300話_side_Sumeragi_回想
~"小さいほうの闇の巫女"スメラギ~
私には過去がない。
私にとって最初の記憶は、見知らぬ部屋で目が覚めたこと。
見知らぬベッド、見知らぬテーブル、見知らぬチェスト。何一つとして見覚えがないと同時に、ならば見覚えのある部屋が存在するのかと自分の中身を探してみても、そんなものはどこにもない。
要するにどこで目覚めようが一緒のことで、私はそこから始まったのだ。
その時の私は自分自身を表す言葉をまだ持っていなかった。
あるいは、既に持っていなかった、かもしれない。
簡素なワンピースだけを着ていた私はベッドから抜け出し、裸足のままで室内を当て所なく歩き回った。出入り口らしき扉が一つと、いくつかの窓がある。窓の外は暗いようだが、モザイクガラスで景色は見通せず、嵌め殺しの構造で開けることも出来ない。
そういう知識はあったけど、どこで得た知識かはとんと思い出せない。
別に不安があったわけでもなく、外に出たかったわけでもない。強いて言うならば、ただの興味だったのだ。景色が見えず、窓は開かない。それを確かめて、成程そうか、と納得しただけ。
最終的に私は部屋の角に置かれた等身大の姿見の前に立つ。
そこには黒髪赤目の女の子が映っていた。
白くて華奢な身体はあまり健全そうには見えなかった。黒い髪は腰にまで届くほどに長くて、ツヤツヤしている。前髪が長くて、隙間から赤い瞳がチラリチラリと覗く。なんだか陰気そうな顔だと他人事に思った。
ぺたぺたと自身の身体を触ってみる。おっぱいは小さいけど、なくはない。背格好と合わせて、たぶん十代半ばくらいかなと自分の年齢を予想する。
着ていた簡素なワンピースの裾をなんとなく持ち上げてみると、下着なんて穿いていないので鏡にはしたない光景が映った。特に意味があった行為ではなく、ただ単純に鏡に映った見知らぬ人間を観察してみたいだけだった。
成程そうか。これが私なんだ。
私が目覚めた部屋は、広い屋敷の一室だったらしい。
その屋敷には、私の他にもう一人の住人が居た。おそらくは、彼女こそが家主であろう。
「目が覚めたようだね」
と、彼女は私を一瞥して、一言呟き、それきりだった。読んでいた書物に視線を戻し、私の存在など思考から追い出してしまったみたいだ。だから私はその部屋の壁際に座り込んで、ぼんやりと彼女を眺めていた。他にすることもなかったからだ。
作務衣姿の彼女は私と同じ黒い髪をしていた。年の頃も同じくらいに見える。ただ、私の赤い目とは違って、彼女の瞳は髪と同じ色だ。表情らしい表情というものが無くて、熱心なのか惰性なのかわからない調子でただ書物を読み進め、時折何かを考えては傍らの紙にメモをする。まるでそういう装置か何かみたいな変化の無さで、読み終わった書物を脇に置くと、反対の脇からおそらく未読の書物を手に取り、同じルーチンが始まる。
どれくらいの時間が経ったのかわからないが、不意に私のお腹がぐうと鳴る。
彼女がこちらを見たが、なにを言うでもなく読書に戻る。
なので私も何を言うでもなく立ち上がると、部屋を出て食べ物を探しに行く。屋敷には広い食堂のような部屋があったが、やはり誰も居ない。使用人の一人も居ないというのに、隅々まで磨かれた塵一つない室内は少しだけ奇妙だ。
私は食堂の奥の厨房でいくらかの食料と飲料を見付けると、先程の部屋に戻って彼女に訊いてみる。
「これを食べてもいいですか?」
「うん」
了承をもらったので、私は壁際に戻ってもそもそと食事をする。
食事を終えると私はまた彼女を眺めることを始めて、時折思い出したように屋敷内を歩いた。
浴室を見付けたので「使ってもいいですか」と彼女に訊くと、彼女は「うん」と答えた。入浴を終えた私は裸のままうろつき、着替えるための服を探した。最初に着ていた簡素なワンピースをそのまま着ていてもよかったけど、それは清潔でない気がしたのだ。覚えていないけど私はわりと綺麗好きなのかもしれない。
