↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/57

第九話 父の江戸時代の記憶 〜幕末の動乱〜

父 神楽坂権兵衛(かぐらざかごんべえ)

天保4年(1833)7.27生まれ

旗本の家系として生まれ、24歳で家督相続により神楽坂家の当主になった。幕末の動乱をこの目で見てきた。士族になってからは没落していき、仕事が安定せず迷走した。その後は明治警察の仕事に就いた。

祖父上からは、将軍と武士の江戸を聞いた。

美帆祖母上からは、浮世絵と歌舞伎と旅の江戸を聞いた。

そうなると、次に聞きたい人は決まっていた。


父上―神楽坂権兵衛。天保四年、一八三三年生まれ。

わしが生まれたころ、すでに三十を越えた旗本だった。

今は、髷を切り、刀を手放し、幕府も失い、警察という新しい仕事で働き始めている。


祖父上が「昔の武士」を今も身体に残しているなら、父上は「武士だった人間が明治をどう生き直すのか」を、わしの目の前で見せている人だった。


ある夜、父上が仕事から帰ってきたあと。


わしは聞いた。


「父上の江戸の話も聞かせてくれ」


父上が箸を止めた。


「今度はわしか」


「祖父上にも祖母上にも聞いた」


「知っている。最近のお前は昔話ばかりじゃな」


「聞けるうちに聞いておきたい」


そう言うと父上の顔が少し変わった。

葵のことを思い出したのだと思う。

父上は何も言わず、しばらく飯を食い、


「では、何から聞きたい」


と言った。


「父上が子どもだったころ」


「長くなるぞ」


「構わん」


わしは父上の前へ座り直した。


⸻


父上が子どものころ、何より怖かったのは、金右衛門祖父上だったという。


「やっぱり怖かったのか!」


わしは思わず笑った。


「当たり前じゃ」


父上は不機嫌そうに答えた。


「お前が知っている祖父上より若いのじゃぞ」


考えてみればそうだった。今の祖父上は七十を越えている。

だが父上が六歳、七歳だったころ、祖父上はまだ四十前後。身体も丈夫で、声も今以上に大きかった。


朝、まだ眠い。外は寒い。それでも起こされる。


「権兵衛、起きろ」


「まだ暗いです」


「武士が日の出まで寝ておるな」


木刀を持つ。

構える。

振る。


「腰が高い!」


「はい!」


「腕だけで振るな!」


「はい!」


「返事だけは一人前じゃな!」


「はい!」


「それも返事じゃ!」


わしは笑った。


「祖父上、今と変わらんではないか」


「変わらん」


父上も笑った。


剣だけではなかった。

槍。

弓。

礼法。

読み書き。

歴史。

儒学。

屋敷での振る舞い。

年長者への礼。

主君への忠義。


父上が少しでもだらければ、祖父上の声が飛んできた。


「武士とは刀を持っている者ではない」


幼い父上に、祖父上は何度もそう教えた。


「己を律せぬ者が、他人を守れるものか」


「父上はちゃんと聞いていた?」


「半分くらいは」


「半分か」


「子どもというのは、そんなものだ」


その父上が、今ではわしに似たようなことを言っている。人間は面白い。


⸻


父上の幼いころ、将軍は徳川家慶公だった。


「家慶公も見たことがある?」


「ああ」


「話した?」


「ない」


「祖父上は話したぞ」


「父上と比べるな」


父上は少しむっとした。


だが、家慶公、家定公、家茂公、慶喜公。

父上は、家慶公以降の四人の将軍をすべて実際に目にしたことがあった。

行列。

登城。

儀礼。

遠くから見ただけのこともあった。


「将軍様って、やっぱりすごく見えた?」


「子どものころはな。将軍公というのは、ずっとそこにいるものだと思っていた」


「ずっと?」


「ああ」


幕府も、江戸城も、徳川家も、なくなるなど考えもしない。父上にとってそれらは、山や川と同じくらい、「あるのが当たり前」のものだった。


