19
古びたアパートの前。
誰も口を開こうとしなかった。
和葉は頬を押さえたまま、まだ頬の痛みに顔をしかめている。
田口は、部屋の中で起きた出来事を理解できずにいた。
数分後。
アパートの扉が静かに開くと、朝日零が一人で姿を現した。
朝日は扉に鍵を掛けると、ゆっくりと三人のもとへ歩いてくる。
その表情は相変わらず穏やかだったが、先ほどまでの柔らかな笑みは消えていた。
「彼は?もう、襲ってきたりしませんよね?」
鈴木が零に尋ねる。
「ええ」
零は短く答えた。
「心配はいりません」
そして三人を見渡し、落ち着いた口調で続ける。
「鈴木さん。彼女を病院までお願いします」
鈴木はすぐにうなずいた。
「わかりました」
零は今度は田口へ視線を向ける。
「田口さん。あなたに話さなければならないことがあります」
一拍置き、静かに言った。
「僕と一緒に来てください」
田口は思わず和葉を見る。
「……しかし、和葉が」
零は小さく首を横へ振った。
「命に別状はありません。今は、あなたに知ってもらわなければならないことがあります」
その言葉には、不思議な説得力があった。
田口は迷った末、小さく息を吐く。
「……わかった」
鈴木がすぐに口を開く。
「田口さん。彼女のことは僕に任せてください。必ず病院へ連れて行きます」
田口は鈴木を見つめ、小さくうなずいた。
「ああ。頼む」
鈴木は和葉を支えながら田口の車へ乗せる。
和葉は不安そうな表情で田口を見た。
「田口さん……、田口さんは何も悪くないよ、だから自分を責めないで…」
田口が俯きながら
「いや、俺がもっと考えて行動していれば…、すまない…和葉」
そう言ってドアを閉める。
鈴木は軽く会釈すると、車を発進させる。
車は住宅街の角を曲がり、ゆっくりと見えなくなった。
その様子を見届けると、零が静かに歩き出す。
「こちらです」
アパートの近くに停められていた黒いセダンの前で立ち止まり、助手席のドアを開けた。
田口は無言のまま乗り込む。
零も運転席へ座り、静かにエンジンを始動させた。
車内にはラジオも音楽も流れていない。
聞こえるのはエンジン音だけだった。
近隣住民であろう人達がちらほらと姿を見せ始め、田口達へ視線を向けた。
零は「少し移動します」と車を発進させる。
田口は何度か口を開こうとしたが、零は前だけを見つめ、一言も話さない。
やがて車は街中を抜け、高層マンションの地下駐車場へ入っていく。
ゆっくりと車を停めると、零はエンジンを切った。
地下駐車場は静まり返り、人気はない。
コンクリートの柱が等間隔に並び、蛍光灯の白い光だけが二人を照らしていた。
零はハンドルから手を離し、静かに田口のほうを向く。
「ここなら、誰にも聞かれません」
そう告げると、ゆっくりと息をついた。
「田口さん。これから、あなたにすべてを話します」




