第5話 交差する影
巡回の仕事にも慣れ始めた頃、ヴァイゼンの中央から一人の使者が訪ねてきた。
宰相府の文官だという。仕立ての良い外套に、磨かれた革靴。辺境の泥道には似つかわしくない身なりだった。名は告げず、ただ「宰相閣下のお使い」とだけ名乗った。都会の匂いがした。洗い立ての衣服と、上質の石鹸の香り。
「巡回官ノエル殿に。宰相閣下が辺境の行政改善報告を高く評価しておられます」
ノエルは茶を啜りながら、ほとんど興味のない顔で聞いている。報告書を書いたのは私だ。巡回先での水路改修、碑文の解読、水利紛争の調停。それらを一つの報告書にまとめて、中央に提出した。ノエルは報告書の類を書くのが嫌いで、それまでは要点だけを走り書きにして送っていたらしい。
「……それで」
「辺境視察の折に、閣下がこちらにお立ち寄りになります。ついては──」
文官の視線が、私に移った。値踏みするような目だった。辺境の泥にまみれた助手に、宰相が何の用があるのか──彼自身もわかっていないのだろう。
「──そちらの助手の方にも、お会いになりたいと」
宰相が、巡回官の助手に会いたい。不自然だった。ヴァイゼンの宰相といえば、大陸屈指の政治家として名の知れた人物だ。国政の中枢を担う人間が、辺境の助手にわざわざ会いに来る理由がない。
よほどの目的がある──そう考えるのが自然だった。
「何かご不安でも?」
文官が微笑む。私は首を振った。
「いいえ。お迎えの準備をします」
使者が去ったあと、ノエルが短く言った。
「宰相閣下は面倒な人だ。だが悪い人間ではない」
「お知り合いなのですか」
「……昔の縁だ」
それ以上は語らなかった。ノエルの過去には、いくつもの閉じた扉がある。無理にこじ開けるつもりはない。人には、語るべき時期というものがある。その時期が来るまで、私は待つことができる。
◇
三日後、宰相が来た。
想像していたのは、厳格な老政治家だった。実際に現れたのは、穏やかな笑みを浮かべた壮年の男だった。銀混じりの黒髪。端正だが険のない顔立ち。名はヨハンと名乗った。
供は最小限で、護衛は二名だけ。宰相の行幸にしては、驚くほど簡素だった。権威を示す必要のない人間の振る舞い。あるいは、目立ちたくない事情があるのか。ノエルとは親しげでも疎遠でもない、微妙な距離感で言葉を交わしていた。
「ソフィア殿。東方古語が読めるそうだね」
開口一番がそれだった。世間話もなく、核心に入る。
「はい。閣下のお役に立てることがあれば」
「実は、困っている案件がある」
ヨハン宰相が取り出したのは、一枚の古い羊皮紙だった。東方古語で書かれているが、文体が通常と異なる。法律文書や碑文に使われる荘重体ではなく、婉曲表現が多用された外交文体だ。
「これは……法律文書ではなく、外交密約の形式ですね。語尾の敬称と、主語の省略パターンから判断して」
ヨハンの目が光った。この人は、私の答えを予測していた。そして、予測通りの答えが返ってきたことに、満足している。政治家とはそういう人種だ。確認のために人に会い、確認のために質問する。
「読めるか」
「時間をいただければ」
羊皮紙を手に取り、一文字ずつ読み解いていく。外交密約特有の婉曲表現が多用されていて、直訳では意味が通らない。たとえば、「天の恵みが双方に等しく降り注ぐことを」という一文は、実際には「資源の分配を対等に行う」という条件を意味している。
外交文書における婉曲表現は、一種の保険だ。直接的に書けば、後世の解釈で不利になる可能性がある。曖昧に書くことで、交渉の余地を残す。それは千年前も今も変わらない政治の知恵だった。
二時間後、翻訳が完了した。