適当に入った部屋で見付けた衣服を持って行って彼女に「着てもいいですか」と訊くと、彼女は「うん」と答えた。
そんなことを幾度も繰り返し、私は理解する。
私はこの屋敷の中の物ならなんでも好きに扱っていいようだ。少なくとも家主らしい彼女は私からの使用確認を一度として拒否しなかったし、そもそも然したる興味も抱かなかった。
私は好きにすることにした。
この屋敷にはとにかく変化というものがなくて、時間の経過が曖昧だった。
私は好きな時に眠り、好きな時に起き、好きな時に食べてお風呂に入る生活をしていた。厨房に保管された食料はいつの間にか補充されていたし、私が入浴しようと思うと湯が沸いていた。窓の外はずっと暗いままで、屋敷のエントランスには一度行ってみたが、何故か外に出てみようとは少しも思わなかった。
唯一の同居人である彼女の元へは起きるたびに赴いていたが、彼女は決まって同じルーチンをこなしているだけだった。
食事をしている気配はないし、睡眠をとっている気配もない。だからといって疲労している様子もないし、ずっと身綺麗なままだ。この屋敷そのものと同じように、変化がない。
変化の無い暮らしに慣れてきた私は時間が余るようになった。なのでふと思い立った時に厨房の食材で料理をしてみた。ごく簡単なものだったが、私には調理の技能が備わっていたらしい。どこで身に着けたのか定かでなかったが、なんだかよくわからない料理が完成した。
よくわからないのは記憶がないからで、身体が覚えているメニューを調理したのだが、出来上がったそれがなんなのかわからなかったのだ。
私はそれを彼女の元へと持って行った。
「食べますか?」
「うん」
私の知る限り彼女は初めてルーチン以外の動作を見せた。
書物を脇に置いた彼女は私が用意した料理を黙って食し、特に何も言わずに食べ終えると読書に戻った。
「美味しかったですか?」
「普通」
望んだ答えとはちょっ違ったけど、彼女から「うん」以外の言葉を引き出したので私は満足だった。
その日から、私の生活に彼女のお世話が加わった。彼女のために食事を用意し、彼女の周囲を整頓し、彼女の作務衣を着替えさせ、洗濯をする。彼女は私の行為に一切の抵抗をしなかったが、その場を動くことだけはしようとしないので、彼女をお風呂に入れるのは断念せざるを得なかった。
そんな生活が続くと、ある時私は思った。
なんで私はこんなことをしているのだろうか、と。
別にこの暮らしが嫌になったとかではなく、逆に然程も抵抗がないからこその疑問であった。ルーチン以外の行動をしない彼女の世話を焼いて、わりと甲斐甲斐しく働いていると自分でも思うが、なんでかそれが自然に思えて、まったくもって嫌ではない自分が居るのだ。
私はその理由を考えて、彼女に訊いてみた。
「アナタは私のおかあさんですか?」
きっと、浅からぬ関係性の相手であるから、世話を焼くのも苦にならないのだ。
同じ家に住んでいるし、外見もそれなりに似ているし、おそらく私が覚えていないだけで私は彼女の血縁なのだ。私がこの屋敷の物を好きにしていい理由も、何も覚えていないにもかかわらず屋敷の中の設備の使い方を知っている理由も、そうであれば説明がつく。
つまり、私はそもそもこの屋敷の住人なのだ。
それはいいとして、だとすれば私と彼女の関係性はなんだろうかと考えた時、最もしっくりきたのが先の言葉である。外見的には姉妹のようだけど、そうじゃないとなんとなく思った。だから母親だ。
彼女は私の質問に対して、少し思案した。
「確かにそうと言えなくもない……かもしれない……気がしないでもない」
「つまり?」
「キミが決めていいよ」
その日から、彼女は私の『おかあさん』になった。
母娘の関係になったからと言って私達の生活は変わらなかった。
別に会話が増えたわけでもないし、彼女が自らルーチン以外の行動をとるようになったわけでもない。ただ、私が彼女を「おかあさん」と呼ぶと、彼女はちゃんと返事をしてくれた。私は嬉しかった。
