
歴史。
儒学。
屋敷での振る舞い。
年長者への礼。
主君への忠義。
父上が少しでもだらければ、祖父上の声が飛んできた。
「武士とは刀を持っている者ではない」
幼い父上に、祖父上は何度もそう教えた。
「己を律せぬ者が、他人を守れるものか」
「父上はちゃんと聞いていた?」
「半分くらいは」
「半分か」
「子どもというのは、そんなものだ」
その父上が、今ではわしに似たようなことを言っている。人間は面白い。
⸻
父上の幼いころ、将軍は徳川家慶公だった。
「家慶公も見たことがある?」
「ああ」
「話した?」
「ない」
「祖父上は話したぞ」
「父上と比べるな」
父上は少しむっとした。
だが、家慶公、家定公、家茂公、慶喜公。
父上は、家慶公以降の四人の将軍をすべて実際に目にしたことがあった。
行列。
登城。
儀礼。
遠くから見ただけのこともあった。
「将軍様って、やっぱりすごく見えた?」
「子どものころはな。将軍公というのは、ずっとそこにいるものだと思っていた」
「ずっと?」
「ああ」
幕府も、江戸城も、徳川家も、なくなるなど考えもしない。父上にとってそれらは、山や川と同じくらい、「あるのが当たり前」のものだった。
「だから、最後に全部なくなったときの衝撃は、お前にはなかなか分からんじゃろうな」
わしは黙った。わしにとって幕府は、幼すぎて記憶の端にしか残っていない。
父上にとっては、人生そのものだった。
⸻
父上が二十歳になったころ、その「当たり前」を大きく揺らすものが現れた。
黒船。
嘉永六年・一八五三年。
「祖父上と一緒に見たの?」
「ああ」
父上の声が変わった。その日のことだけは、今でも鮮明に覚えているらしい。
浦賀へ異国の艦隊が現れた。
黒い船体。
高く立ち上る煙。
見慣れない形。
巨大な砲。
「最初は何だと思った?」
「船だとは分かったが、日本の船とはまるで違った」
祖父上と父上は、緊張した。
江戸では噂が駆け巡る。
異国が攻めてくる。
江戸が焼かれる。
将軍家はどうする。
誰も本当のところを知らない。
「祖父上は?」
「黙っていた」
「怖がらなかった?」
父上が少し笑った。
「怖かったと思う」
「祖父上でも?」
「怖くない人間などおるものか」
父上は続けた。
「ただ、父上は怖いとは言わなかった」
黒船を見た祖父上は、長いこと海を見ていたという。
そして、「ついに来たか」とだけ呟いた。
祖父上は若いころから異国船の来航を知っていた。
フェートン号。
異国船打払令。
モリソン号。
だから、突然知らない世界が現れたのではない。
「いつかもっと大きなものが来る」
そう思っていた。それが黒船という形で、ついに目の前へ現れた。
「父上はどう思った?」
「負けるかもしれないと思った」
父上は即答した。
「日本が?」
「ああ」
その答えに驚いた。
武士なら、「異国など追い払えばよい」と言うものだと思っていたからだ。
父上は首を振った。
「あれを実際に見れば、簡単には言えん」
巨大な船。
蒸気。
砲。
統率。
未知の技術。
「刀一本で立ち向かえる相手ではないと思った」
父上の言葉は重かった。
⸻
二十四歳。安政四年・一八五七年。
父上は家督を継いだ。
祖父上は当時還暦、神楽坂家の家長としての責任を父上へ渡した。
「怖くなかった?」
「怖かった」
「また?」
「お前は、人間が何歳になれば怖くなくなると思っている」
「大人なら少しは」
「ならん。二十四など、今思えばまだ若造じゃ」
家のこと。
家臣や奉公人との関係。
収入。
役目。
幕府への奉公。
親族。
将来。
すべてを考えなければならない。
祖父上は厳しかった。
「今日から、お前が神楽坂家を背負え」
父上が、
「父上はまだご健在ではありませんか」
と言うと、祖父上は答えた。
「だからこそ、失敗できるうちに渡すのじゃ」
わしはその話を聞いて、少しだけ祖父上を見直した。
