第1話 譲渡の代償
姉が私の椅子に座ったとき、背もたれの高さが合っていなかった。
それだけのことが、妙に記憶に残っている。革張りの肘掛けに爪を立て、姉──アンネリースは得意げに微笑んでいた。金色の巻き毛が肩の上で揺れる。いつも完璧に整えられた髪。その一本の乱れもない美しさが、今日はなぜか作り物めいて見えた。
「お前じゃなくても成立する」
姉の声は、謁見の間に反響するほど大きかった。天井の高い部屋に声が跳ね返り、壁に飾られた歴代王の肖像画の間を駆け抜けていく。周囲の文官たちが目を伏せる。誰も反論しない。できるはずがない。姉は正妃の娘であり、私は側妃の娘だ。王宮において、その一点だけで勝敗は決まる。
私の名はソフィア。王宮書記官。肩書きだけを聞けば、ただの事務官にすぎない。
けれど実際には、外交文書の翻訳から典礼の進行管理、備蓄物資の調達計画まで、王宮の実務の七割は私の机を通過していた。五年間、休みなく。夜明け前に出勤し、日が沈んでも残っていた。典礼の前夜には徹夜で段取りを確認し、外交使節が来れば通訳と文書作成を同時にこなした。
それでも、庶子の仕事は「あって当然」のものだ。感謝されることはない。水のように当たり前に消費され、枯れて初めて気づかれる──そういう種類の仕事だった。
側妃の子として生まれた時点で、私の立場は決まっていた。正妃の子であるアンネリースが表舞台に立ち、私は裏方で支える。それが王宮のしきたりであり、覆しようのない秩序だった。
「婚約の件も、もう決まったことよ。ハインツ殿下には私がお仕えするわ」
ハインツ殿下。第二王太子。私の婚約者だった人。政略婚とはいえ、三年の婚約期間があった。殿下と言葉を交わしたのは月に数度だったけれど、それでも嫌な人ではなかった。控えめで、穏やかで、いつも窓際に立っている人だった。日差しが好きなのだと思っていた。典礼の席では誰よりも静かに座り、求められるまで口を開かなかった。
視線を向けると、殿下は窓際に立ったまま、こちらを見ていなかった。横顔に表情はない。否定も肯定もしない沈黙が、すべてを物語っている。
(……ああ、そう)
胸の奥が、ゆっくりと冷えていくのがわかった。怒りではない。悲しみとも違う。五年間積み上げてきたものが、たった一言で無意味になった、という事実の重さだけが残った。
足元がわずかに揺れた気がしたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせた。ここで膝を折るわけにはいかない。この場にいる全員が、私の反応を見ている。
「承知しました」
自分の声が、驚くほど平坦だった。
「役職も、婚約者の地位も、すべてお姉さまにお譲りします」
周囲がざわめく。アンネリースの目が丸くなったのが見えた。抵抗を予想していたのだろう。泣きすがられることを。哀願されることを。そうすれば、衆目の前で寛大に赦す自分を演出できたはずだ。
私がすべてを差し出してしまえば、姉には「寛大な勝者」を演じる機会すらない。
「……本気で言っているの?」
「ええ。お前じゃなくても成立する、とおっしゃったのですから」
私は執務机の引き出しから鍵束を取り出し、机の上に置いた。七つの鍵。書庫、倉庫、文書保管室、典礼資材庫、外交暗号棚、備蓄管理室、そして地下書架。五年間、毎日この鍵束を腰に下げていた。金属の重さが、もう腰骨の形に馴染んでいる。手放すと、体の重心がわずかにずれた。
「引き継ぎ資料は机の左側三段にまとめてあります。外交案件の進捗一覧は赤い革表紙の綴じ込み、典礼の段取りは青、備蓄の在庫は緑です。分類は年度ごと、案件番号順です」
アンネリースは鍵束を見つめたまま動かない。七つの鍵の意味を理解しているのか、怪しかった。どの鍵がどの扉を開くのか。どの扉の向こうにどれだけの仕事が待っているのか。知らないのではないだろうか。
「……それだけ?」
「それだけです」
私は一礼し、部屋を出た。背後で、アンネリースが何か言いかけた気配があったが、振り返らなかった。
◇
王宮の廊下を歩きながら、自分の足音だけが響くのを聞いていた。
五年間、この廊下を何往復しただろう。石壁の染みの位置も、季節ごとに変わる日差しの角度も、全部覚えている。三番目の柱の裏に猫が住み着いていることも、東の階段の四段目が少し欠けていることも。廊下の窓から見える中庭の薔薇が、今年は例年より早く咲いたことも。
誰にも感謝されなかった、とは言わない。現場の文官たちは私を頼ってくれた。「ソフィア殿がいてくれて助かります」と、何度も言ってもらった。でも、上の人間にとって、庶子の仕事は「あって当然」のものでしかなかった。空気のように。なくなって初めて、その存在に気づく。
(五年か)
足を止める。振り返らなかった。振り返れば、何かが崩れそうだったから。
私室に戻ると、荷物は驚くほど少なかった。着替えが三着。母の形見の髪留め。青い石が嵌め込まれた銀の髪留めで、母が唯一私に残してくれたものだ。石の名は青玉。光の角度によって、深い藍から淡い空色まで表情を変える。母はこの石を「空の欠片」と呼んでいた。
あとは仕事の道具ばかりで、それはもう私のものではない。
小さな革鞄ひとつに収まる人生だった。
ただ一冊、個人の手帳だけは鞄に入れた。業務日誌ではない。公文書でもない。私が自分のために書きつけた観察と覚書の集積だ。仕事の手順、改善のメモ、ふと気づいた不整合。持ち出し禁止の文書は一切含まれていない。
「ソフィアさま」
声をかけてきたのは、侍女のグレーテだった。目元が赤い。鼻の頭も赤くなっている。泣いていたのだろう。
「お荷物、お手伝いします」
「ありがとう、でも大丈夫。これだけだから」
グレーテの唇が震えた。彼女は五年間、私の身の回りを世話してくれた唯一の人間だ。冬の夜に温かい飲み物を持ってきてくれた。体調を崩したときは、黙って毛布を掛けてくれた。私の誕生日を覚えていてくれたのも、グレーテだけだった。
「……どちらへ行かれるのですか」
「まだ決めていないわ」
嘘ではなかった。明日のことは、本当にわからない。ただ、ここにはもういられない。この国に、私の居場所はもうない。
「お元気で、グレーテ」
彼女の手を一度だけ握り、私は王宮の裏門をくぐった。
振り返らない、と決めていた。けれど三歩目で、背後から聞こえた嗚咽に、一瞬だけ歩幅が乱れた。
(泣かないで。あなたが泣いたら、私まで──)
四歩目からは、また真っ直ぐ歩いた。裏門の衛兵は、私が誰かも知らない顔で敬礼した。五年間、毎日通った門だ。それなのに。
翌日の正午、王宮から最初の混乱の報告が届いたと、後から聞いた。外交文書の翻訳が止まり、隣国への返書が期限を過ぎた、と。
けれどそのとき私は、もう国境を越えた馬車の中にいた。
窓の外には、見たことのない山並みが広がっている。手のひらの上で、母の髪留めが陽光を弾いていた。
──これが、王家の崩壊の始まりだったと知るのは、もう少し先のことだ。




