57話 着信
猪介が社長室を出ると、廊下は薄暗くなっていた。
彼は自分の伸びた影を踏みながら、ジャケットからプライベート携帯を取り出した。
通話画面を開くと184と電話番号を迷いなく打ち込み、スマートフォンを耳に押し当てる。
一度、二度…無機質な呼び出し音が鳴っていた。
「……でねぇか」
通話を切ろうとすると、耳元でうっすらと雑音が響く。
「……はい…」
「豹一」
「あっ!?!先輩っ!?猪介先輩!!お疲れ様ですっ!!」
音割れ寸前の爆音に、猪介は慌てて耳元からスマートフォンを引き離す。
「うるせぇよ」
「あ、すみません!先輩、どうしたんすか!?」
「……お前今何してんの?」
「えっ、今ちょうど仕事上がって帰るとこっす!飯すか?」
「いや、お前今仕事何してんの」
「えぇ、ああ!俺!俺今店長やってて、覚えてます?居酒屋でバイトしてたんすけど、そこそのまま就職して…」
「…」
「んで今、赤羽と西新宿、新大久保掛け持ちっすよ!雇われっすけどね!」
「そうか」
電話口のはしゃぎようとは対照的に、猪介はつまらなさそうに呟いた。
「明日は?」
「明日??俺明日は赤羽で遅番なんで…今日と同じくらいの上がりっすけど」
「そうか」
「え?なんすか??飯っすか!?」
「いや…はぁ」
猪介の呆れ気味な声色を聞き、通話相手はあからさまにトーンダウンした。
「ぇ、あ、先輩…」
「お前、前俺と働きたいとか言ってたよな」
「!はい!!」
「……今は?」
「そんなん!俺、先輩のこと尊敬してるんで!」
「そうか」
「え?なんすか??」
「いやいい、わかった」
猪介は相手の返答を待たずに通話を終えると、スマートフォンをジャケットに納めた。
廊下の電灯を点けることはせず。
いつも通り淡々とエレベーターを呼び出すと、流れ作業の様に乗り込み、事務所を後にした。
山羊足豹一は、繁華街を歩いていた。
ほとんど空のリュックサックは片方の肩紐がずり落ち、オーバーサイズのパーカーがそれに引きずられ鎖骨を露出させている。
それら全てが、彼の疲労感をまざまざと演出していた。
(飯…いや、めんどくせぇなぁ…帰るか)
飲食店やコンビニ、はたまたゲームセンターなどの前で歩く速度を緩めては結局帰路へ進む。
もはやルーティン化した癖だ。
「…」
不意に太ももに違和感を覚えた。
バイブレーションだ。
この時間帯の連絡となると大抵レジ金が合わないだとか客とのトラブル。
豹一はリュックサックを背負い直しスマートフォンの画面を確認した。
『非通知』
これは豹一にとって二つの可能性がある。
一つは自動音声案内の謎のアンケート。
非通知の電話なんて大体ろくでもない。そんなことは豹一にもわかっていた。
しかし、彼には無視できないもう一つがあった。
谷口猪介。
その人からの連絡の可能性、それだけで豹一にはこの着信を取る理由には充分だった。
豹一は数秒考え、ほんの少しの可能性に賭けた。
疲労感を引きずりつつ、恐る恐るスマートフォンを耳元へ当てる。
「……はい…」
震えを含んだ声、それに対して電話口は無機質に低い音を響かせた。
「豹一」
その一言で、豹一は全身に血が駆け巡るような感覚すら覚えた。
「あっ!?!先輩っ!?猪介先輩!!お疲れ様ですっ!!」
「うるせぇよ」
耳元の冷静な悪態と、街行く人々の怪訝な視線が刺さる。
「あ、すみません!先輩、どうしたんすか!?」
ほんの少し声を抑えつつ、それでも溢れ出る興奮を隠せずにいた。
「……お前今何してんの?」
「えっ、今ちょうど仕事上がって帰るとこっす!飯すか?」
「いや、お前今仕事何してんの」
豹一はほんの少し自分の早合点を恥じつつも、会話が途切れないように返答する。
「えぇ、ああ!俺!俺今店長やってて、覚えてます?居酒屋でバイトしてたんすけど、そこそのまま就職して…」
「…」
無言、それは猪介の相槌の様なものだと豹一はわかっていた。
これに彼は少しの期待を抱き、嫌味には聞こえないようになるべく冷静に今の自分を説明した。
「んで今、赤羽と西新宿、新大久保掛け持ちっすよ!雇われっすけどね!」
「そうか」
誇らしげな豹一の物言いに対しては、あまりにも冷淡な返答。
それでも豹一は気に留めることはなかった。
「明日は?」
「明日??俺明日は赤羽で遅番なんで…今日と同じくらいの上がりっすけど」
「そうか」
「え?なんすか??飯っすか!?」
「いや…はぁ」
またやってしまった。
同じ失敗を繰り返し、敬愛する先輩を呆れさせた。
豹一は焦る気持ちを抑えつつ、なんとか返事を絞り出そうとしていた。
「ぇ、あ、先輩…」
「お前、前俺と働きたいとか言ってたよな」
「!はい!!」
想定外の言葉だったが、豹一は即答だった。
むしろ猪介の方が面食らったかのように返答を濁した。
「……今は?」
「そんなん!俺、先輩のこと尊敬してるんで!」
「そうか」
決意表明にも近い発言だったが、猪介はそれすらも淡々と打ち返す。
豹一はどこか拍子抜けしてしまった。
「え?なんすか??」
「いやいい、わかった」
豹一の理解が追いつく前に、電話口は無慈悲にも無機質な電子音を吐き出す。
「えぇ…??」
混乱と落ちた肩紐をそのままに、ゆっくりと豹一は人混みへと消えていった。




