第2章 視覚障害者の世界
目が見えないせいで、できないことを数えればキリがない。しかし、見えなくなったおかげで、耳が発達して、声だけで相手の細かい心情まで感じ取ってしまうようになった。顔色なんて、わからないけど。声で、体調の良し悪しも、わかってしまう。匂いにも敏感になった。その人の内臓の疾病や歯槽膿漏、ガンなどは独特な匂いがある。薬を飲んでいる人、ワクチンを打ったばかりの人などなど。感じ取ってしまう。本人には言わないが、一緒にいると、かなり辛い。今ならリンパエステで解消できるものもあるが、血液が酸化した加齢臭、煙草やニンニク、アルコールや香水、疲労物質プンプンの男性が近くにいるだけで、胸が悪くなる。見えなくなって、香りには敏感になった気がする。耳も発達せざるを得なかったせいか、声で心の状態がわかるようになった。話し始めた時に、何かしらの不安を抱いていた人も、話して気が済んだせいか明るくなる。声にハリが出て、笑顔で話しているのだと気づく。 反面、隠している心の動きが、わかってしまって傷つくこともある。それを気づかぬフリをして、笑顔を作る。できるだけ人とは争いたくない。しかし、意地の悪い人は、行動で思い知らせてくる。たとえば、黙っていられたら、どこにいるのかもわからない。声をかけても無視され、お荷物のように扱われると涙が滲む。目が見えない私は、どこに行くのも一人ではない。誰かに頼って、あるいは相手の都合に翻弄されながらも、ガマンしてひどい目に遭うことも少なくない。速足で無理矢理引っ張られると怖いのに、「大丈夫だから」と急いでいる同行者は走ることを強要する。パンプスのかかとが穴にはまって、転倒。かかとがとれて、一歩も進めなくなったこともある。白杖とか、何故か器用に刺さるから不思議だ。同行者は周囲の人に迷惑をかけないことにばかり注意をはらい、私の目である白杖を持ってコントロールしようとしたり、自分だけ障害物を避け、モロに木の枝やテーブルなどに、私だけぶつかることは日常茶飯事。連れまわされて、あちこち傷を負ったこともある。小さな段は、想像以上に危ない。目の見える人は、『どうして、こんな段で転倒するの?』と「足を、もっと上げて歩かないから」と意見するのだが、足でさぐっているのだから、そんな歩き方などできよう筈もないのに、何度言っても理解してくれない。小さな段は同行者も言ってくれないことが多く、置く足の状態が悪くて転倒、入院、手術というのも二回あった。飛び石を歩かされて、踏み外して弁慶の泣き所を打って、血まみれになったこともある。痛くて歩けないと訴えても自分の都合で無理矢理歩かされ、次の日、病院に行ったら骨が折れていたことも(苦笑)目の見える人には、たいしたことのない事に思えるかも知れないけれど、これだけは目を閉じて実際に体験してもらわなければわからないと思う。それでも同行してくれる人に見放されたら、家に帰ることもできない。嫌われたら、次来てもらえない。子供の習い事に付き添っても『役立たず』と苛立たしく思っているのが伝ってくる。そして、「あなたがいるだけで、どれだけ周囲の人に負担をかけているのかわかっているの?障害者なら、隅の方で、小さくなっていなさい」と叱責されたこともある。悔しくて、家に帰って泣いたこともある。友人面して、人前では、優しく甲斐甲斐しく世話をして、いい人アピールしているのに、誰も見ていなければサッサと離れて一人置いてきぼりにされたこともある。仕事でも、どれだけ実績を上げても『任せられない』と思って陰口を言う人の声も聞こえてくる。何もしてくれない人に限って、見下しバカにし、厄介者だと思って邪鹸に扱う。そういう事をされると悔しくて、かえって『なにくそ』と反骨精神が沸き出てきて乗り越えられたりする(笑)。思うように動けないことも、好きなものを自由に食べられないのも、行きたい時に誰も連れて行ってくれなくても、慣れてしまって、普通のことだと、ずっと前から諦めている。たまには絶望して引きこもることもある。生きていること自体辛いと、ネガティブになりがちだ。しかし、わずかな望みが叶えられると嬉しい。ポジティブだと言われるが、明るく振る舞っている分、心の闇が深くなっているのを感じている。 障害者は狙われやすい。誰かに守ってもらえるなんて甘えてはいられない。自分の身は自分で守らなければならない。スマートフォンを見ながら歩き、ぶつかって来る人。白い杖にも気づかず、文句を言うオバサン。因縁をつけてくるオジサン。親切に案内してくれていると思っていたらホテルに連れ込まれそうになったり。スリやひったくりなんかには、もってこいの弱者なのだから。いつも大声で「誰か助けてください」と叫ぶ用意はしている。健常者のように逃げることはできないから、周囲の人に、わかってもらえるまで叫び続けるしかないと覚悟できている。こんな風に、盲目になって、どんなに頑張ってもできないことがクリアになったせいか、他人の目も気にならないから、大胆なことも平気になった。恥ずかしがり屋で、人前では上がって話せなかったのに。盲目になったら、どんな大舞台に立ってもあがらなくなった。カラオケ大会、芸術祭、エステのコンテストなど、何百人もの前で、堂々と歌ったりポージングしたり、スピーチできるようになったのも驚きの変化。自分の見ている妄想の世界は、楽しくてワクワクドキドキ。途中で席を立つ人も、嫌な顔をしている人の姿もないから、まさに無敵。