内容は衝撃的だった。百五十年前、旧王国とヴァイゼンの間で交わされた密約。旧王国が特定の鉱物資源の採掘権をヴァイゼンに認める代わりに、ヴァイゼンは旧王国の王位継承に介入しないという取り決めだった。
「つまり、この密約が有効である限り、ヴァイゼンは旧王国の内政に口を出せない」
「その通り。逆に言えば──」
ヨハンが意味深に微笑んだ。
「この密約の有効性に瑕疵があれば、話は変わる」
政治家の言葉だった。直接的には何も言わないが、意図は明確だ。旧王国で何かが起きている。ヴァイゼンはそれを注視している。そして、介入の法的根拠を探している。
「閣下。一つお訊きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「旧王国の第二王太子に関して、何かご存じのことは」
ヨハンの表情が変わった。穏やかな笑みが消え、一瞬だけ、鋭い眼光が覗いた。鷹の目だ、と思った。穏やかな外見の奥に、猛禽の視線を隠している人。
「殿下の状況は把握している。──だからこそ、ここに来た」
その言葉の裏にあるものを、すぐには理解できなかった。
けれど、帰り際にヨハンが私に渡した名刺の裏には、小さな文字で一行だけ書かれていた。
「あなたの恩師のこと、よく存じております」
──恩師。
私に東方古語を教えてくれた、亡き王宮図書官。私が王宮に入る前に病で亡くなった先生。誰よりも穏やかで、誰よりも厳しい人だった。「記録を残しなさい。事実は、いつか必ず力になる」と、何度も言われた。
(先生と、この人が?)
その疑問は、今はまだ答えのない箱のまま、胸の中にしまった。
翌日、グレーテから二通目の手紙が届いた。内容は、前回よりも長かった。宮廷の混乱が詳細に綴られていた。大臣同士の対立、外交の失態、民からの苦情──すべてが加速度的に悪化している。
そしてその中に、一つだけ、不自然な一文が紛れ込んでいた。
──アンネリースさまは、ソフィアさまの手帳の在処を気にしていらっしゃいます。
手帳の在処。私の手帳は、ここにある。王宮の機密は含まれていない。ただの個人的な記録だ。
ならば、なぜ姉がそれを探しているのか。
(何かを、隠したいのだ)
私の記録の中に、姉にとって都合の悪い事実がある。そう考えるのが自然だった。
手帳を開き直す。日付ごとに整理された記録を、改めて丁寧に読み返し始めた。
密約の翻訳を終えた後、ヨハンは興味深いことを言った。
「外交密約というものは、書かれた言語によって拘束力が異なる。東方古語で書かれた密約は、原典の解釈が条約の命運を握る。だからこそ、読める人間は戦略的に重要だ」
言語が権力の道具になるという発想は、学者にはなかなか浮かばない。けれど政治家にとって、言語は武器そのものだ。条約の一文を別の意味に読み替えるだけで、開戦の理由にも和平の根拠にもなる。
先生がかつて言っていたことを思い出した。「言葉は剣より鋭い。ただし、使い手の志次第で、人を傷つけも守りもする」と。
ヨハン宰相の目的はまだ見えない。けれど、この人が私を「道具」としてだけ見ているのか、それとも「人間」として見ているのか──それは、もう少し時間が経てばわかるだろう。
ヨハンが去った後、ノエルに訊いた。
「閣下は、最初から私を探していたのでしょうか」
「おそらくな。東方古語を読める人間が必要だった。そしてお前が旧王国を追われたという情報は、外交筋で流れていた」
「つまり、私がここに来たのも──」
「偶然ではないかもしれない。だが、お前の能力は偶然じゃない。それだけは確かだ」
ノエルにしては長い台詞だった。不器用な励ましだと理解するのに、少し時間がかかった。
風が強くなってきた。山の方から冷たい空気が下りてくる。季節が変わろうとしている。私の立場も、気づかぬうちに変わり始めていた。
──答えは、ここにある。




