補完[おつかいわんこ-1]
『おつかいわんこ』ことヴェルメリオは考えていた。
高台のちょうどいい岩の上にちょこんとおすわりした彼女の眼下には、陽光をキラキラと湖面に反射させる大きな湖があった。ヴェルメリオが現在居る側の畔には活気賑わう城下街があり、そして湖を縦断するように渡された巨大な橋の向こう側、対岸に存在しているのが彼女の目的地であるフレンネル伯爵家の居城だ。
こちら側の城下が手広く開発された画一的な街の様相を呈しているのに対して、対岸は緑豊かな自然が青々と茂り、フレンネル家の城郭以外はほぼほぼ山林である。湖の畔に、雄大な山々を背にして重厚な存在感を示す異国風の城郭が構えているのだ。
山紫水明を臨み、自然と融和する優美な建築様式であった。
ヴェルメリオの敬愛する主様――プリムローズは言ったのだ。
フレンネル伯爵令嬢イオに、秘密のお手紙を届けて欲しい、と。
そのお手紙はヴェルメリオが背負った愛用のリュックにしっかりと仕舞ってある。ちなみに愛用のリュックは特注品で、状況に応じて形態を変じるヴェルメリオのアヴァターに追従出来るように伸縮性に富んだ素材で作られている。
主人の言葉を反芻するヴェルメリオの目下の悩みとは、つまりフレンネル家の城郭にどうやって潜入するか、ということだ。
「すんすん」
鼻を鳴らして匂いを確認するが、目標のイオはやはりあの城郭の中に居る。城郭にはちゃんと正式名称があるのだろうが、ヴェルメリオは知らないので勝手に『フレンネル城』と呼ぶことにした。あそこがイオの実家なのだから、彼女がそこに居るのは至って自然なことだが、ヴェルメリオにとっては悩ましいことだ。
ヴェルメリオは他人の顔や名前を覚えるのがあまり得意ではない。だがその代わりに匂いを覚えるのは得意だった。ヴェルメリオは身体的な事情で転神を完全に解除することが出来ない。その姿は常にアヴァターのものであり、稼働率を操作して形態を使い分けているに過ぎない。稼働率を最低限まで落とせば人間のそれと遜色ない姿になれるが、それでもアヴァターであることには違いないので、ひょんな拍子に尻尾が飛び出したりするのはご愛嬌。
ともあれ、その恩恵としてヴェルメリオの嗅覚は物理的な枠に囚われない。物理的に不可能な距離でも匂いを嗅ぎつけるし、多数の匂いが渾然一体と混ざり合っていても、その中から一つを嗅ぎ分けることが出来る。プリムローズ曰く、ヴェルメリオの嗅覚は上位フェイズに属している『概念』を観測するものらしいが、わんこには難しいことはわからない。ヴェルメリオにとって大事なことは、だから遠くに居てもプリムローズの存在を感じることが出来るし、だから『おつかいわんこ』としてプリムローズの役に立てるということだ。
さて、フレンネル城潜入ミッションに話を戻そう。
風光明媚な景観に惑わされそうになるが、流石は国境を守護する四大貴族であり歴戦の辺境伯家の本拠地というべきか、フレンネル城の防衛・防諜能力は非常に高い。ヴェルメリオの嗅覚は潜む罠や刺客の類を嗅ぎ分けることにも有用であり、時に理屈を超えた超感覚的な反応で危険そのものを察知したりもする。
その感覚が訴えるところ、あの城郭に潜入するのは並大抵のことではない。
だからヴェルメリオは尻尾をふりふりしながら一生懸命考えているのだ。
フレンネル城に入るためのルートは主に三通りある。
一つは正規の道である、正門へと通ずる湖上の橋を渡ること。当たり前だが通行する者は警備の人間に確認されるし、橋の入口と城門で二重に行われているチェック体制は厳重なので滑り込むことは難しい。そもそも橋上では身を隠す場所がないので、長い橋を暢気に渡っていたらすぐに見付かってしまう。文字通り、鼠一匹忍び込めないだろう。
一つは湖を泳いで渡ること。かなりの距離を泳がなくてはならないが、アヴァターであるヴェルメリオの体力ならばまったく問題ではない。特注のリュックは内容物を保護する機能があるので水に潜っても大丈夫。問題は、ヴェルメリオはわんこなので、泳ぐとなるとそれはもう犬掻きなのだ。湖上を犬掻きで近付いてくる間抜けな侵入者にフレンネル家の警備が気付かないはずがない。
