第6話 記録は語る
手帳を三日かけて精読した結果、ある不整合に気づいた。
旧王国の備蓄管理に関する記録だった。私が退去する四ヶ月前、南部の穀物庫への補給量と、実際の在庫に微妙な差がある。毎月わずかだが、入庫の記録よりも実際の在庫が少ない。
当時は誤差の範囲だと思っていた。穀物は輸送中に鼠に食われることもあるし、湿気で重量が変わることもある。計量の振れは珍しくない。けれど今、時系列で並べ直すと、差は一定の方向に偏っていた。
(常に「足りない」方に振れている。偶然の誤差なら、多い月もあるはずだ)
統計学の基本的な考え方に、偶然と必然を区別する方法がある。コインを投げて表と裏が出る確率はほぼ等しい。十回連続で表が出たら、それはもう偶然ではない。同じ理屈で、四ヶ月連続で同じ方向に偏った誤差は、偶然の産物ではない。意図的な操作──つまり、横領の痕跡だった。
穀物の保管において、自然減は通常三〜五パーセントとされている。鼠害、湿気、輸送中の散逸などが原因だ。ところが、この記録の差異は月によって七〜十二パーセントに達していた。自然減の倍以上。明らかに異常だ。
そして、南部の穀物庫の管理責任者は──姉のアンネリースが推薦した人物だった。私が不審に思って上申しようとした矢先に、姉の「お前じゃなくても成立する」宣言があった。
(偶然ではない。私を排除する必要があったのだ)
その推測が正しければ、姉の行動はすべて説明がつく。婚約者の横取りも、役職の剥奪も、横領を隠蔽するための手段だった。私を追い出すことが目的で、婚約者は口実にすぎなかった。
「ノエル」
「何だ」
「……仮定の話です。ある国の備蓄穀物が継続的に流出していた場合、最も利益を得るのは誰でしょう」
ノエルは書類から顔を上げた。仮定の話、と前置きした私の意図を、すぐに読み取ったようだった。余計な質問はしない。この人の美点の一つだ。
「穀物の横流し先は限られる。大量の穀物を受け入れられるのは、商人か、軍だ。商人なら転売で利益を得る。軍なら──」
「軍なら?」
「忠誠だ。正規の補給とは別に食料を供給すれば、軍の指揮官は供給者に恩義を感じる。古来、私兵を養う最も確実な方法は、食料の供給だった。金は蓄えられるが、食料は貯めておけない。だからこそ、継続的な食料供給は金以上の支配力を持つ」
(……つまり、姉は私兵を育てていた?)
庶子の妹を追い出し、婚約者を奪い、王宮の実務を掌握する。その裏で、軍への食料横流しによって武力の後ろ盾を確保する。王位継承に介入するための布石。
それが姉の──いや、姉の背後にいる誰かの計画だとしたら。
ハインツ殿下への暗殺未遂も、その文脈で説明がつく。第二王太子を排除すれば、王位継承の障害が一つ減る。
私の手帳には、備蓄管理の詳細な記録がある。つまり、横領の証拠の手がかりが残っている。だから姉は手帳を探している。
「ソフィア」
ノエルの声に我に返った。
「顔色が悪い」
「……大丈夫です。少し、嫌なことに気づいただけで」
「嫌なことに気づいたときこそ、一人で抱え込むな」
それは命令の口調だった。けれど、目は穏やかだった。怒っているのではなく、心配しているのだと、声よりも目が語っている。
私は深く息を吸い、吐いた。
「手帳の中に、旧王国の不正の手がかりがあるかもしれません。だから姉が探している」
ノエルはしばらく黙ったあと、一つだけ質問した。
「証拠として成立するか」
「手帳だけでは不十分です。私の個人記録ですから、公的な証拠能力は弱い。けれど、もし現地の実際の在庫記録と照合できれば、差異が偶然ではないことを証明できます」
「やるか」
短い問いだった。やるのか、やらないのか。迷いの余地を与えない問い方だった。
私は手帳を握り、頷いた。
「やります」
◇
その夜、ノエルが珍しく雑談をした。巡回から戻り、夕食の後、拠点の小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。窓の外は月が出ていて、青白い光が部屋の隅を照らしている。
