【55話】戻ってこい
耳鳴りがしていた。
礼拝堂には、暴れた魔力の残滓がまだ濃く残っている。
砕けた石壁。
抉れた床。
そして。
「……ぁ……」
リリアは、自分の手を見つめたまま動けなかった。
指先が震えている。
熱が残っている。
さっき放った力の感覚が、まだ消えない。
視線の先。
倒れているセリウスの腹部からは、今も血が流れていた。
「……セリウス様」
掠れた声が零れる。
胸が痛かった。
自分が傷つけた。
自分の力で。
「そんな顔しないでよ」
セリウスは苦しそうに笑う。
「死んでないから」
軽口を叩く余裕はある。
だが、明らかに無理をしていた。
アルトリアもそれを理解している。
何度も視線が兄へ向く。
今すぐ治療すべきだ。
だが。
リリアの紋章は、まだ不安定に明滅していた。
空気が揺れている。
魔力が落ち着いていない。
「……来ないで」
リリアが後ずさる。
「私、また……」
怖い。
身体の奥に、まだ暴れる何かがいる。
「リリア」
アルトリアが静かに呼ぶ。
「落ち着け」
「無理です……!」
声が震える。
「こんなの、私……!」
その瞬間だった。
どくん、と紋章が脈打つ。
「っ……!」
視界が揺れる。
リリアの頭の奥に、何かが流れ込んでくる。
――命令。
嫌な声。
冷たい感覚。
『殺せ』
「……や、ぁ……!」
リリアが頭を押さえる。
魔力が一気に膨れ上がった。
「リリア!」
アルトリアが駆け出す。
直後。
轟音。
礼拝堂の床が砕け、凄まじい衝撃が吹き荒れた。
「……っ!」
アルトリアが腕で庇う。
だが次の瞬間、目を見開く。
リリアの周囲に展開された魔力が、先ほどとは比べ物にならない。
空間そのものが軋んでいた。
「な……」
セリウスも息を呑む。
「嘘でしょ」
壁がひび割れる。
床が沈む。
暴風のように魔力が荒れ狂う。
リリア自身も、怯えたように目を見開いていた。
「いや……」
自分でも分かる。
さっきより強い。
比べものにならない。
「なんで……」
こんな力。
知らない。
怖い。
「アルト、逃げ――」
最後まで言えなかった。
身体が勝手に動く。
魔力が収束する。
狙いは、アルトリア。
「っ……!」
放たれる。
だが。
アルトリアは避けなかった。
「アルト!?」
リリアの顔が青ざめる。
直後。
アルトリアが真正面から魔力へ踏み込んだ。
衝撃。
石床が砕ける。
凄まじい圧力が襲う。
それでも、止まらない。
「……っ、アルトリア!?」
セリウスが目を見開く。
アルトリアの紋章が光っていた。
紫銀の光。
暴れる魔力を、正面から押し返している。
普通ではない。
本来なら押し潰される出力だった。
だが。
アルトリアは一歩ずつ前へ進む。
「やめ……!」
リリアの瞳から涙が溢れる。
「来ないで……!」
「断る」
低い声。
次の瞬間。
アルトリアがリリアの腕を掴んだ。
「っ!」
暴れていた魔力が、一瞬乱れる。
だが、止まらない。
リリアの身体が震える。
「離して……!」
「離さない」
即答だった。
紋章同士が激しく明滅する。
空気が軋む。
衝撃で礼拝堂全体が震える。
それでも。
アルトリアは手を離さなかった。
「……落ち着け」
低く、静かな声。
「お前は、これに飲まれるな」
「でも……!」
「お前は、誰かを傷つけたいのか」
リリアの呼吸が止まる。
「違う、なら」
アルトリアが強く手を握る。
「戻ってこい」
その瞬間だった。
胸元の紋章が、熱を持つ。
暴れていた魔力が、少しずつ静まっていく。
「……ぁ……」
涙が落ちる。
怖い。
苦しい。
でも。
彼の手だけは、温かかった。
離れない。
「……アルト……」
震える声が零れる。
その瞬間。
張り詰めていた魔力が、ふっと消えた。
力が抜ける。
崩れ落ちそうになった身体を、アルトリアが支えた。
礼拝堂に静寂が戻る。
荒い呼吸だけが響いていた。
「……はぁ」
少し離れた場所で、セリウスが天井を見上げる。
「ほんと、規格外すぎない?」
呆れたように笑った。
「何あれ。可愛い弟を守るために割って入って重傷負ったのにさ」
血の付いた手をひらひら振る。
「最終的に二人でどうにかするなら、最初から僕いらなくない?」
リリアが思わず目を瞬かせる。
アルトリアは呆れたように眉を寄せた。
「兄上」
「いやいや、こっちは結構痛いんだけど?」
苦笑しながら身体を起こそうとして――顔をしかめる。
「うわ無理。やっぱ痛い」
「無茶するからです……」
リリアが小さく言う。
その声に、セリウスはふっと笑った。
「やっといつもの顔した」
リリアが少しだけ目を見開く。
「さっきまで今にも自分ごと消えそうな顔してたからね」
軽い口調。
でも、その言葉はどこか優しかった。
リリアは俯き、そっとアルトリアの服を握る。
まだ怖い。
でも。
少しだけ、呼吸が楽になっていた。




