赤色の恋人
「だからね、ルヤばあさんっ。ご飯外で食べてくるならそう言ってよ。無駄になったじゃない」
「さっしぐらいつけんかい。幼児でもあるまいに。わしはデートだったんじゃいっ。状況が許せばお泊まりのはずじゃった」
今日も森は賑やかだった。
「いい年して、なーにがお泊まりよ。まかり間違うと、どっちかがぽっくり逝くわよ。私は遺体を引き取りに行かないからね」
「ふんっ。わしが先に逝くなら、サリエリ爺さんに墓を建てて貰うわい。おまえはそんな心配するでないわ」
「そりゃよかったわ。清々してよ」
「おまえに墓の世話なんぞさせたらわしはおちおち成仏できんわい」
仲が良いのか悪いのか。
会話の棘に刺されて身動きとれないルードとノアルを無視してルヤとジュリアノは夜食を食べていた。
夕食と呼んでもいいだろう。茶の葉雑炊である。具は主に魚の干物や薫製だった。
「そろそろ都に戻りませんか、ルヤさま」
「ねえ、帰りましょうよ」
「いやじゃっ。わしはここで老春を精一杯楽しむのじゃ。他人の世話なんぞ、やいたって楽しいもんかい」
「そんなこと言わないでくださいよぉ」
古い茶を注いでジュリアノはずずっと啜った。
茶筒を振ってみると、あと四回も茶として飲めば、消費できるぐらいに減っている。
長い道のりだった。
ジュリアノは何かを捨てるという行為が大嫌いだった。
「説得してくださいよ、ジュリアさん」
「行きたくないっていってるんだもん。なんで私がルヤばあさんに行きなさいよって説得しなきゃなんないわけ? 私、王様にも王子さまにもなんの義理もないわよ」
冷たい台詞を口にして、ジュリアノは茶をおかわりする。
「説得してくださったなら、禄が出ます」
「いらない」
ジュリアノはにべもない。
もう一杯茶を注いでテーブルから皿を片づけ、台拭きで拭うと、繕い物を広げた。
「ぶっちゃけて言いましょう、ルヤさま。王はあなたが去られてからまるきり変わっておりません。他力本願、まるきり自分で考えて行動すること無し。王太子殿下がほとんど国政を担っておられました。が、その殿下が原因不明の病に倒れられ、我が国内は未曾有の危機」
「ジュリア。もう少し心を込めて縫えないのかい。そんな、おまえ、憎い相手に針を刺すようにやるもんじゃないよ」
「この布地は硬いのよ。針が何度も折れたわ」
「それはなめし皮じゃもの」
「少しは人の話を聞きませんか、あんたがた」
ノアルがいらいらとしている。
「折れた針はちゃんと始末してるだろうね?」
「ええもちろん。ルヤ婆さんの枕のなかに仕込んであるわ」
「・・・・・・あんたら、本気で仲悪いのか、もしかして」
ルードは恐々として言った。
「とにかくっ」
ノアルは声を張り上げた。
その大きさに全員の視線が向く。
「ルヤさまはもう分別をつけてもいいはずではございませんか。そんなお年になって恋だなんだと恥ずかしい真似はおやめになって」
「なに、この堅物のおっさんは?」
「俺はまだ二十四だ」
「ふーん、私はぴちっぴちの十七だもの。そりゃいいけど、なんかむかつくわ、あんた。偉そうに。こういうのが年食ってから曾孫ぐらいの若い女囲ったりすんのよね」
「あんただって、みっともないと言ってただろうが」
「耳悪いの? 脳味噌ないの? ころっと逝っちゃうかもとは言ったけど、やめろとは一言も私は言ってないわ。それからっ。よしんばそう口にしたとしても、私が言うのはいいのよ」
「まあそうじゃな」
ルヤが同意する。
ノアルはいらいらしながら聞いた。
「何でだっ」
なんでわからないの? 馬鹿じゃないの?という意味合いをたっぷりと含んで二人が同時に答えた。
「身内だからよ」
「身内じゃもの」
その物言いに腹を立て、ノアルはテーブルをひっくり返した。
「考えてごらなんなさいよ。あんたが自分で息子や父をろくでなしって言うのと、私があんたの親をろくでなしって言うんじゃ違うのよ。あんた、なに? ルヤばあさんの友達なわけ? 違うでしょう? 私の友達でもないじゃない。人んちの婆ぁ捕まえて、みっともないですって? どういう躾を受けてきたわけ? 親の顔を見てみたいもんね」