一つは城郭の背後に回り込んで山林を抜けていく道。巨大とはいえ湖なのだから、ぐるっと迂回して行けばいずれは対岸へと辿り着く。ただし、フレンネル城の後背に広がる山林はかの城郭の防壁の一部だ。中に何が潜んでいるのかわかったものではないし、当然のように侵入者対策は敷かれているだろう。ヴェルメリオの直感的には一番ヤバいルートだ。
「きゅぅーん……」
お手上げである。
そもそもヴェルメリオは難しいことを考えるのが得意ではないので、基本的には直感頼りのスタンスだ。ヴェルメリオ自身の能力値が大概高いせいで直感頼りが馬鹿に出来ない信頼性を叩き出してくれるので、下手に考えを巡らせるよりも余程いい結果が出るのだが、それ即ち『直感がノーと言ったらノー』なのだ。
なんか無理っぽいなと思ったら無理なのである。
しかしながら、無理っぽくても諦めるという選択肢はない。何故ならこれは主様からの命令だから。プリムローズが望むのならばヴェルメリオはそれを叶えるのだ。そこに疑問などない。主様の望みに応えられないならばヴェルメリオに生きている意味などないのだ。
ヴェルメリオは座っていた岩からぴょんと飛び降りると、ふるふると身体を揺すった。
発想を換える必要がある。自力で達成出来ないならば協力者を募るしかない。幸いにして、以前プリムローズが通う学院に忍び込んだ際に件のイオの周囲の人物の匂いもある程度は覚えてきた。
ヴェルメリオは街のほうへと視線を巡らせると、その中にある『知っている匂い』に向かって一路駆け出すのだった。
その男は、城下に店を構えて花屋を営んでいた。
領主にして城主であるフレンネル辺境伯家は、元来植物の類――とりわけ花を愛でる気風の貴族である。それは領地であるフレンネル伯爵領の風土にも反映されていて、特にお膝元である城下において花の需要は多い。日常の彩りには勿論、縁起物や儀礼の品としても広く多様な花が求められるのだ。
男が営む花屋は所謂老舗というやつで、祖父の代から伯爵家に贔屓にしてもらっている由緒ある花屋である。それ故に伯爵家所縁の使用人が訪れることは珍しくないし、今日もまたそんな客を迎えたところだった。
今日の客は女性の使用人――つまりメイドであった。従者服が王国風のクラシカルなデザインではなく、そこはかとなく東方風の意匠を取り入れた独特のものなので、伯爵家の所縁であるとすぐにわかる。ただし、実は従者服のデザインには細部が違う三種類が存在していて、それぞれが『フレンネル伯爵家』『ラヴィエ子爵家』『イストリ子爵家』のものであるのだが、両子爵家はそれ自体が伯爵家の従者の家系なのは周知の事実なので、結局どの家の従者であっても大枠でフレンネル家の従者という認識なのだ。
ちなみに、今日訪れたメイドの女性は厳密にはイストリ子爵家の従者だ。
「…………」
男が自らの店の門前で唖然と立ち尽くしている理由とは、まさにそのメイドが理由であった。
花を買った彼女を見送ろうと思って外に出た男が目にしたのは、往来の真ん中でしゃがみ込んで、何故か子犬と睨めっこをしているメイド服の女性という珍風景であったのだ。
「あのー……お客様?」
あまりにも不可思議な光景に通行人も好奇の視線を向けていく。
一応は関係者として知らぬ存ぜぬは出来ないと思って男が声を掛けてみるも、一心不乱に見つめ合う一人と一匹は応えもしない。
イストリ子爵家の従者の女性は、見た目で二十歳くらいの小柄な人物である。ブラウンのショートヘアーを揺らす可愛らしい容姿で、洗練された所作と相俟ってただでさえ異性の視線を集める。これが領主所縁の従者服を着ていなかったら声を掛ける男が後を絶たなかったことであろう。
花屋の男にとっては初見の相手ではなく、これまでも何度か客として店に訪れたことがある人物だった。だから知っていることであるが、実はこの女性は類稀なる無口だ。言葉を話せないわけではないようだが、少なくとも男は一度も肉声を聞いたことがない。買い物は全て筆談であった。なので呼びかけに応える声が無いことはある意味予定調和ではあったのだが、
「わんっ」
子犬が小さく鳴き声を上げた。
こっちはこっちでどこの犬だろうかと男は疑問に思う。燃え盛る炎みたいな見事な毛並みもそうだが、周囲を歩く雑踏にまるで怯えたところがない様子や、背負った鞄のようなものを見るに、どう見ても野良犬ではない。労働力や家畜以外の目的で動物を飼育するなんてのは貴族の道楽と相場が決まっているので、もしかして一人と一匹は知り合いなのだろうか。
