EP 3
路地裏の小料理屋『鬼龍』
「腹が……減ったでござる……」
ポポロ村の路地裏。
ポイントをニャングルに全額没収(合法)され、所持ポイント『3 pt』となった良樹は、壁に手をつきながらフラフラと歩いていた。
午前中のドブ掃除で稼いだ微々たるポイントは、広場で暴れる「天使と人魚のキャットファイト」を止めるための仲裁用ロープ代に消えてしまった。
サスガ屋の店主たるもの、空腹で倒れるわけにはいかないが、今の彼には牛丼一杯すら召喚する力がない。
「うぅ……村長殿におにぎりを恵んでもらうのも、男のプライドが許さないでござる。どこかに、タダで試食させてくれる店は……ん?」
ふと、良樹は足を止めた。
路地裏のどん詰まり。そこには、昨日までは間違いなく存在しなかった、真新しい一軒の店が建っていた。
黒を基調とした、シックで和風な店構え。
軒先には、藍色の暖簾が静かに揺れており、そこには白抜きで『鬼龍』と達筆な字が染め抜かれている。
「こ、小料理屋でござるか? こんな辺境の村の路地裏に……?」
良樹は、何かに引き寄せられるように暖簾をくぐり、引き戸をカラリと開けた。
――その瞬間、空気が変わった。
「…………」
店内には、外界の喧騒(主にリーザの奇声)を完全に遮断するような、重く、しかし心地よい静寂が満ちていた。
どこからともなく流れてくるのは、J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番』。深く、静謐な弦の響きが、店内の空気をピンと張り詰めている。
そして、カウンターの奥。
そこには、黒い服の上に赤のレザージャケットを羽織った、身長190cmを超える巨漢の男が立っていた。
「……ひっ」
良樹は思わず息を呑み、半歩後ずさった。
ただの料理人ではない。男の全身から立ち昇るオーラは、これまで出会ったどんな騎士や魔獣よりも、圧倒的に『死』の匂いに満ちていた。
静かで、冷たく、それでいて奥底に燃え盛るような狂気を秘めた眼差し。
(な、なんでござるかこのマスターは!? 絶対にカタギじゃないでござる! 料理人というより、凄腕の暗殺者かヒットマンにしか見えないでござるよ!!)
滝のような冷や汗を流す良樹。
しかし、巨漢のマスター――鬼神 龍魔呂は、良樹を一瞥しただけで、無言のまま手元の作業に戻った。
シャッ……シャッ……。
龍魔呂の右手に握られているのは、日本刀のように美しく波打つ波紋を持つ、最高級本焼きの『柳刃包丁(330mm)』。
まな板の上にはポポロ村名産の「月見大根」が置かれている。
龍魔呂の指先がわずかに動くたび、大根は向こうが透けて見えるほど薄く、そして途切れることなく、永遠のように『桂剥き』されていく。
(は、速い……! いや、速いというより、無駄が一切ない! 包丁と腕が完全に一体化しているでござる!)
良樹は、その神業に見惚れ、恐怖を忘れてカウンターの席に座り込んでいた。
シャァン。
龍魔呂が包丁をカスタム・レザーのナイフロールに収めると、彼は真鍮製のオイルライターを取り出し、「カチッ」と小気味よい音を立ててマルボロの赤に火をつけた。
深く紫煙を吐き出し、ようやく口を開く。
「……何にする」
低く、地鳴りのような声。
良樹はビクッと肩を震わせた。
「あ、あの……実は拙者、今、財布が空っぽでして……。その、一番安いものを……いや、水だけでも……!」
情けなく弁明する良樹。
龍魔呂はふっと目を伏せると、無言でタバコを灰皿に置き、コンロに火を入れた。
ジュワァァァァッ……!
卵を溶き、出汁を合わせ、熱した卵焼き器に流し込む。
その動作にも、一切の淀みがない。武術の『型』を見ているかのような、完璧な軌道。
ものの数十秒で、黄金色に輝く『出汁巻き卵』が焼き上がり、良樹の前の皿にことん、と置かれた。
湯気と共に、極上のカツオ出汁と、焦げた醤油の香ばしい匂いが立ち昇る。
「……食え。金は、ある時に払えばいい」
龍魔呂はそれだけ言うと、再びタバコを咥えた。
「い、いただきますでござる!」
良樹は震える手で箸を割り、黄金の塊を口に放り込んだ。
「――――ッ!!」
良樹の目が限界まで見開かれた。
噛む必要すらない。フワフワの卵が口の中でほどけた瞬間、閉じ込められていた濃厚な出汁の旨味が、滝のように溢れ出して脳髄を直撃した。
甘すぎず、しょっぱすぎず、完璧な調和。
それは、良樹がこれまで召喚してきたどんなジャンクな牛丼よりも、深く、優しく、そして力強い味がした。
「う、う、うまいぃぃぃ……っ!! なんでござるかこれは! 出汁巻き卵の概念が覆るでござるよ!」
良樹は涙を流しながら、あっという間に皿を空にした。
(――サマセット・モームは著書『月と六ペンス』において、芸術家が内なる狂気に憑りつかれ、ただ美(完成)のみを追求する姿を描いたが……)
良樹の背後、店の外からこっそり中を覗き込んでいたロード(始祖竜)は、龍魔呂の背中を見つめながら心の中で呟いた。
(この男の包丁捌きと佇まい……。料理という名の『殺人術』を極めた者の領域だな。あの殺気、間違いなく幾千の命を刈り取ってきた『本物』だ。……やれやれ、この村は本当に、厄介なバグ(化け物)ばかりを引き寄せる)
最強の哲学竜でさえ、その異常性を認める『最強の漢』の参入。
腹を満たし、恐怖と感動でガクガクと震える良樹は、深く一礼をして店を飛び出した。
「ご馳走様でござる! 必ず、必ず出世払いするでござるよぉぉ!」
路地裏の小料理屋『鬼龍』。
そこは、ポポロ村の騒がしい日常から切り離された、孤高にして極限のハードボイルド空間であった。