「だから、最後に全部なくなったときの衝撃は、お前にはなかなか分からんじゃろうな」


わしは黙った。わしにとって幕府は、幼すぎて記憶の端にしか残っていない。

父上にとっては、人生そのものだった。


⸻


父上が二十歳になったころ、その「当たり前」を大きく揺らすものが現れた。


黒船。

嘉永六年・一八五三年。


「祖父上と一緒に見たの?」


「ああ」


父上の声が変わった。その日のことだけは、今でも鮮明に覚えているらしい。


浦賀へ異国の艦隊が現れた。

黒い船体。

高く立ち上る煙。

見慣れない形。

巨大な砲。


「最初は何だと思った?」


「船だとは分かったが、日本の船とはまるで違った」


祖父上と父上は、緊張した。

江戸では噂が駆け巡る。

異国が攻めてくる。

江戸が焼かれる。

将軍家はどうする。

誰も本当のところを知らない。


「祖父上は?」


「黙っていた」


「怖がらなかった?」


父上が少し笑った。


「怖かったと思う」


「祖父上でも?」


「怖くない人間などおるものか」


父上は続けた。


「ただ、父上は怖いとは言わなかった」


黒船を見た祖父上は、長いこと海を見ていたという。


そして、「ついに来たか」とだけ呟いた。


祖父上は若いころから異国船の来航を知っていた。

フェートン号。

異国船打払令。

モリソン号。

だから、突然知らない世界が現れたのではない。


「いつかもっと大きなものが来る」


そう思っていた。それが黒船という形で、ついに目の前へ現れた。


「父上はどう思った?」


「負けるかもしれないと思った」


父上は即答した。


「日本が?」


「ああ」


その答えに驚いた。


武士なら、「異国など追い払えばよい」と言うものだと思っていたからだ。

父上は首を振った。


「あれを実際に見れば、簡単には言えん」


巨大な船。

蒸気。

砲。

統率。

未知の技術。


「刀一本で立ち向かえる相手ではないと思った」


父上の言葉は重かった。


⸻


二十四歳。安政四年・一八五七年。


父上は家督を継いだ。

祖父上は当時還暦、神楽坂家の家長としての責任を父上へ渡した。


「怖くなかった?」


「怖かった」


「また?」


「お前は、人間が何歳になれば怖くなくなると思っている」


「大人なら少しは」


「ならん。二十四など、今思えばまだ若造じゃ」


家のこと。

家臣や奉公人との関係。

収入。

役目。

幕府への奉公。

親族。

将来。

すべてを考えなければならない。

祖父上は厳しかった。


「今日から、お前が神楽坂家を背負え」


父上が、


「父上はまだご健在ではありませんか」


と言うと、祖父上は答えた。


「だからこそ、失敗できるうちに渡すのじゃ」


わしはその話を聞いて、少しだけ祖父上を見直した。


「ちゃんと考えていたんだな」


「当たり前じゃ」


父上に睨まれた。


⸻


だが、父上が家督を継いだころから幕府は急速に不安定になった。


安政五年、安政の大獄。

井伊直弼が大老として強い権力を握り、幕府に反対する者たちへの処罰が広がった。


「父上も関わったの?」


父上は少し黙った。


「役目としてな」


命令が来る。

警固。

探索。

人の出入りの確認。

場合によっては捕縛への加勢。


父上自身が政策を決めたわけではない。だが幕臣である以上、上からの命令には従わなければならない。


「悪い人を捕まえたの?」


父上はすぐには答えなかった。


「それが分からなくなった」


「どういうこと?」


「幕府に逆らった者が、すべて悪人とは限らん」


わしは黙った。父上は当時、幕府こそ国を支えるものだと信じていた。

だが捕えられる者の中には、自分なりに日本の行く末を案じている人間もいた。


「では命令に逆らえばよかったのでは?」


十二歳のわしは簡単に言った。