そんなある日、屋敷に訪問者が訪れた。
私がおかあさんの部屋で彼女の読書を眺めていると、一度も聞いたことがない音が鳴ったので、なにかと思った。するとおかあさんは「呼び鈴だね」と呟き、しかしそれ以上の何をするでもなかった。なので私も倣ってそのままで居ると、訪問者は勝手に屋敷内に侵入してこの部屋までやってきた。迷いのない行動だった気がするので、たぶん初めてではないのだろう。
現れたのは角の生えた男の人で、彼は『フェンリス』と名乗った。
全身真っ黒な出で立ちの人物で、とても背が高い。私の世界には私とおかあさんしか居ないので、それを思えば別次元の体格である。彼も私達と同じ黒髪だったけど、その髪質は遥かに手強そうだ。ごわごわそうだ。
なんとなく、人の形をした狼を連想した。
隻眼なのか片側しか開かれていない目は、私達のそれとは少し趣が違う。魔物の目というやつらしい。
フェンリスはどうやらおかあさんの古い知己らしい。それなら私のことも知っているかと思って訊いてみたが、彼は知らないと言った。なんでも、彼はおかあさんの知己としてこの屋敷を訪れるのは初めてではないにしろ、前回訪れたのは二十年以上も前のことだそうだ。
それなら、私がまだ生まれていなくてもおかしくない。と私は納得した。
「んで?俺のことはいいが、そういうアンタの名前は」
「?」
訊かれて、私は首を傾げた。
そう言えば、名前、無い。
「名前がないのか?アンタはなんて呼んでるんだよ」
フェンリスに尋ねられたおかあさんは言葉少なに「必要がない」と返した。
この屋敷には今さっきまで私とおかあさん以外の存在が居たことがないので、私達が互いの名前を必要としなかったのだ。自分以外に話し掛ければ即ち相手を呼んだことになるのだから。
フェンリスは憮然と腕を組んだ。
「じゃあ俺はコイツをなんて呼べばいい?」
「スメラギと呼べばいい」
「それはアンタの名前だろうが」
「なにか問題が?」
二人の会話を聞きながら、私はフェンリスを尊敬した。おかあさんとこんなに会話出来るなんて。
ちなみにこの時初めて私はおかあさんの名前が『スメラギ』であると知った。そして、なら私も同じ名前でいいと思った。おかあさんがそう言ったし、母娘なのだから同じ名前を持っているのは自然なことであるはずだ。
私がその旨を告げると、フェンリスは奇妙なものを見る顔になった。
「まあ、アンタ等がそれでいいなら良いけどよ」
それから、私の世界には少しだけ登場人物が増えた。
私と、おかあさん。それにフェンリスと、彼の従者らしいスコールとハーティ。フェンリス一行は基本的にここには居ないが、時折思い出したように訪ねてくる。私は彼等が持ってくる土産話を聞くのが楽しかった。
フェンリスはこの屋敷を訪れると、私の相手をスコール達に任せて、おかあさんとなにやら話をしていることが多い。なんの話をしているのかと訊いてみると、どうやらフェンリスは『あるもの』を探して外の世界を巡っているらしく、おかあさんからはその『あるもの』の所在に関する情報をもらっているのだとか。
なお、この屋敷からどころか部屋からすら出ないおかあさんがどうやって外の世界の情報を得ているのかは謎だ。
そしてある日、私にとって驚愕の事態が発生する。
例によって屋敷を訪ねてきていたフェンリスと食堂で話していると、その場におかあさんが現れたのだ。ちなみに食堂に居たのは私の拙い料理をフェンリスに振舞っていたからであり、それは珍しいことではない。
そんなことよりおかあさんである。
正直に言ってただ歩いているだけでも驚愕に値するおかあさんなので、彼女が食堂に現れた瞬間に私は現実を疑ったし、フェンリスはおかあさんを二度見した。そんな私達の動揺を他所に、おかあさんはいつもの調子でこんなことを言う。
「少々出掛けてくる」
「はあ?いきなりどうした」
驚愕が過ぎて思考が回っていない私の代わりにフェンリスが問うと、
「招待状が届いたんだ」
「招待状だァ?」
