4. 半間
川端の市は、息を潜めたように静まり返っていた。
朝の川面は光り、そこだけがいつも通りだ。露店のない河岸には、筵とひっくり返った台が転がる。売り手も買い手も肩をすぼめ、橋の上を見ず足早に過ぎてゆく。
「母ちゃん、今日も市はやってないの? 魚、買いたかったのに」
「しっ。橋を見るんじゃないよ。黙ってついておいで」
子の手を引く母の声も、誰かに聞きとがめられるのを恐れるように低い。
その橋の欄干に、男が腰を掛けている。橋板の上には茣蓙が敷かれ、湯呑みと酒徳利まで並んでいる。高みの上に、居を構えるつもりの騒ぎである。
「そこの婆さん、場所代がまだだな? 待たせた分まできっちり払ってもらうぞ」
免状剣士ドレク。扇子の先を河岸へ向けると、刀の切っ先から飛んだ斬撃が、白い一線となって川面を駆け、婆の露店の柱を薙ぐ。乾いた音とともに筵が裂け、干した魚が泥へ散った。
「昨日は筵だけだったのにね。……今日は、台ごと……酷い」
婆は唇を結び、泥まみれの魚を拾う。男は扇子を鳴らし、嗤っている。
「明日は倍だ。払えんなら、店を畳め。橋の上は免状持ちの場所、河岸は銭を払う者の場所だ。下から騒いでも、決まりを動かすのは上にいる俺だ。黙って従え」
扇子が、嘲るようにぱちりと閉じる。
「安心しな。この橋の上には、届くまい。犬の遠吠えも、噂の返し屋とやらもな。泥の中で拳を握って、負け犬同士で慰め合うのがお似合いだ」
人垣の後ろで、ハティが爪の食い込むほど拳を固く握り込む。
「師匠、あれです! オズウェル様の世間話! ……それと、これ!」
板切れが掲げられる。〈返し稽古処・川端出張所〉。サビナは板を取り上げ、素早くしまわせる。
「出しません」
サビナは川辺へ静かに降り、橋の上の男をまっすぐ見上げる。
「場所代を、お返し願います。この市の分、全部」
「誰かと思えば、噂の返し屋か。届くまい、そこからは。……銭を持って、橋を上がって来い。河岸で威張るだけなら、見物人と同じだ。足元まで来て頭を下げろ」
「上がる必要は、ございません」
「ならば――」
言葉より先に、空気が鋭く鳴った。川面をかすめた白い斬撃が、胸へ迫る。サビナは逃げず、胸で受けた。硬い衝撃が肌を打ち、息が喉で潰れる。三歩退がり、帯が半ばまで裂けた。三歩目の踵が、水際の石を噛む。背後から湿った冷気がせり上がる。あと半間で、川である。
「師匠!」
「大丈夫。……いい太刀です。よく、届く」
川幅の半分まで、ぎりぎりに届く遠当て。痺れる体の奥へ、技の流れが写った。だが、まだ濁っている。芯の形までは、澄んでいない。
「まだ上があるでしょう?」
「面白い女だ。気に入った。望み通り、見せてやる」
男が欄干の上に立ち上がる。刀身が朝日を弾き、その光が目を射た瞬間、十割の遠当てが唸りを上げ、欄干を割り、水面に傷を刻みながら迫って来る。水音が轟き、飛沫が頬を打ち、視界を光で埋めた――――。
しかしサビナは冷静に腰を落とし、木刀を斬撃の芯へ合わせて受け切る。重い衝撃が指から肘、肩へ駆け抜け、木刀が腕ごと軋み、指先の感覚が薄れてゆく。それでも、眩しさの奥にある技の芯が、今度こそ見えた。
効いている理由は、腕でも刃でもない。間合いそのもの――彼の技が届く縁は、川幅の半分で尽きている。いま立っている水際こそ、斬撃が力を保てる、ぎりぎりの縁である。
「届きは、半間です。あなたの外は、私の内」
「戯れ言を! その帯で済んだのは、手加減の内だぞ。次は胴ごと裂く」
帯の裂け目を手で押さえる。遅れて胸に浮いた恐れを、細く吐く息とともに鎮めた。構えは、崩さない。
「もう一度どうぞ。次は、私が上です」
言いながら、半間だけ、うしろへ退がる。踵が浅瀬に入り、冷たい水が踝を噛む。濡れた足元から冷気が体の芯へ広がる。ざわめいていた川風が、ふつりと止む。市場の気配まで息を潜め、サビナの耳には自分の鼓動だけが近く響く。
