第6話 皇帝【善良帝】
今上帝である【善良帝】は朝食を終えた後であり、宦官達が寄ってたかって皇帝の衣装へと着替えさせていたところだった。
着替えの最中であっても、この傀儡の帝は延々と嘆いている。
「ああ、私には皇帝なんて無理だ……本当に荷が勝ちすぎて。 もう駄目だ、胃が痛い……嫌だ、嫌だ……今にも死んでしまいそうだ……」
「陛下!」
そこに皇太子達が駆け込んできたので、臆病で有名な彼は小さく悲鳴を上げたのだった。
皇帝【善良帝】と皇太子ヴァンドリックは、叔父と甥の関係に当たる。
一応は皇帝なのだが、実権は全て皇太子によって握られており、彼の自由になるのは趣味だけである。
昔から皇族らしくなくて、小さな田畑と池を作らせて、そこで妻や娘と一緒に野菜を育てたり魚を釣ったりするのが唯一の気晴らし。
正直、皇帝としては酷く変わった趣味だったが、それがかえって彼らの命脈を長らえさせていた。
もしも政治への意欲や関心を示していたならば、とうの昔に妻女諸共に幽閉もしくは処断されていただろう。
「あ……ああ、驚いたじゃないか。 何だい、ヴァンか。 また急ぎの執務かい?」
「はい。 廂軍の動員許可を賜りたく」
差し出された筆記具を手に取り、震える手で【善良帝】は署名しながら訊ねる。
「その、今度は何処と戦争を……? まさか、反乱が……?」
「戦争ではありません。 トロレト村が【神の血】の密売組織の襲撃に遭って製造拠点にされた様なのです」
「え!?」
【善良帝】の手から筆記具が滑り落ちたのを、皇太子はすかさず受け止めて握り直させた。
「【帝国治安省】だけでは対応不能と判断し、軍の動員を決めました」
【善良帝】も【神の血】について多少の機密情報は知っている。
何の材料から製造されているのか。
どうやって製造されているのかさえも、ヴァンドリックが彼の名を使って徹底的に調査させたからだ。
【神の血】の内部には、ある液体と粉末が別々で封入されている。
人体に打ち込むとその液体が粉末と混ざりながら瞬時に体内に浸透し、【虚魂獣】に変えてしまう。
分析と鑑定の結果、詳しい成分や素材は次のようだと判明した。
液体は何者かの強い魔力が濃縮された体液のようなもの。
粉末の方は――人間の脳神経系から直に抽出した成分に幾つかの新たな薬剤を加えたとしか思えない――特殊な薬物なのだった。
勿論、素材からして人の尊厳を惨たらしく踏みにじっている。
こんな代物が民衆の間で持てはやされるようになったら、その国家はお終いだ。
だが、目的が分からない。
単なる金目当てにしては生産費用がかかりすぎているだろうし、幾ら【固有魔法】が増えるとは言え、一度【虚魂獣】になってしまったら人間には戻れないのだ。
更に【神の血】を破壊もしくは摘出したとしても――【神の血】からの魔力と薬物の供給が絶えた瞬間に、打ち込まれた者は絶命する。
それらの多大な犠牲を承知の上で、誰が、何のために、どうやって開発したのか。
現時点では分からないことが多すぎて、憶測すら立てられないのだった。
蒼白な顔をしていたが、ヴァンドリックへ幾度も頷いて見せて、【善良帝】は最後まで書き切った。
彼は皇帝としては全くの無能であるが、最低限の倫理観を持ち、従順で無害で大人しいからこれまで生きてこられたのだ。
傀儡としては理想的な男なのである。
「……分かった。 分かったとも……」
大人しい顔に従順な表情を浮かべながら、ただ一つだけ、ミマナははっきりと理解していることがある。
皇帝なんて今日にでも辞めて、田舎に隠棲したいのでしょうけれど、ごめんなさいね。
もうしばらくは貴方の存在が必要なのですわ。
安心なさって、貴方が傀儡でいて下さる限り、妻女の安全も保証します。
御退位後の穏やかな幸せを謳歌することだって、勿論。
――ヴァン様に噛みつかないのであれば。
されど【神の血】を生み出し、こうして密かに汚染を広め、何らかの陰謀を企んでいる者はヴァンドリックの大敵である。
即ち、彼女の全力を挙げて速やかに根絶せねばならない存在なのだ。
……許せない。
いいえ、この世から絶滅させても許してはならないわ。
私は悪女だの、政の魔女だのとあちこちで呼ばれるけれども、ヴァン様のお手を煩わせることだけは何があろうともしません。
だって、誰よりも愛しているのですもの。