父上は少し険しい顔をした。


「言うのは簡単じゃ」


その一言で、わしは黙った。

家があり、妻がいて、親がいて、役目があり、主君がいる。自分だけの正義で、すべてを投げ出せるわけではない。

父上が幕末について語るとき、ときどき言葉が止まるが、昔の自分が正しかったのか、今でも決められないからなのかもしれなかった。


⸻


安政七年三月三日。


雪。桜田門外。

父上はその日、江戸城周辺の警固に関わる役目に出ていた。


「雪だったの?」


「ああ」


春が近いのに、江戸には雪が降っていた。


突然騒ぎ、人が走る。

刀や銃声。


「何事だ!」


父上たちが動いた。


大老・井伊直弼の行列が襲われた。水戸を脱藩した浪士たちを中心とする襲撃だった。

父上は桜田門近くから異変へ駆けつけた。すでに現場は混乱していた。


雪。

血。

倒れる人間。

抜かれた刀。

逃げる者。

追う者。

父上も刀を抜いた。


「戦ったの?」


「ああ」


襲撃者側の一人と斬り結んだ。

ほんの短い時間、相手の刀を受ける、押し返す。

次の瞬間には別の人間が間へ入り、誰が敵で誰が味方なのかさえ分からなくなる。


「斬った?」


わしは恐る恐る聞いた。


「…傷つけたことはある」


それ以上は言わなかった。

そして、井伊直弼は死んだ。

幕府の最高権力者が、江戸城のすぐそばで殺された。


「そのとき、本当に、何かが壊れたと思った」


大老が城門の前で殺される。

そんなことが起こるなら幕府の威光とは何なのか。

武士たちは衝撃を受けた。

町人たちは噂した。

政治の空気が変わった。


「祖父上は?」


「激怒した」


「襲撃者に?」


「それだけではない。こんなことになるまで世を乱した幕府そのものにも」


⸻


それから世の中には、

「尊王」

「攘夷」

という言葉があふれた。


天皇を尊ぶ。

外国人を追い払う。

だが人によって意味は違った。


本当に外国を武力で追い払おうとする者。

幕府を倒すための旗印として掲げる者。

朝廷と幕府を結びつけようとする者。

開国しながら国を強くしようとする者。


「尊王攘夷の人は、みんな同じ考えではなかったの?」


「まったく違う。むしろ、同じ言葉を使っているから余計にややこしかった」


昨日の味方が今日の敵になる。

敵だと思っていた相手と手を組む。

幕府側の者が開国を唱える。

討幕側にも、かつては攘夷を叫んだ者がいる。


「分からん」


わしは頭を抱えた。


「わしらにも分からなかった」


歴史のあとから見ると出来事は一列に並ぶが、その中を生きている人間には、明日何が起こるかなど分からない。


⸻


「父上は、有名な人にも会ったの?」


わしが聞くと父上は、


「何人かはな」


と答えた。

わしは身を乗り出した。


最初に出てきたのは、勝麟太郎、後の勝海舟だった。


「勝殿とは何度か話した」


「何度も!?」


同じ幕臣。しかも勝は西洋の兵学や海軍について学び、幕府の中でも異色の存在だった。


「変わった人だった?」


「変わっていた」


父上は即答した。


「刀より船の話をする武士だからな」


父上がまだ、異国をどう扱えばよいのか迷っていたころ、勝は言ったという。


「海の向こうを知らずに、海の向こうと戦えるものか」


父上は、その考えに最初は反発した。

武士なら、異国の圧力に屈するな、そう思う気持ちもあった。

だが、黒船を自分の目で見ている。


「だから勝殿の話を、笑い飛ばすこともできなかった」


⸻


勝の周囲には、幕臣以外の若者も集まった。

その中に妙な土佐者がいたという。


「坂本龍馬」


父上がその名を出した瞬間、わしは驚いた。


「龍馬に会ったの!?」


「一度二度、話した程度な」


「どんな人だった?」


「妙な男じゃった」


「またそれか」


身分にこだわらない。

人の話をよく聞く。