ノアルは言い返せずに、ジュリアノを睨み付けた。
「あげくにテーブルひっくり返すし。もう、頭悪すぎ」
少女は指先の痛みに気が付いて、ちろりと舌で舐めた。
テーブルがひっくり返った時に、手にしていた針で指を指してしまった。
「もお、私は針仕事してたのに。本当にばかっ。状況ってものを考えないんだからっ」
深く刺してしまったようで、血が止まらない。ジュリアノは傷口を吸ったまま、庭の薬草を採りに出ていった。
「で」
ノアルとルードがテーブルを直すのを見つめながらルヤは淡々と聞いた。
「わしが戻る。またわしの言を鵜呑みにするだけの王に政治が戻る。おまえさんたちは満足か?」
「・・・・・・」
「わしがここに来たのは、その業病に苦しむ王太子殿下がわしを排斥したからだ。命を救われ、今度は容易に排斥できないわしに、殿下はなにをするか、わかるじゃろう?」
ルヤは割れたカップを拾い上げた。
「二度と。わしは戻らぬよ。捨てられた老人は捨てられた娘と、ここでひっそり暮らすんじゃ。それからもう一つ」
ルヤの手の中でカップが元通りになった。
「ご病気と言うが、そんなものは信じられんな。のこのこ行ったら、断頭台が用意されているのではないかい?」
「そのようなことはけっしてっ」
使者が食い下がろうとすればするほどにルヤはかたくなになる。
「おまえたちは、わしの身内の血を流した。今夜は滞在することを許すが、明日の寝床はない」
ルヤはぞっとするような声で告げた。
血が止まらなかった。
「暗くてわかんない。血止めってどの草だっけ」
月光の下でやっとのことで探しだし、指ですりつぶして傷口に塗った。
ジュリアは血塗れの指で首から下げた記憶の石をいつものようにいじった。
少し気が遠くなる。
「おまえはもう勘当です。どこへなりともおゆき」
母が癇癪気味に言った。
「恥知らずめ。あんな男と一緒になりたいなどと。おまえはもうこの家の娘ではない」
父が言った。
「おめー、もう飽きた。っていうかよ、おめーが良いとこのお嬢だったから、俺は付き合ってたんだぜ。家を出てきちまったら、おめー、ただのつまんねぇ女じゃねぇか」
何もかもなくした自分に男が言った。
嘆くより、憎悪がより強かった。
自分が可哀想と思うのは生まれたときからずっと。
だから、もうやめた。
憎んで、憎んで、憎んで。
みんな壊して。
そうしたら、きっと楽になるから。
「ジュリア。いつまでかかってるんだい。とろいねぇ。見つからないならわしがみつけておいてやるから、おまえはもう中にお入り」
「薬草はあったの。傷にもうつけた」
ぼんやりとジュリアノは言った。
「ならもう、眠っておしまいよ。明日も仕事があるんだよ」
「ルヤ婆さん、苦しくて、痛いの」
「どうしたっていうんだい?」
ルヤはぺちぺちと軽くジュリアノの頬を叩いた。
「やっぱり、あんな茶を三杯も飲んだからだよ。布団にもぐっておいで。腹痛の薬を煎じてやるから。馬鹿だよ、本当に。あんなもんがばがば飲んで」
「うん」
ふらふらとしながら、自室に戻る。
記憶を握りしめる。
もう痛い言葉は蘇らない。
でも、耳に残っている。何度でも耳にこだまする。
ジュリアノはベッドの中で声を殺して泣いた。
苦しい。痛い。悲しいよりも辛い。
夏の蒸し暑さが彼女をさらに苦しめる。
なかなか眠りに落ちていけないのだ。
石の色はさらに鮮やかな赤になる。
だが、やがて色を少し失って鮮明さがなくなった。
使者たち二人が帰った後、しばらくしてルヤはぽつりと言った。
「ジュリア」
「ん?」
「わしは王の元へ行こうかと思うんじゃが、おまえはどうする?」
「嫌がってたんじゃないの?」
「行きたくないが、仕方ない」
ルヤは仏頂面で言った。
「娘から、手紙が来たんじゃ」
「そ・お」
ジュリアノは手紙を見せて貰った。
夫が本当に病気なのだと書いてある。
「・・・・・・夫?」
「わしの末娘は現殿下の元へ嫁いでおる」
淡々とルヤが言う。
「・・・・・・っていうことは、ルヤ婆さんは未来の王様のお姑さんってこと?」
「そうなるのぉ」