「ちゃんと考えていたんだな」
「当たり前じゃ」
父上に睨まれた。
⸻
だが、父上が家督を継いだころから幕府は急速に不安定になった。
安政五年、安政の大獄。
井伊直弼が大老として強い権力を握り、幕府に反対する者たちへの処罰が広がった。
「父上も関わったの?」
父上は少し黙った。
「役目としてな」
命令が来る。
警固。
探索。
人の出入りの確認。
場合によっては捕縛への加勢。
父上自身が政策を決めたわけではない。だが幕臣である以上、上からの命令には従わなければならない。
「悪い人を捕まえたの?」
父上はすぐには答えなかった。
「それが分からなくなった」
「どういうこと?」
「幕府に逆らった者が、すべて悪人とは限らん」
わしは黙った。父上は当時、幕府こそ国を支えるものだと信じていた。
だが捕えられる者の中には、自分なりに日本の行く末を案じている人間もいた。
「では命令に逆らえばよかったのでは?」
十二歳のわしは簡単に言った。
父上は少し険しい顔をした。
「言うのは簡単じゃ」
その一言で、わしは黙った。
家があり、妻がいて、親がいて、役目があり、主君がいる。自分だけの正義で、すべてを投げ出せるわけではない。
父上が幕末について語るとき、ときどき言葉が止まるが、昔の自分が正しかったのか、今でも決められないからなのかもしれなかった。
⸻
安政七年三月三日。
雪。桜田門外。
父上はその日、江戸城周辺の警固に関わる役目に出ていた。
「雪だったの?」
「ああ」
春が近いのに、江戸には雪が降っていた。
突然騒ぎ、人が走る。
刀や銃声。
「何事だ!」
父上たちが動いた。
大老・井伊直弼の行列が襲われた。水戸を脱藩した浪士たちを中心とする襲撃だった。
父上は桜田門近くから異変へ駆けつけた。すでに現場は混乱していた。
雪。
血。
倒れる人間。
抜かれた刀。
逃げる者。
追う者。
父上も刀を抜いた。
「戦ったの?」
「ああ」
襲撃者側の一人と斬り結んだ。
ほんの短い時間、相手の刀を受ける、押し返す。
次の瞬間には別の人間が間へ入り、誰が敵で誰が味方なのかさえ分からなくなる。
「斬った?」
わしは恐る恐る聞いた。
「…傷つけたことはある」
それ以上は言わなかった。
そして、井伊直弼は死んだ。
幕府の最高権力者が、江戸城のすぐそばで殺された。
「そのとき、本当に、何かが壊れたと思った」
大老が城門の前で殺される。
そんなことが起こるなら幕府の威光とは何なのか。
武士たちは衝撃を受けた。
町人たちは噂した。
政治の空気が変わった。
「祖父上は?」
「激怒した」
「襲撃者に?」
「それだけではない。こんなことになるまで世を乱した幕府そのものにも」
⸻
それから世の中には、
「尊王」
「攘夷」
という言葉があふれた。
天皇を尊ぶ。
外国人を追い払う。
だが人によって意味は違った。
本当に外国を武力で追い払おうとする者。
幕府を倒すための旗印として掲げる者。
朝廷と幕府を結びつけようとする者。
開国しながら国を強くしようとする者。
「尊王攘夷の人は、みんな同じ考えではなかったの?」
「まったく違う。むしろ、同じ言葉を使っているから余計にややこしかった」
昨日の味方が今日の敵になる。
敵だと思っていた相手と手を組む。
幕府側の者が開国を唱える。
討幕側にも、かつては攘夷を叫んだ者がいる。
「分からん」
わしは頭を抱えた。
「わしらにも分からなかった」
歴史のあとから見ると出来事は一列に並ぶが、その中を生きている人間には、明日何が起こるかなど分からない。
⸻
「父上は、有名な人にも会ったの?」
わしが聞くと父上は、
「何人かはな」
と答えた。
わしは身を乗り出した。
最初に出てきたのは、勝麟太郎、後の勝海舟だった。
「勝殿とは何度か話した」
「何度も!?」
同じ幕臣。しかも勝は西洋の兵学や海軍について学び、幕府の中でも異色の存在だった。
