418話_side_Sumeragi_黒い森_幽家
~"小さいほうの闇の巫女"スメラギ~
淡く降りしきる雨の中、私は一人、大きな岩の上に座り込んでいた。
ここから眺める雨模様の黒い森は少々不思議な景色で、特有の環境である溶岩流が齎す熱気のせいで、場所によっては降った雨がそのまま蒸発して白い霧と化している。
降っているのか、昇っているのか、朦々と揺れるのは雨なのか、蒸気なのか煙なのか。
不意に、私の視界に影が差し、身体を濡らす雨粒の感触が遠くなる。
「風邪をひいてしまいますよ?」
そう声を掛けられて、私が肩越しに振り仰ぐとそこには黒い傘を差した黒染めの少女の姿があった。
ポイズンちゃんだ。
先程までは下でフェンリスと会話していたはずの彼女が、いつの間にかこっちに上がってきたらしい。何をしに来たのか、普段何をしている人なのか、そもそも何者なのかも定かではない人だけど、現在私を見下ろす瞳には発言通りの気遣いだけが見て取れた。
「ごめんなさい……」
私は彼女から視線を逸らし、小さく呟く。
誰に対する何の謝罪なのか自分でもよくわからないが、たぶん気を遣わせてしまったポイズンちゃんへの謝罪であり、そして私にコンディションを整えろと教えてくれたフェンリスへの謝罪だ。こんな風に雨に濡れて、それこそポイズンちゃんの言うように風邪でもひいたらフェンリスに合わせる顔がない。
なんでこんなことをしているのだろうと自分でも疑問に思うが、こうならざるを得なかったのだ。
別に雨に濡れたかったわけではなくて、ただ一人で考える時間が欲しくて、結果的に雨に降られても自分を守る気がおきなかったので、こうなった。
「ほむぅ……?」
なんだか独特な思案の仕方をしたポイズンちゃんは、何を思ったのかその手の傘をぽいっと捨ててしまった。彼女の装いと同等に高級そうな黒い傘は、岩肌の上を転がって崖下に落下して見えなくなってしまった。
いきなり何をしているのか、と私が瞠目する横で、ポイズンちゃんは傘の行く末には目もくれず、何故かその場に腰を下ろしたではないか。
「え?」
膝を抱えて座り込む私と全く同じ体勢で、しかも私と肩が触れるほどの近距離である。ドレスが濡れてしまうのもお構いなしに、触れ合った肩からじんわりと人肌の暖かさが伝わってくる。
驚く私の顔を、彼女は至近距離から覗き込むように窺ってきて、小首を傾げた彼女の双眸が露になる。前髪で半分を隠している彼女の素顔は、何故隠すのかがまるでわからないくらいに整った綺麗な顏だった。
吸い込まれそうな闇色の瞳には華やかさこそないが、私は素直に美しいものだと感じた。
「あの、濡れてしまいます」
「うくくっ、わたしいっつも濡れてるから大丈夫ですよぉ」
「そ、そうなんですか?」
「うん。びちゃびちゃ」
言ってることはよくわからないが、なんか大丈夫らしい。
というか、私がそれを心配するのも変な話だ。ポイズンちゃんにとっては、むしろそれはこっちの台詞だと言いたいところだろう。私の困惑には構うことなく、彼女は至ってマイペースに言葉を続ける。
「わたしって性格ひん曲がってるからぁ」
「は、はい?」
「誰かが雨に濡れてたら、傘を差してあげたい。一つ傘の下に肩を並べて入って、雨粒から守ってあげたい。傍に居てあげたい。辛さを和らげてあげたい……」
ぽつぽつと紡ぐように言って、彼女はにっこりと微笑んだ。
「――とか。そういう善意、反吐が出る!」
「え」
「なんていうかさ、施してあげてる感が生理的に受け付けないんですよ。まあ大抵そういう場合って濡れてる方も濡れてる方で傘待ち施し待ちで悲劇のアテクシ可哀そう可愛いかまってちゃんばっかだから、要するに登場人物全部クソ」
「ご、ごめんなさい」
遠回しに罵倒されているような気がして私が再度謝ると、ポイズンちゃんはころころと笑った。
「チビラギちゃんがそうだって言ってるわけじゃなくてね。本当に、わけがあって雨に濡れている人にしてあげるべきは、上から目線で傘に入れてあげることなんかじゃなくて、一緒に濡れてあげることだとわたしは思うってだけ」
「…………」
「だってそれが共感ってものでしょ」
それだけ言うと、彼女は口を閉じてしまった。
それ以上はなにを言うでもなく、ただ肩を並べて私と同じ景色を見ている。
私に理由を話せとは言わないし、悩みを聞くとも言わない。だけれど、私が話せば真剣に聞いてくれるつもりなのだと、彼女は行動で示してくれているのだ。
