5. 型無し
二日おいた夜の帰り道、頭上の細い月が町の影を深くしていた。
路地へ入って三歩目、気配が弾ける。名乗りも構えも無い。闇を破って、拳がいきなり顔へ来る。
くぁっ!
一発目は完全には避け切れず、唇にもらう。肉を打つ鈍い音が耳の奥へ残り、切れた唇の内側から、熱い鉄の味がじわりと広がる。
月明かりを塞ぐほどの大男である。喧嘩屋のバング。夜道で門人を待ち伏せ、「腕試し」と称して打ち倒し、得物を持ち帰る男だ。背には長物の大束を負い、奪われた木刀の柄が何本も覗いている。
「型なんぞ知らねえ。避けられるかな、姐さん。礼だの合図だの待たねえぞ。路地じゃ最後まで立ってた奴が勝ちなんだよ」
「その束の得物は、道場筋の子たちのものですね」
「強え奴の得物は、いい銭になる。道場の看板が付いてりゃ、欲しがる奴が値を吊り上げる。姐さんの木刀も貰ってくぜ。傷が増える前に寄越しな」
二発目は頬に、三発目は肩にもらう。受けても、写しても、返す形が結ばれない。型が無い――そう思ううちは、理由も見えない。
だが、続く一撃を受け太刀で流したとき、木刀を伝う震えの中で、絡んでいた違和感がほどける。
細い月の下、男の白い息が上がる。出鱈目な拳の底に、崩れない同じ息がある。吸って、半瞬止めて、吐く前に打つ。肩より早く、呼吸が攻めを告げていた。教えを受けず生き延びた、身体に刻まれた呼吸である。
「あなたのそれは、型無しではありません。立派な型です」
拳が、初めて半瞬、止まる。
「……何だと? 俺の拳に名を付けやがるとはな……」
「習った型ではなく、生き延びた型です。だから、誰にも写せなかった」
男の目に、火が点く。銀貨で雇われた仕事の顔が、剥がれる。
「舐めるなよ。……俺の全部で行くぞ。この拳で立ってきた。俺が偽物じゃねえと、その身に焼きつけてやる」
十割の拳が、踏み込みを追い越し、風を鳴らす。巨体が闇にぶれ、月の光が拳の残像に裂ける。
受け太刀で殺す。触れた瞬間、木刀が悲鳴を上げ、重い震えが腕の骨を突き抜ける。殺し切れない。拳は木刀ごとサビナを押し込み、背中が路地の壁を滑る。息が押し潰され、膝が落ちかけた。芯まで響く、十割である。指先が痺れ、構えが軋む。それでも木刀は離さない。口の傷が開き、鉄の味が濃くなる。
それでも――痛みと痺れの向こうに、息の頭だけは、夜の中へ刻まれたようにはっきりと見えた。
「息です。半息だけ、先に」
唇の血を袖で押さえる。傷が熱を持つ。構えは解かない。肩から指までの痺れを、息で身体の奥へ沈める。細い月の下、二人ぶんの白い息が闇へ上り、ほどける。
「もう一度どうぞ。次は、私が上です」
男が、吸う。
ふんんんっ!
その白い息の頭に――半息だけ先に、サビナの肩が沈む。腰からほどけた力が腕へ走り、踏み込みの音を置き去りにして、同じ拳が着く――――。
遅れて風が弾け、輪郭だけが月光の下で淡くぶれた。
速さに荒さはなく、剣筋を思わせる澄んだ残像が、暗い路地へ細く焼きつく。写した喧嘩の型が、持ち主より先に、息を打つ。
一発である。路地から音が消え、間が落ちる。
ぐ、ぐはっ……。
バングは目を見開いて壁へよろめき、背を預け、座り込む。
「見たか、いまの……この目で見たのに、拳がまるで見えなかったぞ」
「一発だ。あの喧嘩屋が、一発で止められた。信じられねえ。あんな細い腕で、振りかぶったようにも見えなかったのに」
路地の入り口の者たちの声が、息ごと折り重なる。静けさは破れ、ざわめきが壁の間を駆け抜ける。
男は口を開きかけ、路地の先から近づいて来る提灯の灯を見て、閉じる。それから、笑う。
「……俺の型、か」
呟いて、男は無言で拳をほどく。意地も指とともにゆるむ。その手で背の大束を降ろし、サビナの足元へ置く。
「いい技です」
サビナは痛みを隠し、技への敬意を込めて一礼する。提灯の灯と足音が、狭い路地へ流れ込む。
「なぜ、受けたりするんだ!」
先頭の青い外套が、切れた唇を見て、初めて声を荒らげる。
「師匠! そんな無茶をして、平気な顔をしないでください!」
「受けなければ、写せませんので」
「あなたという人は……」
オズウェルは言葉を切り、懐から薬の包みを出し、押し付けるように渡す。
「受け取れない、と言うのだろう。なら、対価だ。僕に、稽古を一手」
検分が始まる。オズウェルが大束を解いて検める。白木の柄が、提灯の灯に一本ずつ照らされ、路地に光を返す。
「夜討ちの届けが、道場筋から九件。……全部、この束のものと合う。被害の場所も時刻も、届けの記述のとおりだ。偶然ではない。腕試しで済む数ではない」
男は縄を受け、俯いたまま、一度だけサビナを振り返る。その目にはもう、火は無い。大束から木刀がこぼれ、乾いた音で転がる。懐から銀貨がこぼれ、提灯の灯を返した。
「雇い主調べの、証拠だ」
人垣の後ろで、飴の屋台の婆が、騒ぎの中を売り歩いている。
「喧嘩見物に飴は要るだろ。一本、銅貨一枚だよ」
婆は縄を受ける男を横目に、飴をひと舐めする。
「いい拳だったのにねえ。……惜しい使い方をするもんさね」
婆の前で、オズウェルが足を揃え、背筋を伸ばして騎士の礼を取る。
「検分の証人として、名を記録に立てる。――先代剣聖どの」
路地が静まり返る。声も木刀の音も消える。ハティの口から、飴が落ちかける。
婆――ロモラは、視線を受け流す。飴の棒を回し、口元のしわを深くして笑う。
「あたしはもう、からっぽさ」
◇
剣技院の奥の間。
「型の無い男なら、写されまい。……そう言ったのは、俺だ」
ゾルドは文机の報告を読み、雇いの銀貨が巡察へ渡ったという一行へ目を戻す。紙を押す指が震える。抑えるほど、深くなる。
「型の無い男など、いなかったわけだ。……見せしめが要る。法の形をした、な」
◇
翌朝、稽古処の門前に、取り返した得物が並ぶ。朝日を受け、白木の柄が一列に光り、持ち主を待つ。
「木刀が九本、槍が二本、傘が一本! ……傘って何ですか? 師匠」
「聞かないでおきましょう」
「あ、傘の持ち主、来ました! 隣町の傘張り職人さんだそうです! 門の前で手を振っておられます!」
「……本当に居たんですね」
名を呼ばれた門人たちが、一本ずつ受け取る。ためらいがちに握り直す手が、それぞれの構えに収まる。悔しさと喜びが指ににじむ。ハティが帳面へ「取り返し賃」と書こうとして、消される。
帰り際、飴屋の婆が戸口で、振り向きもせず言い残す。
「次は、縄だろうさね」
「占いですか?」
「あたしゃ飴を売ってるだけさね」