三度目の斬撃が、空気を引き裂いて飛ぶ。白い光が川面を舐め、鋭い音があとから追いすがる。
その刃風は、サビナの半間手前で揺らぎ、力を失う。木刀へ触れるより早くほどけ、川面を激しく叩いて、砕けた光と飛沫になって散る。衝撃の名残だけが頬を撫で、濡れた髪を後ろへ流した。
「くっ……小癪な……」
入れ替わりに――サビナは痺れの残る腕で木刀を走らせ、受けた剣筋を鏡に映すように返す。同じ白い一線が、裏返しに川面を駆けた。水のきらめきを鋭く切り分け、空気を高く鳴らし、白い残像を長く焼きつけながら、彼女の立つ場所から、橋の上の胸へ、迷いなく届く。
「嘘……師匠の、川越えです!」
ハティの声が裏返る。それを合図に、人垣から驚きの声が湧き、すぐ消えた。深い静けさが落ちる。橋の上で、男の体がくの字に折れた。扇子が指を離れ、水面へ落ちる。澄んだ音を残し、光の中を流れて行く。
「くっ……まさか届くとは……」
ドレクは欄干から橋板へと崩れ落ちる。そして、よろよろと立ち上がると、ゆっくりと河岸へ降りて来る。何か言いかけて口を開き――写った遠当てを見ていた市場じゅうの目に気づいて、閉じる。そして、サビナの前で、無言で刀を置く。公衆の面前で返し屋に返されては免状などもう認められない。
「いい技です」
サビナは刀を拾わず、痛みの残る腕を静かに下ろし、敬意だけを込めて一礼を返す。
「……ただ、的が悪かった。魚の干物は、斬っても誇りになりません」
◇
夕刻には、取り上げられた場所代が、河岸の店へ一軒ずつ戻されてゆく。銭の包みを受け取るたび、店の者は橋を見上げ、空の欄干を確かめてから、息を吐く。
「台、直りました! 次、あっちです!」
ハティが袖をまくり、弾む足取りで河岸を駆け回る。
「母ちゃん、市、開いてるよ! 魚の匂いも戻ったよ!」
子供の声が、戻った賑わいを縫って河岸を走る。柱の折れた露店の前で、婆が目尻を深く下げて笑う。
「五十年、この河岸で商いをしてるがね。橋の上から銭を取る男なんて初めて。あんたの腕と度胸には、年寄りもたまげたよ。……持ってお行き。取り返してもらった礼だよ」
婆が、干した魚を一匹、皺の寄った手で差し出す。サビナは両手で大切に受け取る。
「ありがとうございます。夕餉に頂きます」
「安くしとくよ、と言いたいけどね。今日は、只だよ。あんたには腹いっぱい食べてほしいね」
「では、明日から買いに参ります」
日暮れ前、夕市の灯が一つ、また一つとともり、川面まで明るく染めてゆく。売り声と笑い声の人垣から、青い外套が近づいて来る。後ろで部下が、地図を出しては引っ込め、視線を泳がせている。
「隊長、巡察路に、川端は……含まれておりませんが」
「通る。今日からだ」
部下を置いて、彼は人波を抜け、サビナの前まで来る。
「怪我は?」
「帯が一本、駄目になりました」
「帯だけで済んで……良かった」
「世間話のお礼を、まだ申し上げていませんでした」
「礼を言われる筋ではない。ただの、世間話だ。……無事なら、いい。サビナどの」
初めて、役職ではなく名で呼ばれる。彼は言ってから、自分の言葉に少し驚いた顔をして、巡察路へ戻って行く。
「いまの、聞きました! 師匠、いまの! ふふっ」
「いいから! 稽古に戻りますよ」
サビナはほほを赤らめ、足早に帰路についた。
◇
剣技院の奥の間。
「市も駄目、噂も駄目、力も駄目、か」
ゾルドは指先で文机を叩く。抑え込んだはずの震えが、その指にはまだ残っている。
「型があるから、写されるのだ。……なら、型の無い男を出せ」
◇
それから二日、道場筋は静かである。……静かすぎます、とハティが看板を拭いて言う。声は、息を潜めた通りへ吸い込まれていく。