「変わった人だった?」
「変わっていた」
父上は即答した。
「刀より船の話をする武士だからな」
父上がまだ、異国をどう扱えばよいのか迷っていたころ、勝は言ったという。
「海の向こうを知らずに、海の向こうと戦えるものか」
父上は、その考えに最初は反発した。
武士なら、異国の圧力に屈するな、そう思う気持ちもあった。
だが、黒船を自分の目で見ている。
「だから勝殿の話を、笑い飛ばすこともできなかった」
⸻
勝の周囲には、幕臣以外の若者も集まった。
その中に妙な土佐者がいたという。
「坂本龍馬」
父上がその名を出した瞬間、わしは驚いた。
「龍馬に会ったの!?」
「一度二度、話した程度な」
「どんな人だった?」
「妙な男じゃった」
「またそれか」
身分にこだわらない。
人の話をよく聞く。
突然大きなことを言う。
海を見て、国全体のことを考える。
「幕臣の父上と喧嘩しなかった?」
「しなかった」
「討幕の人だったんじゃないの?」
「人間は最初から最後まで一つの考えで固まっているわけではない」
父上は言った。
「龍馬も変わった。わしも変わった。日本そのものが変わっていた」
父上は、龍馬が海の話をするときだけ、妙に目を輝かせていたのを覚えているという。
「日本の中だけで争っている場合ではない」
そんな意味のことを話した。
父上には、当時それが大きな話に聞こえた。
⸻
桂小五郎。後の木戸孝允。
「桂殿にも会った」
父上と同じ年。剣術にも優れた長州藩士。
政治の話になる前には、武芸や藩の話を交わしたこともあったという。
「強かった?」
「強かった」
「父上より?」
「知らん」
「負けた?」
「蔵之助」
「はい」
それ以上聞くのはやめた。
だが後になって桂小五郎が、長州の中心人物として幕府と対立する。父上にとっては不思議だった。
昔、普通に言葉を交わした青年が、やがて幕府を揺るがす側へ回る。
「敵になったと思った?」
「幕府の立場ではな」
「父上自身は?」
「難しい質問じゃ」
その答えが、幕末そのものなのかもしれなかった。
⸻
土佐の乾退助、後の板垣退助。
父上は江戸で短く言葉を交わしたことがあった。
まだ「自由民権」という未来の言葉など、誰も知らないころである。
「どんな人?」
「気が強かった。自分の考えをはっきり言う」
「父上と似てる」
「わしはもっと穏やかじゃ」
「母上に聞いてみる」
「やめろ」
後に板垣がどんな人物になるのか、このときの父上には知る由もなかった。
ただ、土佐にも、幕府の行く末を真剣に考えている若い武士がいる。それだけだった。
⸻
そして、西郷吉之助、後の西郷隆盛。
「西郷殿まで?」
わしはもう驚きで疲れていた。
父上は、
「幕末の江戸には、いろんな藩の人間が出入りしていた」
と言った。
若いころの西郷が薩摩藩主・島津斉彬のもとで江戸を行き来していた時期、父上は一度、人を介して短く話す機会があった。
大柄。
静か。
だが、相手の目を見る。
「怖かった?」
「見た目はな」
父上は笑う。
政治について深い話をしたわけではない。
だが、日本がこれからどうなるのか。
幕府だけで国を守り切れるのか。
そんな空気は、すでに会話の端々にあったという。
その西郷が、のちに幕府を倒す側の中心となる。
さらに、勝海舟と向き合い、江戸城を戦火から救うことになる。
父上が若いころには、誰にも分からなかった未来だった。
⸻
「父上、みんな最初から歴史の偉い人だったわけではないんじゃな」
「当たり前じゃ」
「でも、名前だけ聞くと、最初から大人物みたいに思える」
「違う」
父上は言った。
「わしが会ったときには、皆、生きている途中じゃ」
その言葉、わしは妙に好きだった。
生きている途中、勝海舟も、坂本龍馬も、桂小五郎も、乾退助も、西郷吉之助も、自分が後世にどう呼ばれるかなど、知らない。
