282話_side_Io_フレンネル伯爵家_霊原
~"黒髪令嬢"イオ~
祭祀場、石造りの舞台の中央に立ったヴェルメリオさんが、夜空に遠く咆哮を響かせる。
高く、伸びやかな遠吠えであった。小さな身体からは想像も出来ない声量は、その実物理的な音の波ではなく、上位層を通して感覚に訴えかける魔力の波である。
この声を目印にして、あの方が来る。
たった一度だけ吼えた呼び声の、その残響が緩やかに消えたのとほぼ同時。ヴェルメリオさんの頭上、空中に金色の魔力が集束する。
身が粟立つほどの莫大な魔力量。長距離転移は移動距離に応じて魔力を消費するので、この光景だけを見ても転移者が遠く離れた場所からの転移を試みていることがわかる。ただ、予想よりはずっと近いように思う。少なくとも、王国東部のどこかだ。
独りでに集束して球形の文様を描くそれは、転移の先進魔力と呼ばれるものだ。転移先の座標に先んじて物体が存在してしまうと、物理的な衝突を伴う転移事故が発生してしまうので、それを避けるために予め転移先の空間を確保する働きがあるのだ。
魔力量で転移距離が概算出来るように、集束規模で転移者の規模が凡そわかる。大勢を転移させようとすればそれだけ転移先に確保すべき空間も広く求められるのだから、当然のことだ。
この光は、たった一人分。
彼女はただ独りでこの場に現れるつもりだ。
父上が会合の場に霊原を選んだのは機密保持の観点以外にもう一つ理由があって、それは防衛上の懸念があったからだ。ヴェルメリオ様がマーカーとして機能するということは、その気になれば彼女を目印にして任意の戦力を転移で送り込むことが出来てしまう。転移戦術というのは使い古されたものであるが、それ故に常に防衛上の課題となり得る。あるいは本命の転移者の移動に紛れさせて、陰でひっそりと諜報員や工作員を転移させて送り込むという手法もある。
ここであれば周囲に遮蔽物がないので、ヴェルメリオさんをマーカーに転移出現した存在は必ず肉眼で確認出来る。そしてフレンネル家の暗部を担う隠密集の『山影』が周辺を固めているので、もし組織的な侵略行為があったとしても鎮圧は容易だ。
夜の帳を眩く染め上げ、金色の繭が内側から割れ、まるで花開くように花弁を伸ばす。
いや、これは、花ではない。
翼だ。
金色の輝きを織り上げて創り出したような、荘厳にして優美な両翼が力強く空を撃つ。
舞い散る光に浮かび上がるシルエットを目にした瞬間、わたくしは居ても立っても居られずに舞台の中央へと駆け出していた。
「プリムローズ様……なのですか?」
ゆっくりと降り立つ彼女を見上げながら震える声で問い掛けると、彼女はどこか面影のある笑みを見せた。
わたくしが知る彼女と外見は全然異なっているのに、わたくしを見る、その瞳の優しさがどうしようもなく彼女であった。
「こんな見てくれだが、私だよ」
地表からほんの僅かに浮かんだ位置で滞空した彼女は、おどけたように肩を竦めた。それから冗談っぽい仕草で右手の人差し指をピンと立てると、小さな輪を描くようにくるりと回して見せる。すると、彼女の頭上に浮かんだ光の円環が同じようにくるりと回って眩い波紋を虚空に広げた。
普段のプリムローズ様の非常にお可愛らしい容姿が嘘のように、まるで女体の神秘をそのまま形にしたかのような、艶美と清純という相反する要素が奇跡的なバランスで拮抗しているが如き、神性すら感じさせられる至上のアヴァター。わたくしの貧弱な語彙ではとても表現しきれないが、とにかく美しく、そして麗しく、侵し難い。
「そんなに見られると、照れるぞ」
「あっ、し、失礼いたしました」
苦笑気味な言葉にハッとして、恥じ入るように視線を伏せる。
あまりに美しい姿に、思わず凝視してしまっていた。彼女の装いがまた、普段の厳格な振る舞いからは想像し難い出で立ちであるものだから余計に。まるで討伐者の女性のように徒に肌を露出した装いは、温室育ちのわたくしには少々刺激が強い。
ちなみにわたくしの後を追って背後に控えていたレキとソシエは、プリムローズ様のお姿を目にして言葉もなく立ち尽くしてた。ソシエはともかくと言っては悪いが、常に冷静なレキですら文字通りに開いた口が塞がらない様子は非常に珍しい光景であった。
「さて、ヴェルメリオ」
「あい」
次いでプリムローズ様は近くにおすわりで待機しているヴェルメリオさんに声を掛ける。
「首尾よくイオに手紙を届けてくれたようだな。偉いぞ」
