補完[救い-8]
先に異変に気付いたのはラクスだった。
「……シスタードルチェ」
「う?」
声を潜めて、背中越しのドルチェへと話し掛ける。
「いくつか、足音が聞こえます」
浄水区はどこに居ても水が流れているので、その音に紛れて聞き取り難くはあるが、ラクスは自分達に向かって近付いてくる足音の反響を確かに感じ取っていた。
本当ならば、ドルチェのほうが先に気付いていて然るべき身体能力差が二人の間にはあったはずなのだが、ドルチェはラクスに言われて初めて気付いたどころか、言われてもなお足音を聞き取れないでいるようだった。
「こっちに来るのだ?」
「はい。すぐに包囲されると思います」
「じゃあ、ドルチェが蹴散らしてくるのだ」
おそらくこれは警戒していた追手の足音ではないとラクスは見抜いていた。訓練された者であれば、このように不用意に気取らせはしないだろう。だとすれば、単純に自分達を食い物にするために寄ってきた下層の住人であるとあたりを付ける。
十中八九、ドルチェの実力であれば一蹴出来る相手であろう。
彼女が本調子であれば、の話だが。
「いいえ。逃げるのです」
「えー?」
「えー、ではありません。その状態で、私という荷物を抱えたまま複数人と渡り合えるのですか?」
ラクスが諭すと、ドルチェは渋々ながらも納得した様子で、駆け足程度に速度を上げる。今の彼女に出来る精一杯の加速であったが、決して速いとは言えない程度でしかなかった。
ラクスとしてはそれこそ荷物を置いて逃げろと言いたいところであったが、言ったところでドルチェが聞くはずもないと学んでいた。だったら無意味な問答で時間を浪費することなく、最初から逃げに徹して少しでも距離を稼いだ方がいい。
逃げてどうなるのだ、という思いもないではないが、だからとて諦めても状況が良くなることなどないのだ。運の悪いことに近辺には身を隠せそうな場所がないが、どこか隠れられる場所まで逃げることが出来れば、やり過ごせる可能性だって無ではないのだから。
それきり会話をやめて無言で足を進めるドルチェであったが、無情にも足音はどんどん距離を詰めてくる。
背負子に乗せられたラクスは否応なく背後の警戒をすることになるのだが、夜闇に沈んだ視界の中で、一瞬なにかがチカリと光った。
魔力だ。
「躱して!」
咄嗟の叫びはドルチェに届いていたが、しかし彼女には反応出来るほどの瞬発力は残されていなかった。
ラクスの視界が捉えた魔力の輝きは、魔法銃による射撃の軌跡であった。
それは避けることが出来なかったドルチェにはしかし命中せず、狙いを外して至近の地面を削るにとどまる。
だが、
「あ、」
ぐらり、とバランスが崩れる。
視界に異常をきたした状態で、破損した義体で駆けるドルチェが躓くには、充分過ぎる衝撃であったのだ。ドルチェは受け身を取ることも出来ずに派手に転倒し、その拍子に背負子が彼女の背から外れて飛び出す。一応ラクスの身体を固定するためにベルト代わりの紐を掛けてはいたが、そんなものでは勢いを殺すことは出来ず、落ちた衝撃でバラバラになった背負子の残骸を巻き込みながら、ラクスも地面を転がった。
「ラク――」
すぐに立ち上がってラクスへと駆け寄ろうとしたドルチェの頭上から、なにかが襲い掛かる。
それは広げて投げつけられた網のようなものだった。
「な、なんなのだッ!?」
錘を括りつけられた網は容易には振り払えず、ドルチェがもがくほどに余計に絡まってしまう。暴れても逆効果でしかないと、ドルチェを諭すために声を掛けようとしたラクスであったが、突然後ろから頭髪を鷲掴みにされて持ち上げられた。
「づぁッ!?」
「おお、まじで一本もねえじゃん」
ラクスから顔は見えないが、どうやら頭髪を掴んでいるのは男性らしい。その男はラクスの四肢がないことを揶揄するように哂った。
その間にも、周囲からは男の仲間と思しき集団が続々と集まってきた。優に十人を越える。中心人物らしき男は片手に魔法銃を持っていたので、先程ドルチェを狙ったのはおそらく彼だろう。
多少なりとも統率の取れた動きと、装いから察するに下層を根城にする犯罪グループか何かであるとラクスは予想した。
「なにが目的ですか……?」
吊られた状態のまま、ラクスが魔法銃の男に問うと、彼は「あー?」と小馬鹿にしたような顔をする。
「金。女。あとはまあ、酒だな」