突然大きなことを言う。

海を見て、国全体のことを考える。


「幕臣の父上と喧嘩しなかった?」


「しなかった」


「討幕の人だったんじゃないの?」


「人間は最初から最後まで一つの考えで固まっているわけではない」


父上は言った。


「龍馬も変わった。わしも変わった。日本そのものが変わっていた」


父上は、龍馬が海の話をするときだけ、妙に目を輝かせていたのを覚えているという。


「日本の中だけで争っている場合ではない」


そんな意味のことを話した。

父上には、当時それが大きな話に聞こえた。


⸻


桂小五郎。後の木戸孝允。


「桂殿にも会った」


父上と同じ年。剣術にも優れた長州藩士。

政治の話になる前には、武芸や藩の話を交わしたこともあったという。


「強かった?」


「強かった」


「父上より?」


「知らん」


「負けた?」


「蔵之助」


「はい」


それ以上聞くのはやめた。


だが後になって桂小五郎が、長州の中心人物として幕府と対立する。父上にとっては不思議だった。


昔、普通に言葉を交わした青年が、やがて幕府を揺るがす側へ回る。


「敵になったと思った?」


「幕府の立場ではな」


「父上自身は?」


「難しい質問じゃ」


その答えが、幕末そのものなのかもしれなかった。


⸻


土佐の乾退助、後の板垣退助。

父上は江戸で短く言葉を交わしたことがあった。


まだ「自由民権」という未来の言葉など、誰も知らないころである。


「どんな人?」


「気が強かった。自分の考えをはっきり言う」


「父上と似てる」


「わしはもっと穏やかじゃ」


「母上に聞いてみる」


「やめろ」


後に板垣がどんな人物になるのか、このときの父上には知る由もなかった。


ただ、土佐にも、幕府の行く末を真剣に考えている若い武士がいる。それだけだった。


⸻


そして、西郷吉之助、後の西郷隆盛。


「西郷殿まで?」


わしはもう驚きで疲れていた。

父上は、


「幕末の江戸には、いろんな藩の人間が出入りしていた」


と言った。


若いころの西郷が薩摩藩主・島津斉彬のもとで江戸を行き来していた時期、父上は一度、人を介して短く話す機会があった。

大柄。

静か。

だが、相手の目を見る。


「怖かった?」


「見た目はな」


父上は笑う。


政治について深い話をしたわけではない。

だが、日本がこれからどうなるのか。

幕府だけで国を守り切れるのか。

そんな空気は、すでに会話の端々にあったという。


その西郷が、のちに幕府を倒す側の中心となる。

さらに、勝海舟と向き合い、江戸城を戦火から救うことになる。

父上が若いころには、誰にも分からなかった未来だった。


⸻


「父上、みんな最初から歴史の偉い人だったわけではないんじゃな」


「当たり前じゃ」


「でも、名前だけ聞くと、最初から大人物みたいに思える」


「違う」


父上は言った。


「わしが会ったときには、皆、生きている途中じゃ」


その言葉、わしは妙に好きだった。 


生きている途中、勝海舟も、坂本龍馬も、桂小五郎も、乾退助も、西郷吉之助も、自分が後世にどう呼ばれるかなど、知らない。


失敗して、迷う。考えを変える。誰と組むか悩む。昨日と違うことを言う。

「歴史の人」というのは、あとからそう呼ばれるだけなのだ。


⸻


慶応三年・一八六七年。


大政奉還。


徳川慶喜公が、政権を朝廷へ返す。

その知らせを聞いた日のことを、父上は今でも忘れないという。


「どう思った?」


「最初は意味が分からなかった」


意外だった。「政を返す」と言われても、幕府は残るのか、将軍職はどうなる、徳川家は、旗本は、江戸城は、自分たちの役目は、すぐには誰にも分からない。


「幕府が終わったと思った?」


「その日のうちには思わなかった。慶喜公が政権を返しても、徳川家が政治の中心に残る道はあるのではないか、と考えた者も多かった」


