1. 受け納め
朝の稽古場に、木刀の乾いた音が響き続けている。
高窓から射す光が、砂に格子を描く。踏み込むたび、砂が鳴る。二十年、変わらない朝である。
「お願いします、もう一本!」
「はい。……肘が、上がっていますよ」
「次こそ一本、取りますからね。受け太刀どの」
免状剣士の袈裟懸けを、くくった亜麻色の髪を流しながらサビナは半歩で受ける。木刀が触れ、太刀筋が足裏へ流れる――受けた技は体に写る。熱のうちに、一つ崩して返す。相手は直し所を見る。
受けて、写して、返す。それが受け太刀の仕事である。
王立剣技院の片隅で、二十年。勝ち星は一つも無い。負けることこそ仕事だからである。
「どけどけぃ!」「待ってくださいぃ!」
廊下が、朝から騒がしい。運び出される荷に、型書の巻物が積まれ、束ねた木刀まで載っている。
「それ、うちの型書です! 返してください!」
栗色のおさげの娘が荷に縋り、男に突き飛ばされる。
「これは預かる! 娘、届けの無い技は預かると決まった。院の定めに口を挟むな。逆らえば処分が重くなるぞ」
誰も足を止めない。今朝からこの院では院主が替わり、規則も変わってしまったのだ。
◇
「一同、集合!!」
雷のような上座の声が、稽古場を渡る。
「これより技は王の免状の下に集める。届けの無い技は、野良の技だ」
新しい院主、剣聖ゾルド。国にただ一人、剣聖の号を持つ男である。
訓示の締めに、院主が一手を披露する。相手は、格式どおり、受け太刀である。
サビナは砂を踏んで進み出て、呼吸を整え、一礼する。
抜き打ちは、噂より速かった。〈燕落とし〉。鞘走りの鋭い音とともに、黒い翼が一度だけ視界を翻る。刃が朝の光をさらい、残像を空に刻む。燕が落ちるのを、人の目は追えない。
灰青の目を逸らさず、身に受ける。衝撃が腕の骨を震わせ、黒い軌跡がまぶた裏へ焼きつく。作法どおり、一つ崩し、写して返す。
返しの風が頬を撫で、稽古場が、静まり返る。
ゾルドの目が、返しの軌跡から動かない。太刀筋は崩れている。だが、どこを崩せば燕落としが燕落としでなくなるかを、寸分違わず知る返しだ。よその技は流派の型で、作った本人は前に立たない。この技だけは、本人が目の前にいる。
「おい! その技は俺だけのものだ。受けの女が、写すんじゃない」
「作法どおりに、お返ししたまでです」
「受け太刀は本日限りで廃する。出て行け」
ざわめきが走る。二十年の貢献への言葉は、それで全部である。
指先が、一度だけ冷える。だが、息ひとつで温め直す。心が揺れたままでは、受けられない。
サビナは胸を鎮め、もう一度深く礼をする。
「承知しました。……受け納めに、本気の一手を頂けますか?」
「何だと?」
「賭けを一つ。写した私が一本取れたら、あの娘の型書をお返しください」
筆頭高弟のテオンが、険しく眉をひそめて進み出る。
「院主、お相手になることはございません。自ら受けの挑発に乗れば、院主の格を下げることになります」
「いや――見せしめだ。受けの分際というものを、皆に教えてやる」
ゾルドは剣の柄に手を置き、値踏みするように、初めてサビナをまっすぐ見る。
「受けの女! その賭け、受けてやる!」
見せしめのつもりの、軽い抜き打ちが来る。受ける。写しは取れる。だが、濁っている。出し惜しみの技は、効いている理由が見えない。
ふぅ……。
彼女は大きく息をつくと静かに言う。
「本気をお願いしたのですが?」
剣聖の眉が、怒りを弾くように跳ねる。
「言わせておけば……」
「全部見せてからにしてください。でないと、負けたとき、言い訳が残ります」
殺気が変わる。冷たさに、稽古場じゅうが同じ息になる。砂を踏む音さえ絶える。
「後悔して死ね!」
十割の燕落とし――――。
黒い一線が朝の光を断ち、空気を鋭く裂く。踏み込みが白い砂を爆ぜさせ、音は一拍遅れて背を打つ。
サビナは木刀を差し入れて受けるが、腕から肩へ衝撃が駆け抜け、受け太刀ごと押し込まれる。
くっ……。
頬に一筋、焼けつく熱が走り、血の匂いがひらく。
「ひぃ! いまの、首の太刀です!」
廊下で娘が、喉を裂くような悲鳴を上げる。
「……はい。いい太刀です」
頬を裂かれて、こぼれる言葉がそれである。稽古場の誰かが、ひきつった息を漏らす。
そっと灰青の瞳を閉じて――見えた。
速さの正体は剣ではない。残像の下で間合いを喰う、あの半歩の踏み込みだ。衝撃も頬の熱も、体へ沈む。二十年ぶんの受けの底で、写しが形を結ぶ。怖さの奥に、喜びが灯る。あとは、半歩。
「速さは、足です。半歩だけ、内へ」
頬の血は拭わない。痛みを奥へ沈め、構えを直し、切っ先を沈める。それだけで重心が移り、体の燕が羽を畳んだ。
「もう一度どうぞ。次は、私が上です」
「こしゃくな!!」
渾身の三の太刀が来る。ゾルドの足が砂を爆ぜさせ、黒い刃が光ごと迫る。
サビナは刃を木刀で受ける。重みを足裏へ流し、軌跡を写して返す――。
「「燕落とし!」」
次の瞬間二人から黒い翼が二つ、同じ空を落ち――剣と木刀が高く鳴り、朝の光が視界の端で弾ける。半歩だけ内側の一羽が、細い残像を引いて先に地を打つ。
乾いた音が、一つ、天井へ抜ける。それきり、稽古場から音が消えた。砂だけが、光の中をゆっくり沈む。
くぁっ!
