鼠に花束を
「わすれるんだよ。おまえにはそれが一番の薬だ」
優しい声が聞こえる。
年老いた老婆の枯れた声だ。
本当は。
ルヤ婆さんが忘れたいのよ。
娘に裏切られた自分を忘れたいの。
忘れられないから、変わりに私の記憶を封じてくれたの。
でも、ね。
記憶が無くても、苦しいのは消えやしないの。
却ってますます濃厚に煮詰まって、鮮やかにいつまでも残ってしまう。
本来なら、もう忘れていてもいいはずの頃。
もう痛みが癒えてもいいはずの。
細い路地。
両脇には鼠色の壁。
水がしみ出して、黴ている。さして汚れているわけではないが、薄暗くて湿っているために不潔さばかりが目立つ。
「私が幸せになるには、どうすればいいのかしら」
もう薄紅色に変わっている記憶の石。
都に辿り着く。
ルヤは城に上がったが、彼女は入れて貰えなかった。
危ないことになっては困るからと、ルヤも幾ばくかのお金を彼女に与えて、何か買っておいでと促された。
ノアルとルードすらついては来なかった。
一人だ。
一応、護身用に鎖を持っているが、この都は治安が良いとは言えない。
仮にも王都がこんな様子では国の行く末は暗い。
汚くて、荒んでいる。
まるでゴミ溜めだ。
今のジュリアノは完全装備だった。利き腕の指にはすべて大きな指輪がはまっている。頭に巻かれたバンダナには分厚くなるほど糸を使って刺繍が施されて頑丈だ。衣服からさらされる細長い首には宝飾を施した糊のばりばりに効いたリボン。踵のそう高くない靴。手首を庇う腕輪。髪と合わせて青いグラデーションを作り出すワンピースの腰を止める幅広の金属バックル。
「お嬢ちゃん、一人歩きは危険だよ」
「俺たちと良いことしよーぜ。なんなら金払ったっていい」
こうして、チンピラに絡まれるのは何度目だろうか。
ジュリアノはふっと溜息をついた。
苛立ち紛れに鎖を振るって、相手の顔を思い切り打つ。
たいてい、これで決着がつく。
それでもなお、こちらに向かってくるのなら、徹底的に身動きがとれなくなるまで、鞭のように鎖を振るいつづける。
至近距離まで寄られたら、指輪で威力の増したアッパーや、肘打ちなどの攻撃を容赦なく食い込ませる。
わざと絡まれて、その相手を叩きのめすのは気分転換になる。社会の屑をいくらいびったって心は痛まないし、こいつらはそうされるべきだとジュリアノは思っていた。
こういう思考になっているのは、自分を裏切った男がその種の男だったからだ。踏ん切りをつけたつもりでいても、まだ引きずる。
「社会のダニ、寄生虫。屑っ。生きている価値なしっ」
男たちを打ちのめした後にさんざんに罵って、彼女は去っていく。
「・・・・・・あの女、滅茶苦茶機嫌悪いぞ」
背後からジュリアノの様子を伺っていたノアルは恐々としながら言った。
「普通は、いきなり顔は狙わないんだがなぁ」 ルードは感心している。
こそこそと倒れている血塗れの男のそばに寄る。
衣服の上から、錘も仕込んでいない細いチェーンで打たれただけなのに、背の皮膚がずたずたに裂けている。
「・・・・・・こつがあるんだろうな、やっぱり」
「ルード、おまえはさっきから何かんがえてる?」
「俺、休暇貰って正式にジュリアノさんに鎖鞭の使い方、伝授して貰ってこようかと思ってる」
「あほかっ。あんな大道芸みてーな技。騎士は真っ向、剣で勝負だっ。真剣で戦えば、あんな玩具じみた武器に負けるかよ」
「だから、目的が違うんだって」
ノアルには興味がないような話なのでルードはあえて説明しなかった。
騎士の剣術は一対一の戦い方だ。
公式戦。人前で戦うことを前提とし、ショー的な意味が強く、みっともない真似ができない。型も綺麗に洗練された。