だが事態はさらに進んだ。


王政復古。

そして翌年。

戦、鳥羽・伏見。

江戸へ迫る新政府軍。


「父上、大政奉還を聞いたとき、泣いた?」


「泣かなかった」


「祖父上は?」


「怒った」


「やっぱり」


「じゃが、夜になって一人になったとき、怖くなった」


何十年も、徳川に仕えることだけを教えられてきた。

父から。

周囲から。

自分自身も信じた。


その徳川幕府が、自ら政権を返す。


「明日から、自分は何者になるのだろうと思った」


わしは息を呑んだ。


その言葉を、最近の父上からも感じていたからだ。

幕府が消え、廃刀令が出て、禄も消え。髷を切り、刀を手放し、仕事を探していた父上。


すべては、大政奉還の日から始まっていたのかもしれない。


⸻


外は暗くなっていた。父上は湯を飲んだ。わしは長いこと黙っていた。


「どうした」


「父上の江戸は、怖いな」


父上が少し笑う。


「祖母上の江戸のほうがよかったか」


「浮世絵と旅と歌舞伎だったからな」


「それも同じ江戸じゃ」


同じ江戸。その言葉を、祖母上から聞いた。(第八話)


美帆祖母上が浮世絵を見ていたころ、誰かは政治に悩んでいた。

宿場で旅人が笑っていたころ、幕府は異国船への対応を考えていた。

歌舞伎役者に歓声が飛んでいたころ、父上は祖父上に木刀で叩かれていた。

そして幕末になると、父上は本当に刀を抜いた。


「江戸時代」と一言で呼んでも、穏やかな日もある。

楽しい日も、血の流れる日も。


⸻


「父上、桜田門で戦ったこと、後悔しておる?」


父上はすぐには答えなかった。


「分からん」


「命令されたから?」


「それもある」


「相手が敵だったから?」


「そのときはそう思った」


「今は?」


父上は自分の手を見た。


「今になれば、あの日斬り合った相手にも、家族がいたのだろうと思う」


わしは葵を思い出した。

死んだ人間は帰らない。

政治のため。

主君のため。

国のため。

どんな理由があっても、死んだ人は帰らない。


「だからこそ刀を抜くというのは、本来怖いことなのじゃ」


金右衛門祖父上も似たことを言っていた。

強いというのは、斬れることではなく、斬らずに済ませられることでもある。


父と祖父。やはり二人は親子なのだと思った。


⸻


「蔵之助」


「なんじゃ」


「お前は、わしらの昔話を聞いて、何をしたい」


「何を?」


考えたことがなかった。

ただ聞きたい。忘れたくない。それだけだった。


「祖父上も、祖母上も、父上も、いつかいなくなるじゃろ」


父上は黙った。


「葵みたいに」


その名前を口にすると、まだ胸が痛んだ。


「だから、聞けるうちに聞いておきたい」


父上は静かに頷いた。


「それでいい。じゃが、一つ覚えておけ」


「何を?」


「わしの話が、江戸のすべてではない」


祖父上の江戸。

祖母上の江戸。

父上の江戸。

全部違う。


「人間というものは、自分が見た場所からしか世の中を見られん」


父上が言った。


「わしは幕臣じゃったから幕臣の目で見ている。薩摩には薩摩の話がある。長州には長州の話がある。町人にも、農民にも、それぞれの話がある」


「では、誰が正しい?」


父上は笑った。


「それを考えるのがお前じゃ」


⸻


その夜、わしは布団の中で、父上から聞いた人々を思い浮かべた。


徳川家慶。

家定。

家茂。

慶喜。

井伊直弼。

勝海舟。

坂本龍馬。

桂小五郎。

乾退助。

西郷吉之助。


名前だけなら、皆ばらばらだった。

だが父上の人生の中に並べると、一本の道になる。


祖父上に木刀を持たされた少年が、黒船を見て。二十四歳で家を継ぎ、政治の弾圧に関わり、桜田門で刀を抜き、尊王攘夷の熱狂を見て、国の将来を語る男たちに会い、最後には、自分が仕えてきた幕府の終わりを見る。