普段ならこのあと、例のひょほほほほほっという笑いにつながるのだが、ルヤは笑わなかった。
「嫁がせたくはなかったが、仕方ない」
「えっ、なんで? 王子さまのお嫁さんじゃない」
とびきりの玉の輿だ。
「まあ、色々とある。可哀想じゃろうが。わしの娘だから嫁に貰われたなどと知ったら、繊細すぎるあれがきっと傷つく」
「ああ、そうか」
痛い言葉だ。
「もともと、殿下はわしに対する人質として娘を嫁にとったんじゃ」
「それってひどくない? なら、嫁がせなければよかったのに」
「若い普通の娘が、同じ年頃の王子さまからのプロポーズを断れるか? 親がどんな思いでいようと。親のわしを切り捨てても、玉の輿に乗りたがる」
「そう、かも」
捨てられたのか。
同じ者同士。
「私でも、そうするかもしれない」
「おまえはせんよ」
ルヤは確信を持っていった。
「おまえは不幸顔じゃ。二つの選択肢があったとしたら、私にはこっちがお似合いとか言って、ろくでなしのチンピラを選び取る女じゃ」
「・・・・・・私だって楽したいわよ。そんなことしたりしないってば。やだな、もう」
けらけらとジュリアノは笑ったが、確かにそういう気もするのだ。
「世の中にはなあ、ジュリア。カモになる女とカモを捕まえる女の二種しかいない。たいていがカモを捕まえるのがうまいのに、世の中には確かに、極悪な漁師の網に好んで絡まる女もいるんじゃ」
「そこまで決めつけないでよ」
ジュリアノは溜息をついた。
「どうすれば幸せになれるのかしら」
「おまえのような女には男はすべて鬼門じゃ」
「それじゃ結婚はおろか、恋をすることすらできないわ」
「それがあれば確かに人生は楽しいが、別になくたって楽しく生きていけるんじゃ」
この年になっても、元気にサリエリ爺さんと逢い引きをしているルヤ婆さんが言ってもあまり説得力というものがない。
「私も、行こうかな」
ジュリアノは呟くように言った。
「一人で残っても寂しいもの」
いつになく弱気な台詞にルヤはフクロウのように顔を傾けた。
「ルヤ婆さん、それ不気味だからやめて。せめて顔の回転は九〇度までにして。一応人間なんだから」
「ふんっ。人間が首を一八〇度回転させちゃならんという決まりはないじゃろて」
「自然界がそう決めてるってば」
実際には一二〇度ほどしか回っていないが、それはもう人外の動きだ。
ジュリアノはくすりと笑った。
「私は人が多いところで、たくさんの人間をみたいな」
わざと指先に傷をつけ、記憶を封じた石に血を垂らす。
そのたびに、痛いだけの言葉が蘇ってくる。
「こんなこともできないで、おまえは恥ずかしいとは思わないのか。それでもわしの娘か」「なんてみっともない子なの。本当に私の子かしら」
「つまんねー、女」
悔しい。
許さない。
確認するたびに、彼女は強くなる。
同時に悲しくなる。
ジュリアノは以前までは悲しさなんてものは感じなかった。
強い苦しさは感じても。
「わしの孫ならもっとお淑やかだよ」
ルヤは笑いながら言う。
でも、こうも言う。
「ジュリアは身内じゃ」
だから、たぶん。少しずつ、痛い言葉に傷ついた心が癒えてくる。傷が癒えるたびに、石は鮮やかさを失っていく。
「ジュリアや?」
ルヤが呼びかける。
返事が返ってこないので、老婆は肩掛けを彼女の肩にかけてやった。
都に行くまでは馬車旅になった。
ルードとノアルが駆けつけて、色々手配をしてくれた。
ジュリアノは馬車に揺られながら、浅い眠りに落ちていた。
窓の外は綺麗な風景だった。
住んでいる森が右手に広がり、ねぐらに帰ろうとする黒い鳥たちが茜の空を飾っている。
夢現の中で、これを絵に封じられればきっと綺麗だろうなとジュリアノは思った。
この夕日と、今の記憶の石は同じ色合いをしている。
あとはもう、記憶はなし崩しに流れ込む。
堤から滲んだ水が土を削り、堤防を決壊させてしまうように。
ルヤは石に触れた。
この老婆に出来ることは、その決壊を可能な限り緩やかに送らせることだけだ。
ルヤは一人娘に裏切られ、打ちひしがれていた。
何度、彼女に裏切られたことだろう。