ジュリアノの鎖の技は完全に身を守るためだけに生み出されたものだ。容赦がない。する必要がない。それはか弱い女性が強い相手に刃向かう術だからだ。容赦をすれば護身にならない。
普通なら禁じ手である顔、それも目を真っ先に直接狙う。戦意喪失しようとも、身動きがとれなくなるまで徹底的に打ちのめす。だってそうしなければ、却って身を危なくしてしまう。
それでいて、ジュリアノのその動きは実に繊細で優美だ。
「あっ、まずい。見失う」
カフェテリアの露天テーブル。
お茶を啜って、軽くサンドイッチを食べる。
薄いハムとカラシ、胡椒の効いたトマトとレタス。味が濃すぎて、ジュリアノは家ではけっして作らないようなたぐいの代物。喉が乾いて、茶をもう一杯頼んだ。
食事とお茶を終えると出された手ぬぐいで手と口を拭うと、血で汚れた鎖をついでにきれいにした。
「・・・・・・あーあ。幸せになりたい」
ぼそりとジュリアノは呟く。
「・・・・・・さっきチンピラ二十人ばかり伸してきた女が呟く台詞かっ」
「あれ、ノアルとルード。どしたの? さぼり?」
「俺たちはおまえのことを守るように言われてんだよ」
「えー、別にいらないわ」
心底嫌そうにジュリアノは言った。
「だって、そうでしょ。私、あんたたちより強いもの」
ジュリアノは不機嫌さをそのまま声に乗せている。だから常よりも台詞に容赦がない。
「なんだよ、その言い方はっ。いつも思うけどな、もうちっとしおらしくしたらどうだよっ」
「なんで?」
ジュリアノは淡々とした顔でノアルを見上げた。
「あんたたちには私を助けてくれる意志もないくせに。なんで媚びなきゃなんないの?」
ノアルは言葉に詰まった。
確かにそうなのだ。ジュリアノという女はルヤを連れてくるにあたっては邪魔者でしかない。気にくわない。どこかでおいていけないものかと常に思っていた。
その態度が表に出ていれば、ジュリアノが冷淡な振る舞いをしてくるのは当然だった。
淡い紅のかかった真珠色になった記憶の石を胸から下げ、彼女は愁い色の眼差しで男たちを見下ろす。
「うちの舎弟どもが世話になったようだな、お嬢ちゃん」
顔も腕も傷だらけの若い男が舎弟をさらに何十人も引き連れてカフェテリアになぐり込んできた。
その男はそうして、口を閉ざした。
グラデーションの青い髪に目を奪われる。
「あ・あ・ああっ」
緩慢に少女が振り返ると、その男はがたがたと震えだした。
「ジルロード。おめぇ、どっかのお貴族様に嫁いで、西の西に行ったはずじゃあ」
「ジルロード? 私の名前はジュリアノ。あんた、誰?」
「ジュリアノだぁ? それはおめーが勝手に産み落としたガキの名前だろうが」
ジュリアノはここでようやく目を大きく開いた。
「そういや、連れて出てったな。そのガキはどうしたよ?」
早口でいらないことをまくし立てるのは、彼女が怖いからだ。
「捨てたのか、殺したのか」
「ああ、思い出した。私のことを捨てようとしたから、身動きとれなくなるまで鎖でひっぱたいて、半殺しにしたチンピラだわ。名前がいまいち思い出せないけど、まあいいわ」
ジュリアノは鎖を手にして立ちあがった。
「都まで逃げてきて、チンピラの親玉やってるなんて。女の私に半殺しにされて、足にすがりついて情けなく命乞いをしたあんたが」
ノアルとルードは悪寒を感じて一歩下がった。
「そうね。ジュリアノは、殺されちゃったの。私のお父さんとお母さんに。あんたが私を見捨てたから。あんたの子供は死んだの」
果てしない憎悪の先。
なにがあるのか教えてあげようか。
「父様が、私のジュリアノを取り上げて、石畳に叩きつけた。男なんて、産む苦しみすら味あわないくせに、せっかく苦労して産んだ命を簡単に摘み取るわ。無責任にっ」
真珠のような石が血のような赤になる。
鎖がしなる。
光を浴びて、輝く銀色。