「べるはおりこう?」
「うむ。それで私を呼んだ事情だが……――それはあちらに訊いたほうが良いのかな?」
そう言って彼女が瑠璃色の視線を向けた先には、静かにこちらへと歩いてくる父上と母上の姿があった。
プリムローズ様は社交界に出ておられないので、父上とはこれが初見になるはずだ。わたくしと彼女が出会うきっかけとなったクレインワース家での茶会にて、母上とは顔を合わせているはずだが、それとて八年も前の一度きりである。
わたくし達は場を譲るために脇に控え、母上は少し離れたところで脚を止めたが、そのまま歩み出た父上はプリムローズ様の眼前に立つ。プリムローズ様はふんわりと重さのない所作で地表に降り立つと、悠然と父上に向かい合った。
「アシュタルテ侯爵家のプリムローズ・フラム嬢とお見受けするが?」
「いかにも。ごきげんよう、伯爵閣下」
慇懃な答えとともに微かに腰を折る。
「アヴァターを解除されよ」
「諸般の事情により、罷りなりません。ご理解を」
父上の眼光をまるで意に介さず、プリムローズ様は微笑すら浮かべていた。
彼女の主張はそれほどおかしなものではない。現時点でわたくし達と彼女は敵対関係でこそないが、彼女にとってこの場はアウェーの環境に違いない。プリムローズ様の友軍はヴェルメリオさんしか居ない状況で、安易にアヴァターを解除出来ないのは妥当な警戒心であると言える。
父上とてそれは理解されていると思うが、父上は内心の読めないいつもの顰め面で、腰に佩いた太刀の柄頭に片手を置いた。
「しかし、其方がアヴァターを解除してくれねば、我々には其方がプリムローズ嬢本人であると確認できない」
「それはこの際、重要ではありますまい」
「いいや、極めて重要なことだ。ここは我がフレンネル家において神聖な場。其方をここに招いたのはプリムローズ嬢の人間性が信頼に足ると判断する理由があったためだ。故に其方が本人でないとなれば……――俺は其方を斬らねばならん」
「ふん……嵌められた気分とはこのことだな」
プリムローズ様が呆れたように言うのも無理はない。場所を決めたのはこちらの一存であり、プリムローズ様は一方的に指定された場所に出向いたに過ぎない。というより何の事情も知らないままに、ヴェルメリオさんが呼んだから来たというだけのはずだ。手紙を認めたのはプリムローズ様なので、こうなることも想定はしていたと思われるが。彼女にしてみれば、ならばそもそも別の場所に呼べと言いたくなるのは道理だろう。
しかしながら、そもそも彼女が正体を隠す意味がないというのも事実。周辺に潜む山影を警戒してアヴァターを解除出来ないというのであれば、そう仰ってくれればいいのだ。いくらでもやりようはある。それこそ、わたくしが山影を抑えるための形式的な人質になってもいい。
そのようにわたくしが申し出ようとすると、いつの間にか傍らに立っていた母上に手で制された。
プリムローズ様はそれをチラと一瞥すると、父上に視線を戻す。
「それも、重要なことか?」
意味深な問いかけに、父上は重々しく頷いた。
「済まないが、其方が否応なく関わってしまったものは、それだけの大事なのだ」
「成程。致し方ない。ただより高いものはないと言うしな」
わたくしは父上の意図を悟る。母上が何故わたくしを制止したのかも。
つまり両親はプリムローズ様の実力を試すおつもりなのだ。彼女が寄越した手紙の内容は、フレンネル家にとって根幹を揺るがしかねないクリティカルな内容を含んでいる可能性があった。その情報を共有する相手として、プリムローズ様の人間性はわたくしが保証したとしても、実力の程を確かめずには居られないのだ。
秘密を共有する相手が強者であるということは、厄介ではあるものの同時に信頼性は増す。プリムローズ様と敵対するつもりがないからこその、安心感の担保が欲しいのである。アヴァターを解除しないと云々という遣り取りは予定調和で、むしろここで唯々諾々と警戒を解く様であれば秘密を共有するに相応しくないと判断せざるを得なかったことだろう。
そしてプリムローズ様のほうは、彼女は彼女でわたくし達から情報を得るために接触を図ってきたはずなので、そのために必要ならばある程度はこちらの要求に応じる用意はあるのだろう。
例えばそれが、秘密を共有するに足る実力を示すこと、だとしても。
「と、まあここまではフレンネル家の事情だが、」
「うん?」