失敗して、迷う。考えを変える。誰と組むか悩む。昨日と違うことを言う。
「歴史の人」というのは、あとからそう呼ばれるだけなのだ。
⸻
慶応三年・一八六七年。
大政奉還。
徳川慶喜公が、政権を朝廷へ返す。
その知らせを聞いた日のことを、父上は今でも忘れないという。
「どう思った?」
「最初は意味が分からなかった」
意外だった。「政を返す」と言われても、幕府は残るのか、将軍職はどうなる、徳川家は、旗本は、江戸城は、自分たちの役目は、すぐには誰にも分からない。
「幕府が終わったと思った?」
「その日のうちには思わなかった。慶喜公が政権を返しても、徳川家が政治の中心に残る道はあるのではないか、と考えた者も多かった」
だが事態はさらに進んだ。
王政復古。
そして翌年。
戦、鳥羽・伏見。
江戸へ迫る新政府軍。
「父上、大政奉還を聞いたとき、泣いた?」
「泣かなかった」
「祖父上は?」
「怒った」
「やっぱり」
「じゃが、夜になって一人になったとき、怖くなった」
何十年も、徳川に仕えることだけを教えられてきた。
父から。
周囲から。
自分自身も信じた。
その徳川幕府が、自ら政権を返す。
「明日から、自分は何者になるのだろうと思った」
わしは息を呑んだ。
その言葉を、最近の父上からも感じていたからだ。
幕府が消え、廃刀令が出て、禄も消え。髷を切り、刀を手放し、仕事を探していた父上。
すべては、大政奉還の日から始まっていたのかもしれない。
⸻
外は暗くなっていた。父上は湯を飲んだ。わしは長いこと黙っていた。
「どうした」
「父上の江戸は、怖いな」
父上が少し笑う。
「祖母上の江戸のほうがよかったか」
「浮世絵と旅と歌舞伎だったからな」
「それも同じ江戸じゃ」
同じ江戸。その言葉を、祖母上から聞いた。(第八話)
美帆祖母上が浮世絵を見ていたころ、誰かは政治に悩んでいた。
宿場で旅人が笑っていたころ、幕府は異国船への対応を考えていた。
歌舞伎役者に歓声が飛んでいたころ、父上は祖父上に木刀で叩かれていた。
そして幕末になると、父上は本当に刀を抜いた。
「江戸時代」と一言で呼んでも、穏やかな日もある。
楽しい日も、血の流れる日も。
⸻
「父上、桜田門で戦ったこと、後悔しておる?」
父上はすぐには答えなかった。
「分からん」
「命令されたから?」
「それもある」
「相手が敵だったから?」
「そのときはそう思った」
「今は?」
父上は自分の手を見た。
「今になれば、あの日斬り合った相手にも、家族がいたのだろうと思う」
わしは葵を思い出した。
死んだ人間は帰らない。
政治のため。
主君のため。
国のため。
どんな理由があっても、死んだ人は帰らない。
「だからこそ刀を抜くというのは、本来怖いことなのじゃ」
金右衛門祖父上も似たことを言っていた。
強いというのは、斬れることではなく、斬らずに済ませられることでもある。
父と祖父。やはり二人は親子なのだと思った。
⸻
「蔵之助」
「なんじゃ」
「お前は、わしらの昔話を聞いて、何をしたい」
「何を?」
考えたことがなかった。
ただ聞きたい。忘れたくない。それだけだった。
「祖父上も、祖母上も、父上も、いつかいなくなるじゃろ」
父上は黙った。
「葵みたいに」
その名前を口にすると、まだ胸が痛んだ。
「だから、聞けるうちに聞いておきたい」
父上は静かに頷いた。
「それでいい。じゃが、一つ覚えておけ」
「何を?」
「わしの話が、江戸のすべてではない」
祖父上の江戸。
祖母上の江戸。
父上の江戸。
全部違う。
「人間というものは、自分が見た場所からしか世の中を見られん」
父上が言った。
「わしは幕臣じゃったから幕臣の目で見ている。薩摩には薩摩の話がある。長州には長州の話がある。町人にも、農民にも、それぞれの話がある」
「では、誰が正しい?」
父上は笑った。
