68話 先輩
「おつかれ〜」
「お疲れ様でした」
「おつかれした!」
稽古場を後にした三人は、軽く会釈を交わし受付ロビーへ向かう。
皆無言のまま、足音だけが大袈裟に反響している。
ふと、豹一が思い出したように立ち止まった。
釣られて立ち止まる高雅と陽登へ一礼すると、豹一は慌てて踵を返す。
「俺ちょっと事務室寄って帰ります!またよろしくお願いしますー!!」
困惑気味な二人に目もくれず、豹一は迷いなくエレベーターに乗り込んだ。
(やっぱ先輩に挨拶しとかないと…!)
目的階へ到着したエレベーターが開き切る前に、身を押し込むようにして廊下へ出る。
豹一はそのまま、迷い無く事務室を目指した。
締め切られた事務室の扉がようやく視界に入った瞬間、ピンク髪の少年がふわっと舞い込む。
彼は慣れた様子で扉を叩くと、返事を待たずに開け放った。
豹一は無意識に身を隠し、少年の様子を伺っていた。
「こんにちはーー!!猪介いますかー!!」
甘えたような声色が廊下を満たすと、豹一は身を強張らせる。
「あ!ねぇ猪介ー!」
少年が軽くその場で跳ねると、猪介は面倒そうに入り口まで出てきた。
少年の声に比べると、彼の声は小さくボソボソと聞き取り辛い。
豹一が注意深くそれを見守っていると、廊下の奥から見目麗しい青年が歩み寄る。
「羊太郎ー…あ、猪介!あのねー良磨が…」
青年の言葉を辛うじて聞き取った豹一は、ため息をついた。
「タメ口…?」
ほとんど口の中に残された疑問は、少年たちの明るい笑い声に掻き消された。
「あ!城、時間!」
「へ、ああ。じゃあ猪介、またね」
彼らは小さく手を振り背を向け歩き出す。
その時、扉を閉めかけた猪介と豹一の目が合った。
「…なにやってんだ?」
独り言のように猪介が呟くと、豹一は大股で歩み寄る。
「先輩!!お疲れ様です!!」
「うっせぇよ、要件は?」
「ぇ、えぇ?せ、先輩に挨拶してから帰ろうって…」
「…お疲れ」
猪介が扉を閉じようとすると、豹一は慌ててそれを制した。
「えっ!あっ!先輩…!」
「なんだよ」
「え…っと…その、ええと…」
明後日の方向に目を泳がせた豹一は、ぎゅっと目を閉じる。
「あの!次の稽古って明後日すよね!?」
「…だな、スケジュールはアプリで共有してんだろ」
「そ、そすね…」
猪介の怪訝な視線に耐えかねた豹一は一歩退き、一礼した。
「…ありがとうございました」
「帰んだろ?気をつけろよ」
「うっす…」
豹一がどこか落胆していると、猪介は「あ」と短く声を漏らす。
「豹一」
「は、はい!!」
「お前、その『先輩』ってのやめろ」
「えぇ!?な、なんでですか!?」
「これから表舞台に立つのに、マネージャーを先輩はおかしいだろ」
「で、でも先輩は先輩で…」
もごもごと口籠る豹一に、猪介はため息を吐いた。
「お前な、表でそれやってみろ。変に過去とか探られて…めんどうなだけだろ。」
「そ…そうですけど…ちゃんと人の前じゃ切り替えますよ!!」
「できなさそうだから言ってんだろ」
しばらくの沈黙が続く。
豹一はTシャツの裾を指先で摘み、うっすら口を尖らせた。
「じゃ、じゃあ…なんて呼べばいいんすか?」
「はぁ?なんでもいいだろ。谷口でも猪介でも」
「そ、それはちょっと…礼儀がなってなくないすか?」
「礼儀?んじゃあ『さん』でも付けてろよ。もしくはマネージャーだな、肩書なら関係ねぇし」
「…………考えときます」
豹一は猪介の返事を待たずに一礼すると、そのまま元来た道を辿る。
彼の背中がエレベーターホールに消えるのを見届けた猪介は、静かに事務室の扉を閉じた。
豹一を見送った猪介がデスクへ向かうと、清水がにこやかに微笑んでいた。
「山羊足くんご挨拶?えらいね」
「わざわざこんなん、いらねぇっすよ」
「そんな〜後輩なんでしょ?大事にしないと…」
清水は背もたれに身を預け、軽く腕を伸ばす。
「今時そんなに義理堅い子も少ないんだからさ」
その発言に猪介はしばらく沈黙し、渋々といった様子で相槌を打った。
「そすね、考えときます」
それを横で聞いていた山本は、勘繰るように目を細める。
「お前さ、そんなんでよく慕われるよな」
「なんの話ですか?」
「山羊足さん、どう見てもお前を慕ってるだろ」
「知らねぇっすよ、あいつが変なだけじゃないすか?」
「はー…?マジで言ってる?」
山本がただでさえ深刻な猫背を悪化させると、清水がまぁまぁと割って入った。
「谷口くんは淡々としてるもんね。そういうとこ、かっこいいと思うよ…!」
猪介が口を固く閉ざすと、清水は不自然に声を上擦らせた。
「なんかさ、スマートな感じ?そういうとこなんじゃないかな、尊敬してるの」
「そすか」
「Toy Boxもそうだしな。ま、変に波風立てなきゃなんでもいいわ」
画面に向き直った山本を、猪介は不思議そうに眺めていた。