「うん。例の学院だが、なにやら騒動が起きているらしい。今なら結界に入り込めそうだ。様子を見てくるよ」
「エンディミオンか?好機なのはわかるけどよ、やめといたほうがいいと俺ァ思うがな」
「私はそうは思わない。見解の相違」
おかあさん達の会話は私にはまったく意味不明だったけれど、おかあさんがあまりよくない行為に及ぼうとしていることくらいは理解した。
彼女を案じる思いが顔に出ていたのか、おかあさんは私のほうを見て言った。
「大丈夫。最悪でも半分くらいは戻ってくると思う」
半分になったおかあさんはあんまり見たくないな、と私は思った。
数日後、おかあさんは半分になって帰って来た。
具体的には身体が若干ぼやけている。
なんだかんだでおかあさんの身を案じる気持ちがあったのか、立ち去ることなく屋敷に滞在して待っていたフェンリスは、おかあさんのその有様を見て呆れたような溜息を吐く。
「ほらみろ言わんこっちゃねえ」
「私も言ったはず。ちゃんと半分帰って来たからセーフだよ」
「世間ではそれを無事とは言わねえんだ」
「魔物の世間ではそうかもしれないね」
「人間の世間でもそうだと思うぞ」
結局おかあさんはどういう状態なのかというと、魂が半分になっているらしい。
おかあさんは自身の魂を分割して、その三割くらいを誰かに運んでもらって件の学院とやらに侵入してきたみたいだ。それでフェンリスが危惧した通りに案の定侵入者として撃退されて、送り込んだ三割くらいは永遠に失われてしまった。
じゃあ残りは七割くらいなのかと言うとそう単純でもないようで、欠損した魂は徐々に崩壊し始めているとかで、少しずつ削れていって今では五割を切るくらい、らしい。
「おかあさん、消えるんですか……?」
「このまま放置すると、そうなる」
「てことは、回復する手段はあるんだな」
「なければこんな無茶はしていない」
「あってもそんな無茶はするべきじゃねえと俺ァ思うがな」
フェンリスの苦言を聞いているのか居ないのか、きっと聞いているけど無視しているだけなのだと思うけど、おかあさんは魔物とはいえ男性のフェンリスの眼前で頓着もなく着物を脱ぎ捨てて、私が用意したいつもの作務衣に着替えると、そのまま緩慢な動作でもそもそと布団の中に入っていった。
どうやら寝るらしい。
「しばらく休むから。あと宜しく」
「おい待て、しばらくってどれだけだ」
「回復するまで」
おかあさんの声音はいつだって平坦でぼんやりとしているが、今この瞬間は輪をかけて間延びしている。有り体に言ってとても眠たそうである。
というか魂って寝れば回復するんだ、と私はまた一つ賢くなった。
「待て待て!アンタが寝ちまったらどうやって『有格者』を見付ければいいんだよ!」
有格者、というのはフェンリスが探しているもののことだ。私はそれがなにかは知らないけれど、推測するになんらかの素質を有する人物のことを示しているのだとは思う。
フェンリスの問いに対して、おかあさんは半分寝ているみたいな声で私を呼んだ。頭まで被った布団の中から。
「キミ、フェンリスを手伝ってあげてもいいよ」
「私ですか?」
私に何が出来るのだろうか、と小首を傾げると、おかあさんは言葉を続ける。
「やりかたは、キミが知っている。でもやらなくてもいい。キミが決めていい」
「ええと、じゃあ、やります」
横で聞いていたフェンリスが小さく「軽いなオイ」と呟いたが、私には他に選択肢がなかったに等しい。
だって、おかあさんが眠ってしまったら、フェンリス達が来ない限りは私はこの屋敷にひとりぼっちだ。寝ているおかあさんの世話を焼くのも限度があるし、むしろ回復の邪魔になったらいけないから下手なことは出来ない。だったらフェンリスに着いて行ったほうが幾分マシだろう。
おかあさんと仲良しのフェンリスの助けになることが出来れば、きっとおかあさんも喜んでくれるに違いない。
こうして私は、私が始まって以来初めて、外の世界に出てみることにしたのだ。