一度目は王太子アサーに嫁ぐと言われたとき。反対しても、聞き届けずに嫁いでしまった。二度目は孫が生まれたとき。会わせてはくれなかった。三度目は彼女が都を追い出されたとき。以後、一度として手紙すらも寄越さなかった。
悔しかった。
そんな風に育ててしまったのは自分である。だから余計に悔しい。
心が荒れていた。
そんなおりだ。男に捨てられ、憎悪の塊のような少女と会った。
これは自分だと思えるほどに、内部に燃える暗い感情はよく似ていた。
「忘れておしまいよ」
ルヤはその少女に魔法をかけた。
今一度、親子関係というものをやり直したかった。
ジュリアノとの暮らしは活気があって、心は穏やかな、ルヤが望んでいたささやかな家庭そのものだった。
馴れ合った口喧嘩。
身内だから許される毒舌。
ルヤはようやく欲しいものを得た。
こんな普通なものが自分は欲しかったのだ。
そしてたぶん、ジュリアノも同じだったのだろう。
日毎に彼女は若い娘らしく、快活に笑うようになっていった。
ルヤは思考を実の娘に戻した。
そして、今度。
夫が死にかけているから助けてくれ。
四度目の裏切りかもしれない。
娘の手紙にのこのこと出向いていったら、断頭台の準備でもしているのかもしれない。
ジュリアノを連れて行くべきではないかもしれない。
「ん・・・・・・」
ジュリアノが目を覚ました。
「あ・もう真っ暗。星がきれー。・・・・・・って、こんな暗いのにまだ馬車動いてるの?」
御者さーんとジュリアノは寝ぼけた声で呼んだ。
「だれが御者だっ」
ノアルは不機嫌そうに言った。
「止まらないの?」
「月明かりがあるから平気だ。街まで行く」
「ふーん。ルヤ婆さん、寒くない? 平気?」
「平気じゃ」
「でも年寄りって体温コントロールができないっていうから。一枚、羽織った方がいいわ」
「いちいち、引っかかる物言いをする子だね」
ジュリアノは自分が縫った上着をルヤに着せた。
「私、背の丸まったお年寄りの衣服を作らせたら、そこいらの仕立屋には負けないわ」
「そうじゃの」
昨夜まで激しく雨が降り落ちていたせいか、風が吹き抜けるこのあたりはやけに風が涼しい。
気持ちよくて、ついついジュリアノは眠ってしまった。森の中はやけに蒸し暑くて、ここのところよく眠れていなかった。
蘇った記憶のせいもある。
遠くに灯りが見えてきた。
宝石箱をひっくり返したように点々と白や赤の光が見える。
「あれが街なのね」
「ええ」
「あら」
ジュリアノは首を傾げた。
知っている気がしたのだ。
風の匂い。
遠い音。
鼓動が苦しくなる。
「・・・・・・」
息が詰まって胸を押さえ込むように前のめりになった。
「どうしたんじゃ? またあの茶っ葉を飲んできたのかい?」
ルヤが少し心配した声で問いかける。
「・・・・・・」
ジュリアノは頭を左右に振った。
「ノアルっ、迂回してっ。その街に止まらないでっ」
「なに言って」
ノアルが抗議した。
「そうなると夜通し走ることになりますよ」
「ノアル、ルード」
ルヤは嗄れた声で命じた。
「そういうことじゃから、別の村か町まで行っておくれ」
「あんたらは乗ってるだけだけどなっ。俺らは馬を操って丸一日近くほとんど休みなしだぞ」
「ふーむ。ではこうしよう。そんなに疲れているというのなら、あの街についた時点でおまえさんたちは解雇じゃ。馬車は雇い直そう。わしは元々騎士階級は偉そうで文句が多いから嫌いじゃ。辻馬車なら、金さえ出せば文句なんぞ言いやせんのにのぉ」
「・・・・・・っ。わかった。わかりましたよっ」
ノアルは自棄っぽく返事をした。
「・・・・・・ごめん」
ジュリアノが弱々しく言った。
「ったくもおよぉ。あの我が儘な婆さんとガキに付き合わされんの、もうごめんだぜ」
酒を飲みながらノアルは仏頂面になっていた。
腕が痺れている。
だから、コップで酒を飲むことができずに、瓶からそのまま飲んでいる。そうしないとこぼしてしまう。
「なんかあったのかもな」
「我が儘だろ、ただの」
部屋には二人しかいなかった。
ルードは鎖をじゃらじゃらと手の中で弄んでいた。ネックレスに使うタイプの、細長い鎖だった。
「なんだ、まだ気にしてんのか」