蛇のように複雑に跳ね上がり、蔓のように相手に絡まる。
がたんとひっくり返るカラフルな小さな丸テーブル。
背もたれの低い椅子。
ガラス瓶の割れる音。
男たちの悲鳴と怒声。
鎖の動きが生きているようだと思った瞬間。
記憶を閉じこめて置いた編み目の銀細工がぴんっと弾けた。
ジュリアノを抱きしめるように、グラデーションの青い髪を持つ少女が浮いていた。
「駄目よ、あたしのジュリア。私の嫌な記憶と混ぜちゃ。あなたはあなた。私は私」
傷だらけの優男に目線を向けたが、ジルロードは興味をなくしたように再びジュリアノを見た。
「なにもできずに死んだおまえに、私の身体を譲ってあげた。生きていくために知識をあげた。でもね、記憶まで持っていっては駄目。せっかくルヤ婆さんのところまで導いて、記憶を封じて貰ったのに。これじゃ、私になっちゃうわ。ねえ、ジュリアノ」
「・・・・・・魔女なのか」
ルードがジルロードを見上げた。
「でも、だったら、なんでこんな。あんた、まだ若い。子供がいないならいないで、人生をやり直せたはずだ」
「だって私」
くすくすっとジルロードは笑って、ジュリアノにしがみついた。
「身体が無くても平気だもの。泥人形を私だと本気で信じている馬鹿な父母たちを見ているのも楽しかったし。それを嫁に迎えた愚かな男を眺めるのも楽しかった」
「あ・私、いったい。だって、記憶、わけがわから・ない」
ジュリアノは混乱していた。
ルヤは廊下を早足で歩いていた。
「待って、お母さんっ」
娘が呼び止めるがルヤはずんずんと一人で先を歩いた。
「ねえっ、お母さんっ」
たった一人の娘。
ルヤは情に負けて振り返る。
結い上げられた濃い赤毛に白髪が混じっている。ルヤが彼女を最後に見たとき、髪は艶やかでそんな老いの片鱗など見えなかったというのに。
丈の長い紺のワンピースは袖が短い。宝石のついた飾り帯。華奢なティアラは銀細工のみだ。握るように前で組んだ手には長い手袋。
「・・・・・・一人で心細いの」
「わしなどいなくても平気だと、言ったのはおまえだよ」
「お母さんっ」
「わしは養女をもらった。その生活が楽しい。こんな胸くそ悪くなる所に二度と呼ぶでないわ」
悲しそうな王子后の顔。
娘は老いたのだ。
ルヤは彼女がいつまでも子供のような気がしていた。裏切られるまで、ずっと。
「またそんな心にもないこと言ってるぅ」
きゃぴきゃぴとした明るい声が響いた。
「もう、ルヤ婆さんったら、素直じゃないんだからぁ。取り返しつくうちに許しちゃおうよ」
「だ・誰です、無礼なっ」
親子水入らずを邪魔されて、ルヤの娘は狼狽した。
「ルヤ婆さん、あなたはジュリアノをとても大切にしてくれたから、望みを一つ叶えて挙げる」
ジルロードはふんわりと微笑んだ。
薄く透ける神秘的な姿。
「おまえは?」
「なんかねー、目の前で子供を殺された悲しさで、生きながら鬼界に堕ちゃった。おかげでなんとかジュリアノを私に移してあげられたけど」
「そんな力があるのなら、もう一度、産んでやればよかったのに」
「あははは。そうかも。そのときはね、考えつかなかったの。いいの。死なないで。シナナイデ。あのとき私が願ったのはただそれだけ」
ジルロードはするりと廊下の高い窓から出ていく。
「望みが決まったら、ジュリアに言って。私が叶えて挙げる。もう、あの子に憎悪の記憶が蘇ることはないでしょう」
「おまえは?」
どこへ行く。これからどうする。そんな様々な疑問を込めて老婆が問いかける。
「私は」
ジルロードは楽しそうに笑った。
「あの子が生きて生活している。それだけでいいわ。それだけで幸せ」
「ふんっ。わしらは違う感性らしいの」
「そんなことないわよ」
自信たっぷりに若い母親は言った。