「それはそれとして、俺自身の興味もある。娘が惚れ込んだ実力がいかほどのものか、試してみたい」
父上の物言いにわたくしは頬が熱くなるのを感じた。当のプリムローズ様は、まるで『何を言ったんだ貴様』とでも言いたげなお顔でわたくしを睨んでくれる。その視線から逃れるためにわたくしは傍らの母上を見遣る。父上になにか余計なことを申し上げた人が居るとすれば、それはどう考えても母上しかありえない。
母上はわたくしの視線をどう受け取ったのか、ほんわかと笑って口を開いた。
「あの人ってば悔しいのだわ?イオちゃんの目標にされるっていう美味しいポジションをアシュタルテさんに取られちゃって」
母上の暴露に、その場の全員のなんとも言えない視線が父上に突き刺さる。それでも少しも表情を動かさない父上は流石だと思わされる。父上には甚だ不本意な感心のしかたであろうが。
「余計なことは言わんでよい」
先程と同じセリフを吐きつつ、父上は腰に佩いた愛用の太刀に手を掛けると、緒を解いて鞘ごと左手に持つ。
父上の愛刀はわたくしの身の丈ほどの全長を誇る野太刀であり、銘を『縹渺月輪玄正』と言う。父上は左手で鯉口を切ると、右手で柄を握り頭上で大きく身体を開くようにして抜刀する。長大過ぎる刀身はそうでもしないと抜くことすら出来ない。それも父上の膂力と体格があって初めて扱えるものであり、わたくしでは碌に抜刀することも叶わないであろう。
フレンネル家の流派にはいくつかの型があるが、わたくしが修めている抜刀術を主体にする型とは異なり、父上のそれは利き手に握った太刀ともう一方の手に握った鞘を用いた変則的な二刀流の型である。古くは片手にレイピア、片手に盾を持つ王国騎士団の正統からの流れを汲む流派であり、父上のほうがフレンネル家の正統でもある。別に野太刀でなくてはならないわけではないので、わたくしも愛刀でやろうと思えば扱えるが、個人的には今の抜刀主体のものが性に合っているのだ。
「あるじさま、べるは?」
「待て、だ」
対するプリムローズ様は再び背後の光翼を輝かせると、優雅に空を撃ってその場に浮き上がった。
短く言葉を交わしてヴェルメリオさんを下がらせると、わたくし達のほうにも追い払うように手を振った。どうやら、父上からの立ち合いの申し出を受けるおつもりらしい。
わたくし達がヴェルメリオ様とは逆の舞台端に引っ込んだのを確認すると、プリムローズ様が父上に言う。
「腕試しのつもりかもしれんが、そいつを抜いた以上は死んでも文句は言うなよ」
「娘の同級生に後れを取るほど耄碌してはいないつもりだ」
「どうだかな。うちのわんこが仕事をする羽目にならなければいいが」
父上に命の危機があれば、周辺に潜んだ山影が動くであろう。となればヴェルメリオさんはプリムローズ様を守るために動くであろう。その可能性を彼女は言っているのだ。
父上を前にしてあまりにも傲岸不遜な態度であるが、事実として転神状態にある彼女は、そもそもの肉体的パラメータで圧倒的優位にあるのだ。無論、それだけが勝敗を決するわけではないし、父上には地力の差を補って余りある経験の差というアドバンテージがある。
プリムローズ様が素っ気なく問い掛けた。
「合図は?」
「不要」
瞬間、光が瞬く。
異常な速度で構築された氷の槍が、無数の刺突となって父上に放たれる。冷気が白い残像となって闇の中に線を引く。戦端を開いた距離感がプリムローズ様に圧倒的有利であった。父上の太刀の間合いには程遠く、火力型の魔法使いであるプリムローズ様にとっては慣れ親しんだミドルレンジ。おそらく初手を譲ったのは父上なりの意地のようなものだろう。
「大したものだ」
ぽつりと呟いたのが、父上の口の動きでわかった。
父上は左手に持った鞘で、飛来する氷槍を迎え撃つ。まるで氷槍のほうが父上を避けて通ったのかと錯覚しかねない程に、些細な抵抗すらなくするりといなす。手数がまったく違うはずなのに、父上は片手を動かす最低限の動作だけでプリムローズ様の初撃を捌いてしまった。
まだ、互いに一歩も動いていない。
「ではこうしよう」
パチン、とプリムローズ様が指を鳴らすと、石造りの舞台の上を白い冷気が奔る。それは恐るべき速度で父上の足元に肉薄すると、刺し貫く氷の刃となって屹立した。
その間も変わらずに飛来する氷槍をいなしつつ、父上はするりと一歩だけ横にズレて足元からの刃を回避する。そのまま二撃、三撃と回避し続けるが、プリムローズ様の魔法は徐々に包囲を描くように父上の逃げ場を無くしていく。