「灌漑の知識だけじゃない。暗号解読、古語翻訳、備蓄管理。──あんた、王宮で何人分の仕事をしていた」
「数えたことはありません」
「数えろ。自分の価値を知らない人間は、また安く使われる」
唐突な言葉だった。けれど、突き放すような優しさがあった。ノエルは世辞を言わない。おべっかも使わない。だからこそ、彼の言葉には重みがある。事実しか口にしない人間の事実は、世辞より遥かに温かい。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。事実を言っただけだ」
ノエルはそっぽを向いて、茶を啜った。耳の先が、ほんの少し赤かった。ランプの光のせいだろうか。いや、ランプは反対側にある。
──薄暗いランプの光の中で、私はそれに気づかないふりをした。
翌朝、グレーテからの手紙がまた届いた。今度は短い。
──お気をつけて。あなたの居場所が、こちらに知れています。
差異の分析を終えた後、もう一つの作業に取り掛かった。横流しされた穀物の総量から、軍の兵站を逆算する作業だ。
軍事における兵站──補給線の維持──は、戦争の勝敗を左右する最も重要な要素の一つだ。歴史上、多くの戦争が武器や兵士の数ではなく、食料の不足によって決着した。ある古い軍事書にはこう記されている。「百日の作戦を支えるのは、百日分の食料である。食料なき軍は、三日で霧散する」と。
三百トンの穀物は、一個師団を約半年維持できる量に相当する。つまり将軍は、少なくとも数千人規模の兵力を独自に養える状態にある。
この試算をまとめた紙を、ノエルに見せた。彼は一瞥しただけで理解した。
「半年分か。蜂起するには十分だ」
「ええ。そして、蜂起の障害となるハインツ殿下は、すでに──」
言葉を飲み込んだ。まだ推測の域を出ない。けれど、パズルの形は見えてきた。
あとは、最後の一片を嵌め込むだけだ。
ノエルが差し出す茶は、いつも同じ温度だった。熱すぎず、冷めすぎず、手で持って心地よい程度。どうやって調整しているのか訊いたことがある。
「勘だ」
素っ気ない答えだったが、嘘だろう。毎回同じ温度を「勘」で出せるはずがない。気を配っているのだ。ただ、それを認めるのが恥ずかしいのだろう。
小さなことに気を配れる人間は、大きなことにも気を配れる。逆もまた然りで、小さなことを雑に扱う人間は、いずれ大きなものも雑に扱うようになる。
姉がそうだった。椅子の高さにこだわるくせに、その椅子の上で処理すべき仕事には目もくれない。見栄えの良いものにだけ手を伸ばし、地味だが重要な仕事は無視する。
それが積もり積もって、国が傾く。
私は茶を啜り、一覧表に最後の項目を書き加えた。これで証拠の整理は完了だ。あとは、実際の在庫記録と照合する機会を待つだけ。
手帳を読み返していて、もう一つ気づいたことがある。備蓄の不整合が始まった時期と、姉がある特定の商人との取引を始めた時期が一致している。
その商人は「穀物仲介」を専門としていて、姉が王宮に出入りを許可した人物だった。当時は「調達先の多様化」という名目で、誰も疑問を持たなかった。私も、記録に残しただけで深く追及しなかった。
けれど今にして思えば、多様化の必要性はなかった。既存の調達先で十分に足りていたからだ。新しい商人を入れた本当の理由は、穀物の横流しを外部経由で行うためだったのではないか。
仮説を立て、手帳の中の取引記録と時系列を照合する。商人が出入りを始めた月と、在庫の差異が拡大し始めた月は──完全に一致していた。
(これで、もう一つ証拠が揃った)
パズルの片が、一つまた一つと嵌まっていく。全体像はまだ見えない。けれど、輪郭は確実に浮かび上がってきている。
指先が冷えた。手帳を胸に抱え、窓の外を見た。穏やかだった辺境の風景が、急に違う色に見えた。




