【64話】消えたもの、残ったもの
異形の体を斬り裂きながら、俺は確かな違和感を覚えていた。
さきほどまで聞こえていたはずの、リリィの息遣い。
荒く浅く、それでも確かに生きていることを伝えてくれていたその気配が、ふいに、完全に消えていた。
「リリィ……?」
戦いの最中、思わず後ろを振り返る。
けれど、彼女が横たえられていたはずの場所には、もう誰もいなかった。
横たわっているはずの小さな体も、見慣れた淡い色の髪も、どこにも見えない。
「リリィ!」
叫んだ声が、闇の中に虚しく響く。
返事はなかった。
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
さきほどまで感じていた力――リリィが俺に注いでくれたはずの力が、急速に制御を失っていくのが分かった。
指先が震え、視界の端が黒く滲む。
「リリィ……リリィ、どこに……」
視界が歪む。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が、内側から噴き上がってくる。
剣を握る手に、異常なほどの力が入った。
今、この場で全てを薙ぎ払ってしまえば、それで構わない――そんな、危うい衝動が胸を満たしていく。
彼女がいなくなった理由も分からないまま、ただ目の前の敵を消し去ることでしか、この感情を処理できないような気がした。
その時だった。
首元――紋章のある場所が、ふっと、温かくなった。
「……っ」
俺は、思わず手を止めた。
それは、優しい温かさだった。
剣を握る手の震えを、静かに宥めるような。
怒りに飲まれかけていた心が、その熱に触れた瞬間、不思議なほど落ち着いていく。
まるで、誰かがそっと背中に手を添えてくれたような感覚だった。
『大丈夫』
声が、聞こえた。
はっきりとした音ではない。
耳に届く前に、もっと深い場所で先に響いているような、不思議な感覚だった。
けれど、確かに、リリィの声だった。
胸の奥、紋章のある場所から、直接伝わってくるような声。
「リリィ……? リリィ、どこにいる」
『ここにいるよ』
その声は、静かで、穏やかだった。
怖がっているような響きは、どこにもなかった。
むしろ、いつも俺を気遣ってくれていた、あの優しい声音そのものだった。
『私、ちゃんと、ここにいる』
俺は、自分の紋章に手を当てる。
確かに、そこに、リリィの存在を感じた。
彼女の体は、もう見えない。
腕の中の重みも、もう感じられない。
けれど、消えたわけではないのだと、理屈ではなく、肌で理解した。
「リリィが、俺の中に……」
言葉にした瞬間、紋章が、強く脈動した。
先ほどまでとは比べ物にならないほどの力が、体の奥から湧き上がってくる。
それは、暴走の前触れではなかった。
むしろ、これまでで最も澄んだ、静かな力だった。
怒りでもなく、焦りでもなく、ただ確かな意志だけが、そこにあった。
『戦って、アルト』
リリィの声が、もう一度響く。
『一緒に、終わらせよう』
「……うん」
俺は、剣を構え直した。
さきほどまでの怒りに飲まれた力ではなく、確かな意志を持った力が、全身に満ちていく。
異形の体へ向かう一撃は、もはや迷いがなかった。
一振りごとに、闇の体が裂け、歪んだ紋が一つずつ崩れていく。
今まで届かなかった一撃が、確かに相手の核へと近づいていくのが分かった。
「終わりだ」
最後の一撃が、異形の核を貫いた。
一瞬、世界が白く弾ける。
闇に覆われていた空が、その光に呑まれるように晴れていく。
重く沈んでいた雲が割れ、星の光が、礎堂跡地に静かに降り注いだ。
異形の姿は、塵のように崩れ、跡形もなく消えていった。
静寂が、戻ってくる。
風の音すら聞こえないほどの、深い静寂だった。
「……終わった」
俺は、剣を地に下ろし、辺りを見渡した。
組織の者たちの骸が、静かに地面に横たわっている。
先ほどまでの闇の気配は、もうどこにも残っていない。
だが、その中に、リリィの姿はなかった。
「リリィ!」
俺は、声を張り、跡地を駆け回った。
彼女が横たわっていた場所、その周辺、瓦礫の隙間――どこを探しても、彼女の姿は見つからなかった。
土を掘るように瓦礫をかき分け、声を張り続ける。
「リリィ、どこだ……返事をしてくれ」
焦りが、再び胸に広がっていく。
先ほど確かに感じた温かさ、聞こえた声――それが、幻ではなかったことは分かっている。
けれど、彼女の体そのものが、どこにも残っていなかった。
まるで、最初からそこに、彼女の体という形が存在しなかったかのように。
「リリィ……」
紋章に、もう一度触れる。
温かさは、確かにそこにあった。
けれど、声は、もう聞こえなかった。
――どうして、答えてくれないんだ。
後方から、護衛たちの足音が近づいてくる。
離れた位置で待機させていた彼らが、戦いの気配が消えたのを察して駆けつけてきたのだろう。
「アルトリア様! ご無事です――」
駆け寄ってきた兵士が、跡地の惨状と、俺の様子を見て、言葉を止めた。
「リリア様は……」
その問いに、俺は、すぐには答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
彼女が、確かに自分の中にいると感じている。
けれど、その体は、どこにもない。
生きているとも、死んでいるとも、言い切れない。
「探してくれ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「跡地を、全部だ。隅々まで……リリィを、見つけてくれ」
兵士たちは、すぐに散開して捜索を始めた。
だが、俺自身は、その場から動けなかった。
紋章に残る、わずかな温かさだけを頼りに、ただ立ち尽くしていた。
終わったはずの戦いの後で、俺の中には、何の安堵もなかった。
ただ、彼女がいない、という事実だけが、重く、深く、胸に沈んでいく。
――リリィ、頼むから、無事だと言ってくれ。
声にならない言葉だけが、静かな夜の中に、何度も繰り返されていった。