丁寧で無慈悲に、氷で槍衾を作るように。
そろそろ足の踏み場もなくなる頃になって、父上が初めて打って出た。
飛来する氷槍の一つに煽られるようにして、その冷風の波に乗って虚空へと舞い上がったのだ。自らが作り出した風のみならず、他者の行動の結果生ずる空気の動きまでを掌握し、機動に用いるフレンネル家の魔法『風花一片ノ法』である。
その挙動はあまりにも唐突で、そして迅い。風に吹かれる花弁を捉えるのが容易でないように、機動そのもので相手を幻惑する効果がある。
月を背にして、プリムローズ様よりも更に上空へと舞い上がった父上が、右手の太刀を振るう。放たれた不可視の刃が意趣返しのようにプリムローズ様へと降り注いだ。真空の断層が生み出す圧力差が刃となって対象を破断する『断波ノ法』である。
「あーはん?」
そもそも目に視えない刃が高速で飛来したというのに、プリムローズ様は小馬鹿にするように鼻で嗤ってひょいと身を翻した。
意趣返しを更にやり返すみたいに、先程の父上のように攻撃を見切って最低限の動きで避けたのだ。
射角を上に向けた氷槍が、重力に引かれて落下する父上を撃墜せんと放たれる。父上は射線から逃れるどころか、むしろ自ら突っ込むように、虚空を蹴って風に乗り、頭上からプリムローズ様へと躍り掛かった。
盾として翳した鞘に纏わせた風の渦を巧みに使って、いなす挙動で自らの落下軌道をコントロールし、弾幕を意に介さず高速で驀進する。
信じられないことに、あのプリムローズ様の苛烈な攻撃が、父上にはまるで通用していない。何故ならば、中らないから。
尋常ならざる見切りを可能とする動体視力、そしていなしの技量を支える膂力、なにより重要なのは吹く風と自身を一体となさしめる柔軟性だ。
天へと昇る逆向きの豪雨を捌き切った父上が、遂にプリムローズ様へと肉薄する。
落下の勢いと纏う風の相乗効果で加速しつつ、振り被った太刀がその銘の如く月輪を描く斬撃を解き放つ。
「あっ」
わたくしは思わず声を上げてしまった。
プリムローズ様は父上の反撃にしっかりと反応していた。余裕を持って構築された強固な障壁が斬撃を待ち構えていたのだ。
だがそれは悪手だ。
何故ならば父上には『雷鳴徹シ』がある。防御の表面を斬りつけて内部に威力を浸透させる魔法剣技。卓越したフレンネルの剣士の恐ろしいところはそれだ。鍔迫り合いという概念がない。一度剣を合わせれば、防御の上から斬り裂かれる。
それは当然、障壁魔法であっても例外ではない。
硬質な衝突音が響き渡り、障壁が砕け散った。
「え?」
障壁が、砕けたのだ。
そう。プリムローズ様が時間差で二重に展開していた障壁魔法が、父上の表面上の斬撃と『雷鳴徹シ』の透徹する斬撃をそれぞれに受け止めたのだ。
外側の障壁が物理的に父上の太刀を受け止め、内側の障壁が威力を受け止め切って砕け散った。プリムローズ様自身には傷一つ入っていない。
更には、
「ぬぅ――!」
「バーストだ」
太刀を受け止めた障壁は、敢えて刃を斬り込ませることによって太刀を噛んでいた。
刃を引き戻せない父上の唸りと重なるようにして、プリムローズ様がまた一つ、パチンと指を鳴らす。太刀を噛み込んだ障壁魔法そのものが外側に弾け飛ぶ。カウンターとしても用いられる障壁爆破による攻勢防御だ。
父上は咄嗟に翳した鞘で爆風の威力を受け止め、爆圧そのものを足場にして大きく後方へと飛び退った。
そして位置取りは最初の場所へと戻る。
結果としては両者ともに有効打無しの仕切り直しである。
「流派の奥義なのだが。こうも容易く凌がれるとはな」
「生憎と、初見ではない。イオが使っているのを見た」
そう言えば、とわたくしは今更ながらに思い出す。
確かに、過日のリヒトベルガー公爵令嬢との戦いにおいて、わたくしは『雷鳴徹シ』を使用している。しかし、だからといって一度見ただけの技に対する対処法を当然のように構築しているのは異常と言うより他ないし、そもそも知っていようが簡単に防げるような技でもない。
なにせ、未熟なわたくしのそれとは違って、父上のそれには見てわかる予備動作がないのだ。
「どうだい閣下、満足したか?」
「まさか。漸く身体が温まってきたところだ」
意気揚々と構え直す父上の姿に、プリムローズ様は諦め気味に「あっそう」と呟いた。
まだまだ、小手調べでしかないということである。




