第二話 讐たる(あたる)(3)
蛇幸丸と名乗った男が去ったにも関わらず、僕は吐き気が収まらなかった。
その理由がわかる。
おそらく十メートルぐらい先にあるT字路あたりに、何かいるのだ。
それがこの気持ち悪さの原因。
僕は、落としてしまったカメラを手に取り、レンズを覗く。
が、やはり何も見えない。
目で見ると、ぼんやりとしたものがあることはわかるのだが、カメラを通すと、それが写らない。
ダメだ、僕はゆっくりと後退りする。
ドカっ!
と、後ろから、何かがぶつかってきた。
まさか、さっきの男か!?
「お前は、馬鹿か」
この声は⋯。僕が顔を向けた先には、ハナツさんがいた。
「ハナツさん!」
相変わらず、冷たい視線を僕に向けてくる。
彼女が来てくれたからなのか、吐き気が少し軽くなった気がした。
そして、心の中に、ほんわりとした温かみを感じる。
彼女はゆっくりと、嫌な感じがする方に歩を進めた。
その姿を追うように僕は視線を動かしていく。
と、さっきまではぼんやりとして、何も見えなかったのに、人影のようなものが見えた。
「霊⋯!?」
「お主、やはり見えるのか?」
前にも聞かれた気がする。
「ぼんやりですけど、たぶん、女子高校生のように見えます」
制服を着ていて、身長は160センチぐらいだろうか。
おぼろげで、顔はよく判別できない。
「そうか、見えるのか。とりあえず、そこで見ておれ」
彼女は、霊の方に向かいながら、再び胸の前で両手を動かし、◯や△のような形を作る。
「縛解術 止式!」
そう叫ぶと、霊の方に向かって紙のようなものを投げつけた。御札のようにも見える。
それが霊の周りを舞う。
と、霊の姿がよりはっきりと見えるようになった。
もしかしたら、この状態なら撮れるかもしれない。
僕はカメラを霊に向けるが、やはり写らない。
霊は見えない、写らないということか。
「霊は写らんと言ったろう」
「あ、あの⋯」
「黙っておれ!」
ハナツさんが一喝する。
「ハナツ様、先程まで蛇幸丸がおりました」
抑揚のない平坦な声。
いつの間にか、シノブがハナツの後ろに控えていた。
ハナツは振り返り、シノブを凝視する。
その表情に僕はブルリと震えた。
端正な顔立ちは変わらないのだが、眉根を大きく寄せ、すべてを貫くような眼光に。
「お前は、何者じゃ」
「いや、だから、普通のオカルト系ライターですって」
本当に何も知らないのだ。
蛇幸丸と呼ばれた男には初めて会ったし、そもそも、なぜいきなり霊が見えるようになったのかもわからない。
ハナツがツカツカと僕の方へ歩み寄ってくる。
そして、しゃがみ込み、地面に散らばった例のレポートを手に取った。
「貴様は、どこまで知っておる」
お主、お前、貴様と、僕の呼び名は確実にランクダウンしている気がした。
「本当に何も知らないですって」
何かに巻き込まれていることは確かだが、身に覚えがまったくない。
と、ハナツの後ろにいた霊が、蠢動するのが見える。
そして、ハナツの背中に向かって、白い玉のようなものが発した。
ウゲッ。
災難続きである。
僕は咄嗟にハナツを庇い、白い玉のようなものを背中で受けた。
「お主、何をしている⋯」
どうやら呼び名は再びランクアップしたようだ。
「いや、何か玉が来たので、思わず⋯」
烈火のごとく怒っているように見えたが、いつの間にか彼女の表情は、水が澄んだように、落ち着きを取り戻していた。
それにしても顔が近い。
こんなに女性と顔を近づけたのは、人生初めてだ。
そして、綺麗すぎる。
心做しか、キンモクセイの香りがしたような気がした。
このまま倒れ込んでしまいたいと思った矢先、身体がぐるりと横に回転し、僕は天を仰いだ。
「そこで大人しく寝ていろ」
彼女はそう言って、再び霊と対峙する。
「縛解術 痿式!」
彼女がそう唱えると、女子高生の形をした霊がブルブルと振動する。
前の時と一緒だ。
「縛解術 散式」
ハナツさんが霊に向かって、長い針のようなものを投げつけた。
「その想い、解き放つ! 縛解!」
霊は大きくブルリと揺れたあと、散っていくように消えていく。
その瞬間、僕の視界は再び白くなり、女子高生が道を歩いているイメージが見えてきた。
これは、眼の前のT字路と同じ場所だろうか。
そこに猛スピードで車が突っ込んできて、そのまま彼女にぶつかっていく。
弾き飛ばされていく彼女、そして歪む表情。
彼女は壁に激突し、軽くバウンドして、そのまま道路に突っ伏した。
車から男が慌てて出てきたが、彼女を一瞥し、周囲を見渡した後、再び車に乗り、その場を走り去った。
彼女の視線の先には、学校指定のカバン。
カバンについているお守りに、手を伸ばそうとするが、身体がそれ以上動かなかった。
徐々に視界が狭くなっていき、そして暗転する⋯。
と、コンクリートの道路が目に飛び込んできた。視界が戻ったのだ。
何だ⋯今のは。
いつの間にか、ハナツさんが僕の傍に立っていた。
その眼からは、涙が流れている。
前と一緒だ。
そして僕もまた、涙を流していた。
「何か、見えたのか?」
僕はたどたどしい口調で、今見た映像について話した。
話しながら、映像として見えた女子高生の顔は、さっき道路で見た霊の顔に似ているようにも思えた。
僕の話を聞いているハナツさんの表情はどこか物憂げで、寂しそうに見えた。
「お主、大丈夫か?」
「全然平気です。というか、霊って幻影なんですよね? 僕は何かをぶつけられたような感じがしたんですけど⋯」
「身体ではない、心じゃ」
心?
「うーん、どうなんだろう。ここに来たときは嫌な感じがしたんですけど、今は何か心がスーッと軽いです」
彼女は曇りのない真っ直ぐな、どことなく温かみを感じるような目で僕を見てくる。
「憑かれている感じはせんな」
「憑かれてるって? もしかして霊にってことですか?」
「正しくは、人の想いにじゃ。生きたいという想い、死にたくないという想い。それが変容して、生きるものへの嫉妬へと変わ⋯」
言い終えないうちに、ハナツさんが力が抜けたようにペタリと座り込む。
すかさずシノブが彼女を支えた。
「とりあえず、移動しましょう」
淡々とした口調で、シノブが言いながら、ハナツを背負い歩き出した。
僕も慌ててシノブの後を追う。
あの小さな身体のどこに、ハナツさんを背負えるほどの力があるのか。
そんなことをぼんやりと思った。




