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2. 一寸


 朝の稽古処。開け放した戸から光が差し、舞う埃を金色に透かしている。板の間の隅では、ハティが身を乗り出し、帳面を広げている。


「月謝、出世払いの分。先日の入門で、しめて銀貨三十枚です!」


「まだ一手しか教えていませんよ」


「先物です!」


 ふいに、戸口の光が人の形に欠ける。そこに立つのは、巡察騎士の青い外套をまとった隊長、オズウェルだった。


「受け太刀どの。……世間話だが」


 そう前置きすると、彼は表情を崩さず、指を三本立てる。


「ひとつ、槍のジェド老の道場の門扉が割られている。ふたつ、月謝箱が『検分料』の名で消えた。みっつ――止めに入った爺様の腕が、折れている」


「巡察のお仕事では?」


「剣技院の絡む届けは、上で止まる。だからこれは届けではない。世間話だ」


 サビナは帳面から目を上げる。怒りが目の底で冷えた。迷いなく立ち上がる。


「伺います。世間話の続きを、見に」


       ◇


 ジェドの道場は、道場筋の奥にある。割られた門扉は、断ち口が白い。土間は薄暗く、木と汗の匂いが沈む。六十年ぶんの槍の突きが刻んだ床が、光を返す。その隅で、師範が腫れた腕を吊り、背を曲げずに座っている。


 居座るのは、熊を思わせる大男。免状剣士バロスである。壁際の梁へ大剣を振るい、半ばまで断った傷を見せつけながら、弟子の逃げ散った道場を我が物顔で眺め回している。


「軽いんだよ、下町の技は。看板も弟子の覚悟も、揃って羽みたいに軽い。軽いから、預かってやるのさ。俺の荷にすらならん」


「儂の道場は、儂の弟子のものだ。検分など、頼んだ覚えは無い。盗人の理屈で、弟子の汗を値踏みするな」


「爺さん、もう片方の腕も検分するか?」


 その声を断つように、サビナは土間へ足を踏み入れる。足音は小さい。それでも、バロスの視線がぴたりと止まった。


「お返し願います。月謝箱と、門扉の代金も」


「誰だ、お前?」


「受け太刀を、二十年」


 サビナは壁の架を見る。取り上げの荷に得物まで持って行かれた家の壁は、ここも半分空き、残った木刀だけが寂しげに並んでいる。


「壁の木刀を、お借りします」


 手に取って埃を払う。乾いた木肌は細く、頼りないほど軽い。稽古用の一本である。バロスは喉を鳴らして嗤い、大剣を肩へ担ぎ直した。


「受けてみな。潰れても知らんぞ。まあ、砕けたら埃とまとめて掃いてやるさ」


 袈裟の一撃が来る。踏み込みと同時に床が鳴り、分厚い刃が風を裂いて肩口へ走った。サビナは木刀を斜めに添え、受ける。硬い衝撃が掌から腕へ突き抜ける。その重みとともに、剣筋が胸の奥へ写る。だが、そこに浮かんだ軌道は泥を混ぜたように濁っている。


「この程度……ですか?」


「……言ったな? その減らず口、骨ごと叩き潰すぞ」


 大男の顔から、嗤いが剥がれ落ちる。大剣が頭上へ高く上がり、分厚い刃は天窓の光を呑んで黒く沈んだ。兜割り。石畳ごと人を割る、彼の免状の技である。振り下ろす前から圧が満ち、土間の空気まで重く軋む。


 落ちてくる刃へ、サビナは木刀を差し入れる。受け太刀で殺す――が、殺し切れない。激突の音が梁を震わせ、借り物の木刀はピシッと半ばまで裂けた。


 くぅっ……。


 両膝が土間の石へ沈み、腕の芯が焼けるように痺れる。指が勝手に開きかけ、裂けた木目の青い匂いが鼻先をかすめた――が、目だけは逸らさない。


 それでも、見えた。重さの正体は、腕力ではない。振り上げの、高さである。高く掲げたぶんだけ、落ちる刃へ勢いが乗る。


「重さは、高さです。一寸だけ、上から」


「潰れる寸前に、講釈か? まだ俺の刃は止まっちゃいねえぞ」


 バロスの口元に、嗤いはもう戻らない。裂けた木刀の先から、木屑がひとひら離れる。頼りなく揺れ、それが土間へ着くまでのあいだ、道場から音が消えた。ジェドも息を潜め、天窓の光の中を落ちる木屑だけを見ている。