だから私は、気付けば口を開いていた。
「実は――」
話せる内容はそんなに多くない。
私の悩みというのは、先日の『幽家』での一件に端を発するものだ。一度も訪れたことがないのに何故か知っている気がする土蔵の奥の奥に存在する、闇に沈んだ座敷牢。
そこに確かに存在していたなにか。
結局あれはなんだったのか、私は確かめることが出来なくて、おかあさんに訊くことも出来ず、おかあさんも何も語らなかった。起きて活動出来る程度には回復したらしいおかあさんだけど、未だに本調子とは言い難く、起きている時間よりも眠っている時間のほうがずっと長い。それを理由にして、私はおかあさんに質問するタイミングが掴めないことにして逃げているのだ。
何故こんなにも気になるのか。本当はなんとなくわかっていた。あの座敷牢内の存在は、きっと私と無関係ではない『なにか』なのだ。もしかしたら、私が覚えていない過去の記憶の手掛かりがそこにあるのかもしれない。
しかし、それを知ることが必ずしも私にとって良いことであると、どうしても思えなかった。
それを知れば、今の私が少なからず損なわれるような気がしてならない。
おかあさんが敢えて教えようとしないのは、そういうことなのではないかと思いたい自分も居る。
確かめるべきか。
確かめざるべきか。
それだけがぐるぐると思考を巡り、答えが出ない。
取り留めもなくそんな悩みを語った私に、ポイズンちゃんは「なぁんだ」と軽い調子で言った。
「哲学みたいな答えのない悩みだったらどうしようかと思ったけど、単純でよかった」
「単純でしょうか?」
「わたしだったら答えは一つしかない。確かめるべきですよ」
確信的に言い、彼女は更に身を寄せて私の瞳を覗き込む。
「いいですかチビラギちゃん。あなた今、人生で最も無駄な時間の使い方をしてます」
「むだ」
「そうです。悩んだ時間が無駄ではないのは、答えを出すことに意味がある場合だけ。あなたのその悩みには意味がない。だって前提条件を間違えているから」
「まちがい……なにが?」
「だってあなた、その『なにか』の正体を確かめるべきか否かで悩んでいるのでしょう? それで悩み抜いて、仮に『否』という答えを出した時、だからといってあなたはその『なにか』のことを綺麗さっぱり忘れて生きていけるのですか?」
ポイズンちゃんに整然と言われ、私はハッとなる。
それは考えるまでもない問い掛けで、だとすれば私はそもそもこれほど悩んではいなかったはずだ。
「だからね、あなたの二択は『すべきか、すべきでないか』じゃなくて、『今すぐ確かめるか、永遠に悩み続けるか』ですよ。悩むのが楽しい被虐趣味でないならば、あなたは確かめるしかないの。そしてその結果がどうなるかは、今考えることではないの」
彼女の言うことは正しい。理性的で、合理的だった。
だけれど納得しないのが感情で、もし確かめたその先に後悔しかなかったとしたら、という悪い想像が頭から離れないのだ。
するとポイズンちゃんは、俯く私の片手を取ると、指と指を絡めて柔らかく握った。
「もし、うまくいかなかったら、その時はわたしのせいにしていいですよ。あいつが無責任に背中を押したせいだって」
「でも、それはアナタのせいじゃない」
「いいんです。わたしに文句を言いに来てください。そしたら――」
彼女は、まるで明日の予定でも確認するかのように気楽な調子で言うのだ。
「きっと、またこうしておなはしをしましょう?」
◇◇◇
その後、私はフェンリスに一言告げてから『幽家』へと帰ってきた。
ポイズンちゃんが背中を押してくれて、彼女と繋いだ手の温もりが残っているうちに、貰った勇気が翳る前に私は確かめることにしたのだ。おかあさんは眠っている時間なのか、相変わらず灯りのない屋内を進み、つい先日訪れたばかりの土蔵を目指す。
あの日と同じように、視界を確保する灯りは傍らに浮かせた鬼火の輝きだけだ。
濡れた衣服は既に魔法で乾かしたし、幽世には雨が降らない。
だというのに私の耳にはしとどに聞き続けた雨音が、残響のようにこべりついて離れない。
けれども決して不快な感覚ではなかった。一緒に濡れてくれた彼女の暖かさが思い出されて、それは今の私にとって捨て難いものだったから。
かくして辿り着いた奥の奥。
闇に沈んだ座敷牢の中には、やはり何かの息遣いが感じられる。