あからさまに適当な答えではあったが、その実、嘘を吐いているわけではなさそうだった。要するに、大した理由があっての襲撃ではないということだ。
そうであるなら、逆に交渉の余地がある。
「女、は提供できます」
手足のないこの身で出来ることは限られるが、この男達が望む最低限は果たせるだろう。ラクスの身体は四肢以外は生身であり、四肢以外は十全に残っているのだから。
「ああ?」
「私には何をしても構いません。なんなりと従います。ですので、そちらの」
自分を犠牲にしてでもドルチェを守ろうとしたラクスの言葉は、最後まで言わせてもらうことすら叶わなかった。頭髪を掴んでいた男の手からラクスを強引に奪い取った魔法銃の男が、ラクスを地面に叩き付けつつ強烈な蹴りを見舞ってきたからだ。
「がっ、けふっ! ゴホッげほ」
「立場わかってんのか? 従います、じゃねえんだわ。従わせてください。わかる?」
言いながらも男はラクスの顔を踏み付けた。
頬を地面に押し付けられて身を捩ることしか出来ないラクスの無様な姿を、周囲の男達が哂う。網に囚われたままのドルチェが、悲痛な声でラクスの名を呼ぶのが聞こえた。
言葉の通じる相手ではなかった、とラクスは嫌でも理解させられる。
「このようなことをして……主は、お赦しになりませんよ」
「は? ああ、よく見りゃアンタ、もしかして修道女か」
ラクスの衣服は戦闘と逃避行を経て見る影もなく損傷してしまっていて、元の姿は殆ど判別出来ない。ただ、よく見れば教会特有の白青金の色彩をしていたことがわかるし、随所に修道服特有の意匠があることもわかる。
ラクスの言葉から男は衣服を注視して、それが修道女のものであると気付いた様子だった。
これはラクスにとって最後の賭けであった。このような場所で犯罪者に身をやつしている者達が信心深いとは到底思えないが、絶対ではないし、教会の人間であるとわかれば利用価値も変わるだろうから、扱いが変わる可能性だって否定は出来ない。
「その通りです。私は教会の、」
「こりゃあいい! 一度ヤッてみたかったんだよな」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男の顔を見れば、ラクスの思惑があえなく潰えたことは考えなくてもわかる。
「ラクスに手を出したらお前らぶっ飛ばすのだ! ぜったいぶっ飛ばすのだぁ!!」
「うるせえよ」
威嚇の声を上げたドルチェに、男は躊躇なく魔法銃を撃ち込んだ。網の上から純魔力攻撃として命中した一撃に、ドルチェは「ぎゃん!?」と悲鳴を上げて倒れる。ラクスは殆ど悲鳴のように彼女の名を呼んだが、それだけしか出来ない。
ドルチェが動かなくなったので網が外され、その小さな身体の両肩を抱えられ、二人掛かりで持ち上げられる。
「なんだこのガキ、やたら重いぜ」
「見た目以上に色々金属なのかもしれんな。意外と高値が付くかも、」
ドルチェの身体の状態を確かめようとしたのか、なにやら喋りつつ襤褸の衣服を摘んで持ち上げた男は、声にならない叫びをあげて後退った。
「な、なんだこりゃあ……ッ!」
同じく、その光景を目にしてしまったラクスは我が目を疑った。
信じたくなくて、無意識に首を振るも、無情な光景は変わりはしない。
ドルチェが纏っていた襤褸の衣服の下にあったのは、
骨だ。
骨があったというよりは、骨しかなかったのだ。
本来あるべき腹の肉も、その中の臓器もなくて、ただ義体化した骨格だけが残っている。
致命傷、などという次元ではない。
どう見ても死んでいる。
死んでいる身体で、それでも彼女は動き続けていたのだ。
「チッ、バケモンじゃねえか」
慄いてしまったことを誤魔化すように悪態を吐いた男が、今度はラクスのほうへと視線を向け、傍にいた別の男に命令する。
「おい、ソイツも脱がせ。肉がないんじゃ話にならん」
「お、おう」
乱暴な手つきで衣服を剥ぎ取られようが、ラクスはもう反応するのも億劫になってしまった。
せめてドルチェだけは助けたいという、なけなしの願いが、実は最初から終わっていたのだ。
ドルチェが意地になってラクスを見捨てなかった理由がようやく理解出来た。彼女は自分が既にどうしようもなく助からないことがわかっていたから、最後の命を振り絞って、ラクスだけでも助けようと奮闘していたのだろう。
その健気な願いも、最悪の形で潰えた。