「あれから調べてみたんだけどな。男ってのはおおっぴらに帯剣してられるじゃないか?」
「ああ」
「でも女でそういうのって、あまり好ましくないだろ。で、女性用の護身術でこういうのがあるらしい。ネックレスとか、腕輪とか、バッグとかそうした装飾品をうまく使ったもので」
「女は男に守られてりゃいいんだよ。護身術なんてもん必要ないだろ」
「・・・・・・・ノアル、彼女いるのか? って、いないよな」
「なんで決めつけるんだよっ」
「恋人いて、こうして離れている状態で、そう言い切れるのは一人にして気になる誰かがいないからだ。騎士なんて王様の使いっ走りだからな。遠くに出かけることも多い。俺はこういうの賛成だな。今、何かあっても、俺たちは妻も子も守ってやれねえんだよ」
「だからって」
「鎖を使った手法の大半は、ひっぱたくんだ。首に絡めるっていうのは高度な技らしい。巻き付けられたときに全然痛くなかったから、彼女、すごーくうまいんだ。その線で調べて出てきた名前は三つ。年の頃が合うのは二つ。リティナディア嬢と、ジルロード婦人」
「・・・・・・名前が違うじゃないか」
「ああ。だから、たぶん。ジュリアノってのは偽名じゃないのかな。あの街に住んでいるのはリティナディアだ。ジルロード婦人は結婚しているし、違うだろ」
「うまく行けば、ジュリアノ嬢を置いてげるかもしれない?」
「ノアルは彼女が嫌いだな」
ルードは溜息混じりに笑った。
「ああいう女は嫌いだ」
「どんな女なら良いんだ?」
「亭主に尽くしてくれて、文句を言わない女がいい」
ノアルの言葉にルードは首を横に振った。
「そんな女が欲しいなら、奴隷でも買うか、死体ででも遊ぶんだな。少なくても後者なら文句は絶対言いやしない」
眦を変形させ、むっとした表情を作ったノアルがルードを見上げた。
「だからね」
鎖が実に微妙な感触を伴ってルードの首に巻き付く。
「でしょう?」
「はあ?」
「確かね、普通は威力とバランスを取るために小さな鉛を鎖の先端に仕込むんだけど、私そういうのあまりしなかったから」
「なんでですか?」
「先端に錘を仕込むと、思い切り振ったときに鎖が引きちぎれることがあるから。繊細な動きができなくて大きくなっちゃうし」
鎖を引き離す。
「私は振るのは好きじゃないの。中途で止められないから。だから、重みは必要ないんだわ」
ジュリアノの心の奥に何かが引っかかる。
許さないと、思ったあとの記憶がなかなか戻らない。
「というわけで。おしまい」
背を向けたジュリアノに、
「あっ、リティナディア嬢っ」
と、ルードは呼びかける。
姑息だと思ったが、鎌を掛けてみたのだ。
ジュリアノは左右をきょろきょろと見回して、
「誰、それ」
と、平素な顔で聞いた。
「・・・・・・あ・いいえ。間違いました。すいません」
「恋人かなんか?」
「いえ」
「ふーん」
さして気にした様子もなく、ジュリアノは馬車に乗り込み、また眠った。
自分を捨てようとした男は血塗れだった。
幾度も鎖を打ち下ろす手。
「今のは嘘だ。愛してる。試しただけだ」
そんな乾いた台詞。
血。
殺す手前。
鎖に錘をつけていれば、きっと殺せたのに。 そんなことをぼんやり思う。
許してくれと泣きつく男をジュリアノは蹴り飛ばした。
「ああ、そうか」
合点がいった。
「私は『おまえを愛している』という言葉が欲しかっただけ。それだけでよかったのに。それが嘘だとわかってしまったら、もうあんたになんか意味無いわ」
そう言っているのに、涙がこぼれ落ちた。
でも。こちらから、捨てないと。
痛いから。
そうしないと、捨てられるから。
二度も三度も捨てられたくない。
こいつを捨てて一人になるの。そっちの方がかっこいい。一人を選んだのは私ということだもの。
捨てられて一人になるのはいや。惨めすぎる。
「いらないのは、あんたよ」
でも、言うの。ばれる前に、ぶちまけて、自尊心だけは守りたいの。
老婆が目の前にいた。
「私、捨てられたの」
鎖を打ち下ろすのは嫌い。
それは弱い行動だから。
何かを捨てるのも嫌い。
何かから捨てられるのはもっと嫌い。