「それを考えるのがお前じゃ」
⸻
その夜、わしは布団の中で、父上から聞いた人々を思い浮かべた。
徳川家慶。
家定。
家茂。
慶喜。
井伊直弼。
勝海舟。
坂本龍馬。
桂小五郎。
乾退助。
西郷吉之助。
名前だけなら、皆ばらばらだった。
だが父上の人生の中に並べると、一本の道になる。
祖父上に木刀を持たされた少年が、黒船を見て。二十四歳で家を継ぎ、政治の弾圧に関わり、桜田門で刀を抜き、尊王攘夷の熱狂を見て、国の将来を語る男たちに会い、最後には、自分が仕えてきた幕府の終わりを見る。
今、父上は刀を持たず、髷もなく、明治の警察として働いている。
人間の人生は、こんなにも変わるのか。
⸻
わしは少し前まで、父上が商売に失敗したことを面白がっていた。
仕事を転々とする姿を見て、
「父上にもできないことがあるのだ」
と思っていた。
だがこの夜、少し見方が変わった。
父上は、単に仕事を失った男ではなかった。
四十年以上かけて覚えてきた世界そのものを失った人だった。
武士として育てられ、武士として家を継ぎ、命令を受け、刀を抜き、徳川家に仕えた。
そのすべてが終わった。
それでも父上は生きている。
新しい服を着て、新しい制度の中で、昨日まで知らなかった仕事へ行く。
「人生の再開」。そんな言葉を、わしはまだ知らなかった。
でも。父上を見ていると、そういうものがあるのだと思った。
⸻
翌朝、父上は仕事へ行く支度をしていた。
もう髷はない。腰にも、昔の武士としての刀はない。
「父上」
「なんじゃ」
「勝海舟にまた会える?」
父上は妙な顔をした。
「なぜじゃ」
「わしも会ってみたい」
「勝手に会える相手ではない」
「龍馬は?」
「あの男は、もう死んでいる」
と答えた。
慶応三年(1867)、大政奉還のわずか後、坂本龍馬は京都で殺された。
わしは、また一つ理解した。父上が話していた人々の中には、もう二度と会えない人もいる。
「そうか…」
「だから人に会えるときには、話しておくものじゃ」
わしが昔話を聞き始めた理由へ、戻っていく。
父上が家を出る。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
その背中を見ながらわしは思った。
わし自身は、江戸時代をほとんど覚えていない。
けれど祖父上、祖母上、父上から、少しずつ江戸を受け取っている。
将軍の江戸。
武士の江戸。
浮世絵の江戸。
旅の江戸。
そして、壊れていく江戸。
それらを覚えている限り、わしの中にも自分では見ていない江戸が少しずつ生き始めていた。
そして父上の話からもう一つだけ学んだ。
歴史の中にいる人間は、自分が歴史のどこにいるのか分からない。
黒船を見た父上は、十四年後に幕府がなくなるとは知らなかった。
桜田門で刀を抜いた父上は、その十六年後に自分が刀を手放すとは知らなかった。
坂本龍馬と話した父上は、その男が後世に名を残すとも知らなかった。
そして今ここにいるわしも、この明治という時代が、この先どこへ行くのか、何一つ知らない。
わしはただ、十三歳の神楽坂蔵之助として、父上から受け取った昔を胸に、自分の明日を生きていくしかなかった。
著名な出来事と神楽坂権兵衛との時系列
1833(天保4年)〜1839 ・0〜6歳 天保の飢饉
1837(天保8年)・4歳 大塩の乱・モリソン号事件
1841(天保12年)・8歳 天保の改革
1853(嘉永6年)・20歳 ペリー来航
1858(安政5年)・25歳 日米修好通商条約・安政の大獄(〜1859)
1860(万延元年)・27歳 桜田門外の変
1862(文久2年)・29歳 文久の改革
1863(文久3年)・30歳 薩英戦争
1864(元治元年)・31歳 禁門の変・四国艦隊下関砲撃事件
1866(慶応2年)・33歳 薩長同盟
1867(慶応3年)・34歳 大政奉還