「わんっ」
男は一瞬、自分の目と耳がおかしくなったのかと思った。
一瞬前に聞いたそれと全く同じ鳴き声だったはずなのだが、今度は子犬は口を開いていない。口を開いていたのはメイドのほうだ。メイドの口から犬の鳴き声が響いたのである。
「きゅーん、きゅーん」
「きゃんきゃんっ」
「わふっ」
いや会話すな、と男は内心ツッコミを入れた。
もうどっちが声を出してるのかわからないが、犬語で会話し始めた両者に男は途方に暮れるしかない。周囲の通行人も異常に気付いたのか、ギョッとする者、首を傾げる者、二度見する者と反応は様々だ。
ややあって、一人と一匹はなんらかの同意を得たように大人しくなった。
メイドの女性は買った花を持っていないほうの腕で器用に子犬を抱えると、徐に花屋の男へと向き直る。
「店主」
「へ、へい!?」
「騒がせて済まなかった。これにて失礼する」
言うだけ言って、ぺこりと一礼して颯爽と去っていった。小脇に犬を抱えたまま。
初めて聞いた肉声になんだか妙な感動を覚えつつ、男は呟く。
「良い声じゃねえか……」
ヴェルメリオを片手に抱いて淀みない足取りで道を行くメイドは、名をクオレと言う。
イストリ子爵家の令嬢であるソシエの専属として学院にも同行している優秀な従者である。現在は学院が休暇中ということで帰省したソシエと共にイストリ子爵領へと戻ってきており、そして今日はソシエがフレンネル伯爵令嬢の元を訪れるということで、やはりその共として同道している。花を買いに来たのはイオがそれを好むため、お馴染みの手土産である。
クオレは基本的に言葉を話さない。
これは彼女の出自に起因する事情であり、彼女は自身の声音を加工するプロフェッショナルとして裏社会で育てられた経歴を持つ。どんな声でも真似られるし、それを活かすために培われた演技力によって声だけであればどんな人間でも演じられる。それどころか先程ヴェルメリオを模倣して見せたように、その気になれば人間以外の声だって思いのままだ。無論、発声可能な音域に限るが。
ちなみにどんな声でも出せる声帯は実のところ副産物であり、クオレが生まれた本当の目的は別にあったのだが、今となっては意味もないことなので割愛だ。今のクオレは一介の従者なので、考えるべきことは仕える家と主人の安寧と発展だけでいい。
クオレは基本的に言葉を話したくない。
花屋の店主に詫びたように、その気になれば普通に言葉を話すことが出来る。しかしクオレはそれをしない。普段の生活では主人であるソシエですらクオレの声を聴くことは殆どない。
クオレにとって声とは商売道具なのだ。剣の達人がここぞという時にしか刃を抜かないように、クオレもまたここぞという時にしか声を発しない――と周囲は思っているようだが、実はクオレ自身はそんな高尚なことは全然考えていない。
ただ単に、クオレは無口な性質なのだ。
どんな声でも出せるけど、喋るのは好きでないのだ。
「わうっ!わうっ!」
小脇に抱えたヴェルメリオが小さな声で吼える。
なにかを主張したいようだが、クオレは首を傾げるしかない。
犬の声を完ぺきにトレースすることが出来ても、犬の言葉がわかるわけではないのだ。
先程のヴェルメリオとの遣り取り。あれはただのノリである。
なんか意思疎通が出来たような気がしただけである。
そして十中八九、ヴェルメリオのほうも同じようなノリで吼えていただけである。そこに意思の疎通があったとすれば、なんとなくノリを共有していたことだけなのである。
なおクオレはヴェルメリオの存在を元々見知っていた。学院で発生したゴーレム騒動の際に見識を得ている。主にクオレの主人であるソシエの主人であるイオにめちゃめちゃ説教されていた可哀そうな犬という認識で。おそらくヴェルメリオのほうもその際にクオレの匂いか何かを覚えていたのだろう。
「貴女の目的はソシエお嬢様か?」
「わうっ!」
「それともイオ様か?」
「わうっ!」
「貴女はアシュタルテ侯爵令嬢の遣いだな?」
「わうっ!」
「王国語で返事して」
「あい」
そんなノリで、人目を忍んで小声で会話しつつ、クオレは主人の元へと向かった。