「よーしよし、こっちはちゃんと身体があるぞ」
「ひゅぅ、手足はねえけどスゲエいい身体してんじゃねえか。堪らねえなおい」
男達が何を言おうが、視線に晒されようが、乱暴な手で触られようが、最早すべてがどうでもよかった。
心を閉ざしつつあったラクスだが、その耳に、ふと小さな声が届く。
「――――」
ほんの少しだけ、ラクスの瞳に光が戻る。
「――――せ」
それと同時に、焦燥が募る。
「――――はなせ」
だって、そんなことをしたら、貴女は。
「――――ラクスを、放せえええェェェッッ!!!!」
二つ、轟音が響いた。
ドルチェの身体を二人掛かりで持ち上げていた男達が、それぞれに弾き飛ばされて左右の壁に頭から突っ込んだのだ。
獣のような動きで、殆ど落ちるように地面に立ったドルチェの全身から、赤いスパークが散る。
魔力が暴走している。義体化した肉体の制御性を逆手にとって、義体の機能と直結した自らの魔力系を意図的に暴走状態に追い込んでいるのである。
バギンッ、と音を立て、元々壊れていたドルチェの義体眼が内圧に耐えかねたように弾けた。
「なんだ、コイつ――」
振り返った男が魔法銃を乱射するも、ドルチェは弾幕を一切無視して距離を詰めてきた。義体を削られ、肉を抉られながらも踏み込んだドルチェの腕が、男の魔法銃を真っ向から粉砕し、それだけでは止まらず、そのまま男の顔面を爆砕した。
血液と脳漿、中身が飛び散る。
「うがァあああああああああああッッ!!!!」
咆哮し、男達を血煙に変えて蹂躙するドルチェに、ラクスは必死に呼び掛ける。
「ドルチェ! やめなさいドルチェ!! もういいです!! もうやめてッ!!!!」
壊れていく。
男達の四肢を一つ砕くたびに、ドルチェの身体も砕ける。
男達の命を一つ奪うたびに、ドルチェの命が消えていく。
元々助からない状態だったとか、覚悟はしていたつもりだったとか、そんなこと今のラクスには微塵も考えられなかった。
ドルチェが死んでしまう。
このままではドルチェが死んでしまう。
ただそれだけしか考えられず、それだけが何よりも恐ろしいことだった。
「誰かっ! 誰か来てくださいッ!! あの子を止めて、誰かァ!!」
誰も助けてくれないことなど自分が一番よくわかっているのに、それでもラクスは叫ばずには居られなかった。半狂乱になって叫ぶラクスは、近くに居た男に殴りつけられて強制的に黙らされる。
その光景を目にしたドルチェが、完全にキレた目に魔力を滾らせて、殴った男に襲い掛かろうとした。
が、脚に力を籠めた瞬間に、元々酷く損傷していた義体が遂に耐えきれず、片脚が膝からもげて転がる。
「ッ今だ! やれ!! やっちまえッ!!」
こうなると男達も必死だ。
暴れる怪物を仕留めるために、武器を手にして寄って集って袋叩きにし始める。討伐者崩れの男達が手にする武器は魔物にも通用する魔法具製の武器であり、例え安物であったとしても相応の威力を秘めている。
血飛沫と金属音を立てて歪んでいくドルチェの姿に、悲鳴をあげそうになったラクスは、またも頭髪を掴まれて強引に背後へと引き摺られた。
「来い! くそっ、なんだってんだ!?」
せめて獲物だけでも確保しようと考えたのか、ラクスを連れていこうとしたその男の行動は、この場では致命的に間違っていた。
袋叩きにあっていたはずのドルチェが、残った片脚と両腕の義体で地面を掴み、男達の包囲を潜り抜けて地を這う蜘蛛の如き挙動で突撃してきたからだ。そもそもドルチェはその義体の性質上、歩くよりも腕で這うほうが圧倒的に速いのである。
最早ドルチェには声すらない。ただ、その眼光だけが叫んでいる。
ラクスを放せ、と。
彼女はそのままの勢いでラクスを連れ去ろうとしていた男へと躍り掛かり、義体化された身体ゆえの重量で以て体当たりを仕掛ける。堪らず男はラクスの頭髪から手を放し、もつれるように倒れたその胸にドルチェの義体の鉤爪が深々と食い込み、命を奪った反動で肩からもげた。
取り落とされたラクスは当然受け身もままならず地面に落下し、その拍子に強く頭を打ってしまう。
強打のせいで意識を保てなくなり、徐々に視界が黒く滲んでいく。
「どる……ちぇ……」
意識を失う間際。
最後に目に入ったのは、たぶん、月の光だったように思う。
◇◇◇
ラクスが目を覚ました時、彼女は見覚えのない部屋に居た。
