【63話】私の覚悟
異形の何かが、大きく身を屈めた。
背の歪んだ翼が大きく広がり、全身に刻まれた紋が、不気味な光を帯びて脈動する。
「アルト、来る……!」
私が叫ぶのと同時に、その全身から放たれた闇の波動が、辺り一帯を呑み込んでいった。
「リリィ、逃げろ……!」
アルトの声が、最後の力を振り絞るように響いた。
けれど、私の足は動かなかった。
動けなかった。
視界が、黒く塗りつぶされる。
――終わる。
そう、確かに思った。
痛みすら感じる前に、すべてが終わるのだと。
今まで積み重ねてきた時間、アルトと過ごした日々、まだ言えていない言葉――それらが、一瞬で頭の中を駆け抜けた。
けれど、次の瞬間、私はまだ自分の体が地面に立っていることに気づいた。
目の前に、アルトの背中があった。
「アルト……?」
彼が、最後の力で私を庇っていたのだ。
剣を両手で構え、衝撃の正面に立ち続けていた。
呼びかけても、返事がなかった。
剣を握ったまま、彼の体がゆっくりと地面に崩れていく。
「アルト!」
私は駆け寄り、抱き起こした。
彼の鎧は深く裂け、傷口からは止まることなく血が流れている。
その顔は、すでに血の気を失っていた。
「だめ……だめ、アルト、お願い」
声が震える。
手が震える。
涙が、止まらなかった。
彼の胸に手を当てる。
心臓の音が、もう、ほとんど聞こえない。
指先に触れる肌は、急速に温かさを失っていく。
「いやだ……いやだよ、こんなの」
守られてばかりだった自分が、いつの間にか、彼に守られる側のままでいることに、今さら強い悔しさを覚えた。
私は、ただ守られるためにここにいるわけじゃない。
そう思っていたはずだったのに。
私の中で、何かが弾けた。
抑え込んでいた力――隠された素質が、堰を切ったように溢れ出してくる。
今まで感じたことのない、激しい熱が体の内側を駆け抜けていく。
あの時、セリウスを傷つけてしまった時と同じ、暴走の予感。
制御できなければ、また誰かを傷つけてしまう。
けれど、今はそれを恐れている時間すらなかった。
「私の……生命力を」
自分の中の力に、私は強く問いかけた。
暴走させるくらいなら、その全てを、アルトに。
アルトの代わりに、私が消えてもいい。
そう思った瞬間、不思議なほど心は静かだった。
紋章が、首元で強く脈動する。
今まで制御できなかったその力が、初めて、明確な意志のもとで動き出すのが分かった。
「アルトリアを、守りたい」
その思いだけを、私は紋章に込めた。
自分の中から、命そのものが流れ出していく感覚がした。
指先から、足先から、体温が攫われていくような、不思議な感覚。
それを、惜しいとは思わなかった。
これが、私の選んだことだから。
「お願い……生きて」
光が、二人を包んでいく。
眩いほどの輝きの中で、紋章の模様が、見たことのない形に変わっていくのが、霞む視界の中でもはっきりと分かった。
共有されていた二つの紋章が、一つに重なり合うように、新しい紋を描き出していく。
やがて、アルトの体に、確かな熱が戻る。
「……っ、リリィ?」
彼の声に、私は心の底から安堵した。
「アルト……良かった……」
アルトが、ゆっくりと目を開け、自分の身体に力が満ちていることに驚いたように手を見つめる。
傷は塞がり、血色が戻り、剣を握り直したその姿は、先ほどまでとは違う、確かな力に満ちていた。
「これは……何が」
アルトが、自分の身に何が起きたのか理解しようとするように、私を見る。
けれど、その目が、すぐに私の異変に気づいた。
「リリィ、お前の顔色が……」
「アルトリア」
私は、彼の名前を、最後の力で呼んだ。
「すぐに、倒してくる」
「待て、リリィ、お前――」
「お願い」
私は、微笑んだ。
怖くはなかった。
ただ、伝えたいことがあった。
後悔のないように、今、伝えられることを全部伝えたかった。
「すぐに終わらせるから。それで、ちゃんと、お祝いしようね」
何のお祝いか、自分でもよく分からなかった。
けれど、それくらい先のことを、当然のように口にしたかった。
アルトの顔が、強く歪んだ。
何かを言おうとして、けれど言葉にならなかったのだろう。
彼は私の体をそっと地面に横たえると、剣を構え、異形の存在へと向き直った。
「すぐに戻ってくる。だから死ぬな」
そう言い残し、彼は地を蹴った。
新たな力を纏った彼の一撃は、先ほどまでとはまるで違う重さで、闇の体を確かに斬り裂いていく。
今まで通らなかった攻撃が、確かに相手を傷つけているのが分かった。
私は、薄れていく意識の中で、その背中を見つめていた。
視界が、白く滲んでいく。
体の感覚が、少しずつ遠くなる。
音も、光も、すべてがゆっくりと遠ざかっていく。
怖くはなかった。
ただ、アルトが、確かに生きている。
それだけで、十分だった。
――ありがとう、アルト。
出会えて、よかった。
最後にそう思った瞬間、私の体は、淡い光の粒子となって、静かに空気に溶けていった。
跡地には、もう誰も――何も、残っていなかった。
ただ、アルトの剣戟だけが、静かな闇の中に響き続けていた。