二度目ということもあって先日より幾分冷静な私は、その感覚の正体を朧気に悟った。
これは魂の誘引だ。
私の魂が、この中の存在に惹かれているのだ。いや、あるいは恐れているのかもしれない。
言えることは、間違いなく、私と無関係ではあり得ないということだった。
「…………ッ」
意を決して、私は手元の鬼火を高く掲げ、それを大きく膨らませた。
座敷牢の内部を覆い隠す闇の帳は一種の隠蔽魔法だ。意図的に構築された魔法モデルではなくて、何かの副次効果として滞留する魔力が視界を妨げているというだけの、原始的な魔法。
掻き消すのは非常に容易だった。
青白く、微かに紫が混じる鬼火の輝きが周囲を照らし出し、座敷牢の内部に蟠っていた濃密な闇を消し散らす。
「これ、は」
現れた光景に、私の脳は一瞬理解を拒んだようだった。
予想外の光景などと言えるほど確たる予想があったわけではなかったが、とにかくそれは私の思考を固まらせるに充分だったのだ。
裸身の少女であった。
拘束魔法と思われる漆黒の鎖が虚空に刻まれた無数の陣から伸びていて、それに全身を絡められて、一人の少女が牢の中心に吊られていた。
些か不健康なくらいに白過ぎる肌と、痩せた肢体。
長く伸ばされた黒髪と、俯き気味の顔に生気など無く、しかし息遣いがある以上生きてはいるようで、半端に見開かれた虚ろな瞳は熾火のような赤色をしている。
恐ろしいことに、私はその少女の正体を知っていた。
私だ。
最近、笑顔の練習のためによく見るようになった鏡に映る、そのままの姿がそこにあった。
そしてなにより、この魂が告げるのだ。
これはまさしく私であると。
「な、んで……」
愕然と、私は無意識に後退る。
これは一体なんなのだ、と抱いた当然の疑問には背後から答えがあった。
あの日と同じように、いつの間にか現れていたおかあさんの声だった。
「それは、前回のキミ」
「ぜん、かい?」
おかあさんの声音はあまりにもいつも通りで、彼女がどんな表情をしているのか知りたくなくて、私はただ恐ろしくて振り返ることが出来なかった。
「そっちの牢には前々回のキミ。その隣はそのまた前のキミ。それより前は、流石に保存する価値がないから処分してしまった」
「ま……え、…………は?」
あまりにも意味が解らなくて、呼吸がおかしくなって変な声しか出ない。
視界の端には側方に伸びる通路があって、よく見れば座敷牢は目の前の一つだけではなくて無数に並んでいるのがわかる。そしておかあさんの言葉の意味するところは、そのうちのいくつかには、やはり私の姿をした少女が鎖で吊るされているのだ。
「前の、私って、なんですか?」
「キミの前のキミ」
当たり前のことを訊かれて困惑している、みたいなおかあさんの声音が理解出来ない。
脳の処理能力をオーバーして、殆どなにも考えられなかった私だけど、ただ一つだけ強烈な疑問が過った。
これだけは絶対に、今この場で確かめなくてはならないと、本能で感じたのだ。
背後で、顏の見えないおかあさんに問い掛ける。
私の前にも私が居て、私が唯一のものではなくて、私の代わりが無数に居るのだとすれば、
「私は、本当の娘ではない……?」
「キミを設計したのは私だから、キミは私の娘だと言える」
「設、計」
「そう。私がキミを出産したのかという意味の問いならば、私はキミを出産していない」
淡々と告げられる無情な事実に私の視界が黒くなる。
しかしまだ、ギリギリで私は踏み止まっていた。
それは、最後の一握りの希望が残っているからだ。
私は、牢の中の私の虚ろな顏を見詰めながら、殆ど喘ぐように言葉を発する。
「じゃあ……」
訊いてはいけないとがなり立てる本能と。
訊かねばならないとわめき散らす理性と。
「アナタは、私のおかあさんですか?」
例えこの身が作り物でも。
失くしたと思っていた過去なんて最初から存在しなかったのだとしても。
それでも彼女が私の母親ならば、それでいい。それだけでいい。
「その問いは二度目だね」
――やめろ
――答えて
――聞くな
「以前も答えたはずだけど」
――欲しい
――いやだ
――言うな
「それはキミが決めていいよ」
――嗚呼。
私の視界が黒く塗り潰される。
彼女は問いの答えを私にゆだねた。
それは彼女にとっては答えるに値する問い掛けですらなく。
彼女にとってそれは、答える価値のないほどにどうでもいいことでしかなかったのだ。