今、父上は刀を持たず、髷もなく、明治の警察として働いている。

人間の人生は、こんなにも変わるのか。


⸻


わしは少し前まで、父上が商売に失敗したことを面白がっていた。

仕事を転々とする姿を見て、


「父上にもできないことがあるのだ」


と思っていた。


だがこの夜、少し見方が変わった。

父上は、単に仕事を失った男ではなかった。

四十年以上かけて覚えてきた世界そのものを失った人だった。


武士として育てられ、武士として家を継ぎ、命令を受け、刀を抜き、徳川家に仕えた。

そのすべてが終わった。


それでも父上は生きている。

新しい服を着て、新しい制度の中で、昨日まで知らなかった仕事へ行く。


「人生の再開」。そんな言葉を、わしはまだ知らなかった。

でも。父上を見ていると、そういうものがあるのだと思った。


⸻


翌朝、父上は仕事へ行く支度をしていた。

もう髷はない。腰にも、昔の武士としての刀はない。


「父上」


「なんじゃ」


「勝海舟にまた会える?」


父上は妙な顔をした。


「なぜじゃ」


「わしも会ってみたい」


「勝手に会える相手ではない」


「龍馬は?」


「あの男は、もう死んでいる」


と答えた。

慶応三年(1867)、大政奉還のわずか後、坂本龍馬は京都で殺された。


わしは、また一つ理解した。父上が話していた人々の中には、もう二度と会えない人もいる。


「そうか…」


「だから人に会えるときには、話しておくものじゃ」


わしが昔話を聞き始めた理由へ、戻っていく。


父上が家を出る。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


その背中を見ながらわしは思った。

わし自身は、江戸時代をほとんど覚えていない。

けれど祖父上、祖母上、父上から、少しずつ江戸を受け取っている。


将軍の江戸。

武士の江戸。

浮世絵の江戸。

旅の江戸。

そして、壊れていく江戸。

それらを覚えている限り、わしの中にも自分では見ていない江戸が少しずつ生き始めていた。


そして父上の話からもう一つだけ学んだ。

歴史の中にいる人間は、自分が歴史のどこにいるのか分からない。

黒船を見た父上は、十四年後に幕府がなくなるとは知らなかった。

桜田門で刀を抜いた父上は、その十六年後に自分が刀を手放すとは知らなかった。

坂本龍馬と話した父上は、その男が後世に名を残すとも知らなかった。


そして今ここにいるわしも、この明治という時代が、この先どこへ行くのか、何一つ知らない。

わしはただ、十三歳の神楽坂蔵之助として、父上から受け取った昔を胸に、自分の明日を生きていくしかなかった。

著名な出来事と神楽坂権兵衛との時系列


1833(天保4年)〜1839 ・0〜6歳 天保の飢饉

1837(天保8年)・4歳 大塩の乱・モリソン号事件

1841(天保12年)・8歳 天保の改革

1853(嘉永6年)・20歳 ペリー来航

1858(安政5年)・25歳 日米修好通商条約・安政の大獄(〜1859)

1860(万延元年)・27歳 桜田門外の変

1862(文久2年)・29歳 文久の改革

1863(文久3年)・30歳 薩英戦争

1864(元治元年)・31歳 禁門の変・四国艦隊下関砲撃事件

1866(慶応2年)・33歳 薩長同盟

1867(慶応3年)・34歳 大政奉還

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。