3. 十一
夕暮れの稽古処。西日が板壁を染め、看板の端に見慣れない文字が増えている。
――夜間も承ります。
「書いたのは誰ですか?」
「ハティです! 商機です!」
確かに夜間に稽古をつけてくれるところなどどこにもない。夜に子供を遊ばせておくよりかはと、ポツポツと子供を預けるところが出て来たのだ。
ハティは大喜び。
しかし、そんなある日、その「夜間」を狙うように十人組の辻斬りが出るようになった。
道場筋の親たちが次々と子を稽古から引かせた。
「うちの人が言うんです。夜道で十人に囲まれたら、剣なんて役に立たないって。すみません、私も怖くて。あの子に何かあったらと思うと……」
「六軒先の子も、七軒先の子も、もう来ません。これで七人目です!」
ハティは泣きべそをかく。
噂のあとには、必ず同じ男が来る。細い目をさらに細め、揉み手を絶やさない免状剣士ミロスである。
「夜警をお付けしましょう。ひと月、銀貨二枚。……物騒でしょう?」
「お断りします。うちは夜も、稽古をしていますので」
「おや。お断りになった道場の塀は、なぜか傷が増えるのですよ。夜風で石が飛ぶこともございます。お弟子さんに当たらぬとよいのですが。……不思議でしょう? くっくっく」
揉み手が乾いた音を鳴らす。細い目は看板を値踏みし、その奥のサビナへ滑った。
「あなたが、噂の返し屋さんですか。ふふ。なるほど、細腕ながら評判だけはずいぶんお高く売れておいでだ。……夜道にはお気をつけて。夜は、何が出るか分からないでしょう?」
「ハティが夜回りします!」
息巻いた娘の口へ、窓の外から飴がすぽんと突っ込まれる。
んむっ!?
「子供は夜、寝るもんさね」
◇
夜――――。
サビナは一人で道場筋を歩く。戸締りした通りに、屋台の灯だけが残る。冷えた石畳の気配が足裏へ上がる。角の婆が、もう一本の飴を差し出す。
「夜歩きはおよし。行くなら……角の路地が近道だけどね」
「では、角の路地から」
月明かりの路地に影が湧く。一つ、二つ――十。同じ背格好と構えの剣士が、路地の前後を塞ぐ。刃が、十、同じ角度で光り、冷気が肌を撫でる。
「今宵の舞台は逃げ場のない路地、観客は月だけでございます。ご覧のとおり、十人組でしょう?」
声はどこか一つから響き、太刀は十方から来る。風を裂く音が耳元で重なり、月光が視界を埋める。最初の一太刀が肩をかすめた。痛みが突き抜け、木刀を握る指が跳ねる。熱が滲み、脈に合わせて痛みが育つ。
「受けは、一対一の技です。十は、少々多い」
「でもこれが実戦です。どんなにウケが上手かろうとも……。答えは、じきに嫌でも身をもってお分かりになりますよ」
「ふぅ。……数えてみましょう」
「十人を相手に、木刀一本……。何ができる? 諦めなさい」
二の太刀、三の太刀を流すたび、木刀が刃を滑り、音を散らす。その隙に、彼女は乱れた息を整えて言う。
「全員で来たらどうです?」
「強がりを! もう、その膝も笑っているくせに!」
十体が、地を蹴り、同時に来る。前後の気配が逃げ道ごと押し潰す、十割である。
前後から降る十の太刀に、受けは二手も三手も遅れる。風切り音が耳を刺し、白い残像が視界を覆う。木刀で軌道を逸らすたび、衝突音が壁を駆け、痺れが腕へ噛みついた。躱し損ねた峰が二の腕を打つ。鈍い痛みに呼吸が詰まり、肩に痣が描かれた。肺は熱く、汗は冷たい。足裏が石畳を滑れば、それで終わる。受けは、一人を受け切る技である。十を受ける形など、二十年のどこにも無い。
それでも、足は退がらなかった。恐ろしくないわけではない。痛みのたび、敗北が胸で疼く。負け役の二十年は伊達ではない。勝てなくとも、折れずに立ち続ける。倒れない負け方なら、誰より知っている。
捌き、受け、痣を増やしながら――乱れる月光の奥に、ようやく見えた。
十の影は、等しく薄い。刃の重さも、踏み込みの気配も、見かけほど深くない。効いている理由は太刀筋ではなく、囲む数そのものである。
「数は、一体の差です。十には、十一」
路地の月が、翳る。雲が光を呑み、石壁も刃も闇へ沈む。雲が渡り切るまでの、短い暗がり。汗の冷たさだけが首筋を伝い、誰の息も聞こえない。
「もう一度どうぞ。次は、私が上です」
十体が、跳ぶ。
その一呼吸あと――雲の縁から月が戻る。白い光が路地を満たしたとき、サビナが、十一人いた。そう、これが彼女の受けのスキル、見抜いた先に顕現される一段上の返しなのだ。
月光の下、女の影が花のように開き、白い残像を空へ引く。木刀の軌跡は弧を描き、衣擦れと踏み込みの音が路地を震わせる。写した幻身が一体ずつ、十体の前に立ち塞がる。降る太刀を正面で受ける。硬い音が響き、刃に宿った月光が砕けて散る。その力を肩から腰へ流し、石畳を踏む足へ落とし、身体で返す。白い剣筋が敵の構えをほどく。余った一体が歩いて、声の出どころの喉元へ木刀を突きつける。
「あなたの数え損ねが、私です」
幻身が畳まれる。十の影がひと重なりに戻り、残った本体は男をにらむ。
張り詰めた静けさのなか、路地の入り口に、灯が増え始めている。
「馬鹿な……。くぅ……」
ミロスの口が悔しそうに開き――提灯と、十一人を見た衆の目を数え、力なく閉じる。
「いい策です」
サビナは突きつけた木刀を静かに引き、乱れた息を胸の奥へ収める。一礼して、続ける。
「……人を脅すためにでなければ、もっと良かった」
「十一人いたぞ。目の前で、本当に増えたんだ!」
「同じ顔だ。……いや、みんなあの人だ。そんな馬鹿な。影じゃない、どれも別々に動いていたぞ」
提灯の灯が、路地の入り口に集まっている。騒ぎを聞いた道場筋の衆が、十一人のサビナと、幻身の種を見ている。
揉み手の男はせしめてきた夜警料を担ぎ、提灯の輪をうつむいて通る。誰も道を塞がない。沈黙は罵声より重い。
辻斬りの正体は朝を待たず、道場筋を駆け巡った。
◇
翌朝。夜警料の銭袋が、取られた道場の戸口へ一つずつ戻される。朝日の中、戸を開けた者から安堵の声が上がる。看板の「夜間も承ります」の下には、礼の饅頭が一包み。道場筋に子供の声が戻る。
「もう安心です。今日から、また通わせます。……夜も、お願いできますか?」
子の手を引いた母親が、ほっと肩を緩め、深く頭を下げて行く。
「饅頭です! どなたからでしょう?」
「さあ。……甘いうちに、頂きましょう」
◇
剣技院の奥の間。
「噂ごと潰された、か」
ゾルドは窓の外、下町の方角を見下ろす。
「ならば飢えさせろ。市を締めろ」
◇
返り道。稽古処への角で、青い外套と行き合う。
「巡察路が、また道場筋を通っていますね」
「近道だ」
地図の上では遠回りである。それは、言わずにおく。
別れ際、青い外套の裾を風に揺らし、彼は一つだけ言い残す。
「川端の市で、場所代を取る男が出た。……これも、世間話だが」