 サビナは壁から新たな木刀を手に取った。


「もう一度どうぞ。次は、私が上です」


「ふん! 今度こそ!」


 三度目の兜割りが、頭上から来る。バロスの足が土間を強く踏み、空気が腹へ響くほど鳴った。大剣は天窓の光を縦に断ち、黒い残像を引いて落ちてくる。速い。逃げ道を塞ぐ気配が、肌を押すほど迫った。


 サビナは木刀を、彼の振りより一寸だけ高く上げる。痺れの残る指を締め、足裏で石の冷たさを捉えた。肩から余分な力を抜くと、胸の奥に写した剣筋へ木刀が静かに重なる。


 峰の上に、峰が重なる。硬い音が弾け、刃と木刀の間で天窓の光が砕けた。サビナの髪と袖が衝撃に震え、ぶつかった力が背を抜けて足元へ流れていく。


 高さの差は、そのまま剣速の差になる。受け止めた衝撃を、サビナは剣筋に沿わせて上から返す。木刀の残像が大剣を覆い、刃は軌道ごと押し込まれた。石畳が腹に響く音を上げて割れ、大剣は切っ先まで深く埋まる。土間には、割れ石の粉が白く舞った。


 バロスが息を呑み、柄を引く。筋の盛り上がった腕に力を込めても、動かない。二度引いて、荒い息だけを漏らし、それきり動かなくなる。


「ほぅ、これは……。六十年、槍を突いてきたがな。……あの重さを、たった一寸で沈めおったわ」


 隅で老師範が、驚きに掠れた声を落とす。吊った腕を抱えたまま、目だけは少年のように輝いていた。


「くぅ……。軽いな、俺の剣は」


 誰にともなく呟いた声は、しんとした道場へ沈む。大男はしばらく埋まった刃を見つめ、それから唇を固く結び、無言で柄から手を離した。太い指がほどけたあとにも、静けさだけが残る。


「いい技です」


 サビナは木刀を下ろし、相手の痛みに触れるような静けさで一礼して、続ける。


「振り始めが、綺麗でした。……そこは、直りますよ」


 サビナは土間の月謝箱を抱え上げる。去りかけた大男の背へ、責めるでもなく問いを投げた。


「訴えますか? 『俺だけの技』を盗られた、と」


 バロスは返す言葉を呑み込む。呑み込んだまま、腰の胴巻(どうまき)から銭の包みを一つ取り出し、割れた門扉の敷居へ置いた。それきり振り返らず、重い足取りで出て行く。


       ◇


 夕方。西日が床の艶を金色に起こしている。月謝箱はジェドの膝へ戻り、割れた門扉には仮の板が渡された。逃げ散った弟子が一人、また一人と、うつむきながら門をくぐる。


「師範、すみませんでした。……逃げました、おれ。師範まで置き去りにしちまった」


「戻ったなら、よい」


 老師範はそれだけ言い、それからサビナへ向き直る。


「受け太刀どの。いや――師範どの。礼を言う。儂の弟子まで、ここへ戻してくれた」


「師範は、あなたです。私はまだ、看板だけ」


「なら、その看板に頼みがある。儂の突きを、受けてくれんか」


「六十年の突きです。並の受けでは、腕が保ちませんよ」


「保たせるのが、受けです」


 老師範は吊った腕をいたわりながら、顎で壁を指す。


「樫(かし)の一振りを持って行け。このくらいしか渡せるものがない。……六十年で初めて、受けてほしい相手ができたな。ほっほっほ」


 帰り道の角に、飴の屋台が出ている。白髪の婆が、琥珀色の飴を舐めながら言う。


「ジェドの槍は嫌いだね。六十年、突きが一寸も曲がらないのがさ」


「お詳しいのですね」


「あたしゃ飴を売ってるだけさね。……嫌いなものほど、よく覚えるもんだろ」


       ◇


 剣技院の奥の間。閉じた戸の向こうまで、冷えた沈黙が染み出している。


「バロスが負けた、だと」


 ゾルドは報告の紙を握り潰す。乾いた音が、狭い部屋に響いた。


「このたびの敗北を受けまして、免状は、いかがなさいます」


「取り上げるな。……取り上げれば、負けを認めることになる」


「は。では、次を」


「力で駄目なら、搦め手だ」


       ◇


 夜。新しい噂が人の口から口へ、薄い毒のように流れ始める。


 ――十人組の辻斬りが、出るらしい。

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