清潔な寝具に包まれ、どうやらベッドに寝かされているようだった。
「…………ここ、は」
茫洋とした思考で周囲を見回すと、ひょこりと視界に飛び込んできた顔がある。
ドルチェかと思ったがそうではなく、面識はないが知っている顔だった。
「貴女は、ミスタ・シシドの……」
「友人です。レイ・ケイカと申します」
ラクスのベッドの脇に居た彼女は、察するに眠るラクスの世話をしてくれていたのだろう。酷い有様だった衣服は取り換えられ、血と土に塗れていた身体も綺麗に清められていた。
ケイカと名乗った彼女は、ラクスにとっては少々複雑な思いを抱く相手であった。なにせ、修道士クロスを筆頭に自分達がターゲットにしていたまさにその人なのだ。ちなみに、だからこそラクスはケイカの容姿が魔物の呪詛により変容していることは理解していたので、こうして対面した彼女の双眸が漆黒に染まっていようとも驚くことはなかった。
考えるべきことは多くあった。
何故自分はここに居るのか。何故敵対的であったはずのケイカが自分の世話を焼いてくれているのか。あれからどれだけの時間が経っているのか。
だが、何よりもまず。
「お願いがあります」
ラクスは、静かに告げた。
「ドルチェに、会わせてください」
◇◇◇
きっと、ラクスがそう言うであろうと予想していたのだろう。
当然のように用意されていた車椅子に座らされ、ケイカに押されて辿り着いたのは、ラクスが目覚めた部屋からほんの二つの部屋を挟んだ先にある一室だった。
その短い道中、ラクスもケイカも無言であった。
「…………ここです」
ケイカが言い、静かに部屋の扉を開け、車椅子を押して中に入る。
そこはラクスが目覚めた部屋とよく似た、殺風景ながらも清潔な部屋だった。
いくつかの調度品が壁際に備えられていて、部屋の大部分を占有しているのは大きなベッドだ。
そこに、ドルチェが居た。
「…………保護された時には、もう」
鎮痛な面持ちでケイカが言うが、ラクスは反応しなかった。
そうなのではないかと、予想はしていたのだ。
だから動揺しなかったというわけではなくて、ラクスの心は何かを感じ取り損ねていた。心が機能不全を起こしたように、奇妙な程に何も動かない。
ドルチェは死んでいた。
そこにあるのは、かつてドルチェという名の少女だった、ただのモノだった。
生身よりも、金属部分のほうが多いくらいの、物言わぬ骸であった。
あまりにも無反応なラクスに危ういものを感じたのか、ケイカが気遣うように声を掛けてくる。
「あの、ラクサーシャさん?」
「…………」
緩慢に視線を向けたラクスに、ケイカは少し戸惑うように視線を彷徨わせた後、意を決して何かを差し出してきた。
腕がないので受け取ることも出来ないラクスの前で、彼女はそれを広げてみせる。
一片の、汚れた紙だった。
その辺で拾ってきたゴミだと言われても納得してしまうような、ボロの紙屑。
そこにただ、一言だけ書き込まれている。
殆ど読めないような歪んだ字で、本当に短い一言だけのメッセージが。
『 い き て 』
ドルチェが最期の時に握り締めていたものであると、ケイカに説明されるまでもなく。
誰が誰に宛てたメッセージなのか、など考えるまでもなく。
ラクスは呆然とそれを見詰めていた。
不意に、ラクスは車椅子から身を乗り出す。
何かを思っての行動ではなく、何かに衝き動かされた行動だった。
ケイカが慌てて支えようとするも間に合わず、四肢のないラクスはそのまま床に落下して俯せに這いつくばる。
「あ…………」
自分が何をしようとしたのか、他人事のように理解して、ラクスの双眸から熱い雫が零れる。
ただ、抱き締めてあげたかっただけだったのだ。
頭を撫でて、一緒に笑いたかっただけ。
それだけのことを、一度もしてこなかったことに、今更気付いたのだ。
「ああ…………」
栓が壊れてしまったように、あとからあとから涙があふれてくる。
そんな簡単なことに今更気付いたのに。
やっと気付いたのに。
自分には駆け寄るための脚もなければ、抱き締めるための腕もない。
「ああ…………!」
自分の中身がわからない。
溢れる感情の正体がわからない。
これは悲しみなのか、愛しさなのか、それとも怒りか。
感情を凍らせていた時間が長すぎて、感情の見つけ方がわからなくなってしまった。
一つだけ確かなことがある。
ドルチェは、もう二度と笑ってくれないのだ。