サビナの木刀は、剣聖の喉元で止まっている。彼の剣はまだ振り下ろしの途中だ。
「一本いただきました……」
腕には痺れが残り、頬の血が白い砂へ滲む。汗が顎を伝い、砂へ落ちる音まで聞こえそうな静けさである。
「……いまのは、目で追えなかったぞ。気づけば、もう喉元に木刀があった」
「同じ技だ。同じ燕落としが……先に、着いた。こんなことがあるものか。剣聖の刃より、木刀のほうが速かった」
「受け太刀どのが……剣聖に、一本。ずっと負け続けてきたあの人が、剣聖を正面から退けたぞ」
免状剣士たちの驚きのささやきが、壁際を走る。
「いまの、いまの! 何したんですかっ!? 速すぎて、ぜんぜん見えなかったです!」
娘は叫ぶ。サビナは構えたまま息を整え、答える。
「受けた技は、写ります」
「写る……?」
「写った技は、一段だけ上で返せます。……一段だけ、ですが」
沈黙のあと、剣尖が静かに下がる。剣聖は険しい表情で何も言わない。その喉だけが、一度だけ、こわばって上下する。
サビナは木刀を引き、痺れる腕を悟らせず、深く一礼する。
「いい技です」
技を写して一段は上げられるが二段上は無い。
それでも、届くべきところへ届くなら、一段で足りる。
型書が一巻、投げて寄越された。
それを拾い上げ、退がる。稽古場の衆は目を伏せ、誰も目を合わせない。ただ一人――巡察に来ていた青い外套の騎士が立ち上がり、サビナへ一礼する。
オズウェル隊長。サビナは二十年、彼の守護剣技〈壁〉を誰より受けてきた。頭を下げられたのは、二十年で初めてだ。その礼が、胸の奥へ沁みた。
◇
夕暮れの下町、道場筋。西日が土壁を染め、夕餉の煙が路地を渡る。閉じた道場の戸口で、娘が型書を胸へ抱いている。
「ハティです! 師匠! 弟子にしてください! 月謝は出世払いです!」
「では、帳面にお付けなさい。利子は取りません」
「付けました! それと、最後のあれ、燕落としでした!」
「ええ。お借りしました」
娘の目が丸くなる。
「師匠って、呼んでいいですか?」
「……もう、呼んでいますよ」
「師匠、ハティにも写せますか?」
「写しは、私の癖です。あなたは、あなたの受けを育てましょう」
サビナは、埃をかぶった板の間を見回す。古い木の匂いがする。
「私の技は、ぜんぶ借り物です。受けて、写して――お返しするだけ。だから」
板切れに、墨で〈返し稽古処〉と丁寧に書く。ハティが端へ「王都一」と勢いよく書き足そうとして、消される。
「王都一、駄目ですか?」
「大きすぎます。……看板は、届く約束だけにするものです」
◇
剣技院の奥の間。重い沈黙の中、ゾルドは、テオンだけを残している。
「今日の一手は無かった。受け太刀の記録は全部焼け」
「は。……あの女は」
「捨て置け。野良に落ちた技など、誰も見ん」
「は。……ですが、皆が見ておりました。すでに院内では、あの勝負の噂が広まっております」
「見た物が焼けるなら、それも焼いておるわ」
命じた指が、裏切るように細かく震えている。それに気づいた剣聖は、爪が食い込むほど拳を握り込む。
◇
夜の板の間。行灯の火が揺れ、看板を照らす。剣技院の稽古刀は架へ返し、得物は無い。それでも体には、二十年ぶんの技が眠る。今日、その一番奥に、黒い燕が一羽増えた。
サビナは、目を輝かせる真新しい弟子に向き直る。
「では、稽古を始めましょう。一手目は――受けから」




