第2話 空席の重さ
ソフィアが去って三日目、王宮の文書管理室には未処理の書簡が机から溢れ落ちていた。
──とは、後に文官長が報告書に記した一文である。私がそれを読むのは、もっとずっと先の話だ。
今の私は、隣国ヴァイゼンの国境の街で、安宿の固いベッドに腰かけている。壁には染みが浮き、窓枠の塗装は剥がれかけている。けれど、清潔ではあった。少なくとも、虫はいない。宿の女将は愛想こそないが、朝食に出してくれるパンは温かかった。
所持金は銀貨十二枚。王宮での給与は半年分未払いのままだったから、手持ちの大半は母の形見を売った金だ。髪留めだけは手放せなかった。あの青玉の輝きを手放したら、母との最後の繋がりが消えてしまう。売れば銀貨二十枚にはなるだろうが、金よりも大切なものはある。
「……仕事を探さないと」
呟いて、宿の窓から街を見下ろす。石畳の市場に人が行き交い、荷馬車が列をなしている。活気がある。空気が違う。旧王国の首都は石と埃の匂いだったが、ここは緑と水の匂いがする。山から流れてくる清浄な風が、狭い路地の間を吹き抜けていく。屋根瓦の色も違う。旧王国では灰色の石瓦だったが、ここは赤茶色の陶器瓦だ。陽に照らされると、街全体が温かみのある色に染まる。
けれど、私の知識がこの国で通用するかはわからない。
外交文書の翻訳。典礼の運営。備蓄管理。どれも王宮という枠組みの中でしか意味を持たない技能に思えた。私はソフィアという名前であって、それ以外の何者でもない。肩書きを剥がされた自分に、どれほどの価値があるのか。
(いいえ。そんなことはない)
自分に言い聞かせるように、革鞄の中から一冊の手帳を取り出した。王宮時代、私が個人的に記録していた覚書。持ち出し禁止の公文書は一切含まれていない。あるのは、私自身の観察と、仕事の手順を整理したメモだけだ。
ページをめくると、几帳面な自分の文字が並んでいる。日付ごとに整理された業務記録。外交文書の処理手順。典礼の段取り表。備蓄品の管理方法。そして──いくつかの、小さな疑問符がついた項目。当時は「些細な不整合」として処理したものだ。
ヴァイゼンの行政機構について、私はある程度の知識がある。外交文書を扱う過程で、相手国の制度は自然と頭に入る。
たとえば、この国では地方行政に「巡回官」という独自の役職がある。中央から派遣されるのではなく、各地域の実情に通じた者が選ばれ、税の徴収から治水、紛争の調停まで幅広い実務を担う。歴史的には、中世の巡回裁判制度が起源とされている。裁判官が各地を回って紛争を解決した仕組みが、やがて行政全般に拡大した。
つまり、実務能力があれば出自を問わない。少なくとも制度の上では。旧王国では考えられないことだ。あの国では、庶子というだけで就ける役職に制限がかかる。
「……巡回官、か」
手帳を閉じて、髪留めを鞄の奥にしまった。明日に備えて、今夜は眠ろう。固いベッドだが、王宮の最後の夜よりはよく眠れるだろう。少なくとも、ここには私を追い出す人間はいない。
宿の階段を下りるとき、女将がぼそりと言った。
「東の方から来た娘かい。あんたみたいな顔をした子が、たまにうちに泊まるよ。故郷を追われた子だ。けど、大丈夫。この街は、来る者を拒まない」
その言葉が、思いがけず胸に沁みた。
◇
翌朝、街の行政府を訪ねた。
石造りの質素な建物だった。旧王国の官庁とは比べものにならない。金箔の装飾もなければ、門番の衛兵もいない。入口に立つのは、愛想のない老人が一人だけだ。壁には褪せた掲示板があり、近隣の市場の開催日程が貼り出されている。建物の角には蔦が絡み、窓辺に誰かが鉢植えの花を置いていた。
受付の老人は、私の訛りを聞いてすぐに外国人だと見抜いた。
「巡回官の補佐を探しているか、と? まあ、人手は足りておらんが」
「何でもやります。文書の整理でも、翻訳でも」
老人は眉を寄せた。信用していないのだろう。当然だ。身元を証明するものは何もない。異国から突然やってきた若い女が、「何でもやります」と言ったところで、誰が信じるだろう。
「……あんた、字は書けるかね」
「ヴァイゼン語、旧王国語、東方古語、典礼語の四言語で読み書きができます」
老人の手が止まった。ペンを持ったまま、私の顔をまじまじと見る。
「東方古語だと?」
「外交文書の原典に使われる言語です。現在、実用的に読み書きできる人間は大陸でも三十人ほどしかいないと聞いています」
大袈裟に聞こえるかもしれない。けれど事実だ。東方古語は千年以上前の死語に近い言語で、文法体系が現代のどの言語とも異なる。主語が文末に来る独特の語順、動詞の活用が十二種類もある複雑な体系、そして文脈によって意味が変わる多義語の群れ。独学では習得が極めて困難で、師について学ばなければ読み書きは不可能に近い。
しばらくの沈黙のあと、老人は奥の部屋に消えた。
戻ってきたとき、背後に一人の男を伴っていた。
長身。黒い外套。表情が薄い。年は私と同じくらいか、少し上だろう。切れ長の目が、こちらを無機質に見ている。軍人かと思ったが、所作は文官に近い。けれど、手には剣だこがあった。文武の両方を修めた人間の手だ。背筋が真っ直ぐで、立ち姿に隙がない。
「ノエル巡回官です」
老人が紹介する。男は会釈もせず、手に持った紙束を突き出した。
「これ、読めるか」
受け取る。東方古語で書かれた土地の権利証書だった。百年以上前の署名入り。インクが褪せ、羊皮紙の端が朽ちかけている。文字はかすれているが、判読はできる。
「この権利証書は、旧ヴァイゼン侯領時代のものですね。署名は当時の侯爵代理官……ただし、ここの封蝋の様式が通常と異なります。代理官の個人印ではなく、直轄領の公印が使われています。おそらく代理ではなく、直轄領からの正式発行です」
ノエルの目が、ほんの一瞬だけ動いた。驚きではない。確認だ。この文書の内容を、彼は既にある程度推測していたのだろう。答え合わせをしていたのだ、私という人間で。
「……いつから来られる」
「今日からでも」
「名前は」
「ソフィアです」
ノエルは一つ頷き、踵を返した。付いてこい、という意味だと理解するのに少しかかった。振り返りもしない。口数の少ない人だ。けれど、無駄がない。
こうして私は、ヴァイゼンの辺境で新しい仕事を得た。銀貨十二枚の所持金と、手帳一冊と、母の髪留め。それだけを抱えて。
その頃、旧王国では、備蓄管理の不備によって南部の穀物庫が三つ、照合もできないまま空になっていた。典礼省は来月の式典の段取りを白紙に戻し、外交省は隣国からの抗議文書を翻訳できず、返答の期限をまた一つ過ぎていた。
アンネリースは、私の椅子の座面を二度変えさせたらしい。高さが合わない、と。椅子の高さを変えても、机の上の書類は減らない。そのことに、姉はまだ気づいていない。
そして、ハインツ殿下──第二王太子──は、執務中に突然倒れたという報せが、国境の噂としてこちらにも届き始めていた。
何が起きたのかは、まだわからない。
ただ、嫌な予感だけが、指先を冷たくさせていた。




