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触れれば死ぬと言われた王子に、なぜか平気で触れられる令嬢  作者:


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【66話】戴冠の前夜

あの日以来、リリィの声は聞こえなかった。


紋章に触れれば、確かに温かさを感じる。


けれど、それだけだった。


言葉も、気配も、それ以上のものは返ってこない。


最初の数ヶ月は、その静けさに耐えるのが精一杯だった。


執務の合間、ふと手が紋章に伸びる。


何も返ってこないと分かっていても、確かめずにはいられなかった。


一年という時間は、ようやくその静けさに少しずつ慣れていく時間でもあった。


父――国王が崩御したのは、季節が一巡りした頃だった。


長く病に伏せっていたこともあり、城の誰もが、いつかその日が来ることを覚悟していた。


それでも、実際にその知らせを受けた時の重さは、想像していたものとは違っていた。


「アルトリア。お前が、次の王だ」


父の枕元で、最後にそう告げられた言葉が、今も耳の奥に残っている。


掠れた声だったが、その目には、確かな信頼があった。


王位継承については、すでに何度も話し合われていた。


レオンハルト兄上は、最前線での指揮を望み、王位そのものには関心を示さなかった。


久しぶりに帰城した兄上は、簡潔にそう言い切り、すぐに戦地へ戻っていった。


セリウス兄上も、自分よりも俺が適任だと、はっきりと言い切った。


「お前の方が、民に向き合っている。俺は、お前の支えに回る方が性に合っている」


兄上のその言葉に、迷いはなかった。


包帯の取れた腕で俺の肩を叩き、軽い口調の奥に、確かな決意を滲ませていた。


二人の兄からの推薦もあり、俺は、王位を継ぐことを受け入れた。


戴冠式の準備が進む中、女王陛下――母上が、静かに俺の部屋を訪れたのは、式の数日前のことだった。


「アルトリア。一つ、聞いておきたいことがあります」


「何でしょうか」


「リリアのいない中で、お前は本当に、王になっていいのですか」


その問いは、母上自身の中にも、長く抱えていたものなのだろう。


隣に並び立つはずだった王妃の不在は、王家にとって、決して小さな問題ではなかった。


声には、案じる響きと、どこか申し訳なさのようなものが混じっていた。


「母上」


俺は、自分の首元――紋章に、そっと手を当てた。


「リリィは、いなくなったわけではありません。今も、俺の中にいます。声は、滅多に聞こえませんが……それでも、確かに、感じています」


「アルトリア」


「だから、構いません。リリィも、俺が王になることを、きっと望んでくれているはずです」


母上は、しばらく俺を見つめていた。


それから、静かに目を伏せ、小さく頷いた。


「……分かりました。あなたが、そう言うのなら」


母上の声には、安堵と、まだ拭えない寂しさが、両方滲んでいた。


それでも、最後には、優しい笑みを浮かべて部屋を出ていった。


戴冠式の前日。


城の中は、明日に向けた準備の慌ただしさで満ちていた。


けれど、夜が更けると、その喧騒も静かに収まっていく。


夜が更けても、俺自身の眠気は訪れなかった。


明日から、自分はこの国の王になる。その重さを、何度も自分に問いかけながら、ベッドに横たわっていた。


父の遺した国を、どう守っていけばいいのか。


民の暮らしを、どう支えていけばいいのか。


考えるほどに、答えのない問いが積み重なっていく。


――リリィがいたら、今、何と言ってくれただろう。


そう思った瞬間、首元が、ふっと、温かくなった。


「……っ」


一年ぶりの感覚に、息を止める。


これまでの「ただ温かい」だけの感覚とは、明らかに違う。


もっと強く、もっと近い。


『アルト』


声が、聞こえた。


「リリィ……!」


思わず、声に出して呼んでしまう。


一年間、ずっと待ち続けていた声だった。


布団を握る手に、自然と力が入った。


『久しぶり。ちゃんと、声が出せた』


「リリィ、ずっと、待ってた……毎日、紋章に触れて、確かめてた」


声が、震える。一年分の言葉が、一気に押し寄せてくるようだった。


『明日、王様になるんだね』


「うん」


『ずっと見てたよ。アルトが、ちゃんと前を向いて歩いているところ』


リリィの声は、変わらず、穏やかだった。


それだけで、胸の奥が締めつけられるように熱くなる。


「リリィ……これから、毎日、声を聞けるわけじゃないんだよな」


『多分ね。王様になる前の夜だから、今夜は特別なんだと思う。次は、また随分先になるかもしれない』


「次代の王が、立つ前の夜……」


『うん。だから、今、伝えられることは、ちゃんと伝えておきたい』


その言葉に、俺は、ようやく実感した。


これが、その特別な夜にだけ訪れる時間なのだと。


「リリィ、聞いてほしいことがたくさんある」


『うん、聞くよ。全部、聞かせて』


「お前がいなくなってから、毎日、どうやって乗り越えればいいか分からなかった。何度も、お前を探しに行きたくなった。けど、お前が中にいるって感じるたびに、何とか踏み出せたんだ」


『私も、ずっとアルトの近くにいたよ。声には出せなかったけど、ちゃんと、感じてた。アルトが悩んでる夜も、頑張ってる昼間も、ずっと』


「リリィ」


『うん』


「明日、王になる。これからは、リリィの分まで、ちゃんと国を守る。お前が守りたかったものを、俺が、ちゃんと引き継ぐから」


『ありがとう、アルト』


その声は、優しく、けれど少しだけ、寂しさを含んでいるようにも聞こえた。


『私は、これからも、こうして時々しか話せない。でも、それでも、ずっとアルトの側にいる。それだけは、絶対に変わらないから』


「分かってる」


静かな夜の中、紋章の温かさだけを抱きながら、俺は、明日への覚悟を、もう一度、確かめていた。


声が、ゆっくりと遠ざかっていく。


それでも、寂しさよりも、確かな温かさの方が、今は強く胸に残っていた。

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