第4話
「あら。亮介、まだ帰ってきてないのね」
「ええ。6時には帰れっていっておいたんだけど、聞きゃしないわ」
「誰か気の合う友達でも見つけてはしゃいでるのよ。子供にはよくあることだわ」
「あの子にそんな子供らしい一面があるなら、ぜひ見てみたいわ」
「あなたも相変わらずな子ねえ……」
微苦笑を浮かべながら、壁に掛けてある時計に目をやった。針は6時半を差している。
ここで、時間は、ふたりが初めて顔を合わせた日、飯塚真也が篠原玲の「お目々うるうるお願い攻撃」に白旗上げて無条件降伏した頃より、1時間ほど遡る。
早川麻由子は、帰ってこない我が子を心配する素振りも見せず、週刊誌を捲っていた。姉である大垣麻矢子は肩を竦めた。お互い結婚して姓が変わってしまったが、仲はよい。
「でも、そろそろ帰ってきてほしいわ。一度に揚げてしまいたいもの」
夕食はコロッケだ。惣菜屋の作り売りしているものではなく、麻矢子のお手製で、大垣家では人気メニューのひとつである。ただ、食べ盛りの男子のいる家の5人分ともなると個数が半端ない。
「ごめんね。急に来ちゃって」
「そう思うのなら手伝いなさいよ」
「私、亮介、捜しに行こうかな」
パタンと週刊誌を閉じてあたふたと立ち上がる妹を見て、姉はクスクスと笑った。
「よくそれで主婦が務まるわね」
「家族の諦めがいいので」
「まあ、いいわ。お皿くらい並べられるでしょ」
「はあい」
現在、麻由子たちは関西に住居を構えている。だが、ひとり息子が小学校5年生になるこの春、父親に東北への異動辞令が出たのだ。今までは、家族全員で転勤先へ移っていたのだが、中学、高校と進学のことを考えたとき、このままでよいのだろうかと思ったのである。
転勤生活が、いずれやってくる子供の受験に影響を与えないといい切れるだろうか。
そこで、ふと、思い出したのが、麻矢子の息子ふたりが通う寮のある桜華台学園であった。高校までのエスカレーター式であるし、従兄がいる学園であれば、親として安心感も違う。長い休みになると、必ずといっていいほど遊びに来ているため、地理にも明るい。
夫婦には名案だと思えたのだが、しかし、当の本人はあまり乗り気ではないようだった。
転校を繰り返しているせいか、彼には、妙に冷めたところがあって、人と深くつき合おうとしない。母親が子供らしくないと称するのは、それなりの根拠があってのことなのだ。
どうせ別れるのだから無理して親しくする必要はないだの、同級生の子供っぽい遊びにはつき合っていられないだのと御託を並べる。学校だけでも我慢できないのに、寮になど入って朝から晩までそんな生活を送るなど耐えられない、というのだ。自分だって年端のいかない子供のくせにたいそうな言い草である。
入寮の手続きはとうに締め切られていた。本来なら、到底できないものを、姉の夫に頼み込んだのである。麻矢子の夫は、桜華台学園の理事長の次男だった。ちなみに、長男が学園長を務めている。
自宅からバスで30分ほどの場所にあるにも関わらず、彼の息子が入寮しているのはこのためで、理事長は己の孫を監視役として在籍させているのだ。教師たちが把握できないことでも、生徒間では伝わることも多い。だから、ふたりが理事長の孫であるという事実は一部を除いて隠されている。
従兄たちの顔を見れば、少しはその気になってくれるかもしれないと、引っ越し準備の忙しい中、わざわざ連れてきてはみたものの、顔を見せる間もなく鉄砲玉のごとく飛び出していったきり帰ってこない、というのが現在の状況である。
時計の針が45分を示したとき、玄関の扉が開いて、元気な声が聞こえてきた。
「帰ったでえ」
「お帰りなさい。すぐ、御飯よ。手、洗ってらっしゃい」
「麻矢子さんの作るもんは旨いから、ここ来んの楽しみなんや。自分、ホンマに麻矢子さんの妹なんか?」
決められた時間通りに帰ってこなかったことを自省するでもなく、憎まれ口を叩く息子の頭を週刊誌で殴る。
「痛いやないか。何すんねんな」
「麻由子、およしなさい」
「だって、この子、いつだってこんな調子で人のことバカにしてるのよ。ひとりで関西弁喋るし、生意気なのよ」
亮介は、殴られてずれた野球帽を脱ぎ、頭を振った。
「関西で育った人間が関西弁使うて何で文句いわれなあかんねん。何年も関西に住んどって、馴染まれへんそっちの方がおかしいやん」
「一体誰に似たのよ。可愛げのない子」
「自分の育て方が間違っとったって認めたくないんは分かるけど、責任転嫁はようないな」
「あんたなんか育てた覚えないわよ。ひとりで勝手に大きくなったんじゃないのッ」
ふたりのやりとりに呆れて、麻矢子は深く溜息をついた。亮介の肩を抱いてダイニングへと促す。適当なところで止めておかないと、ヒートアップする一方である。だが、そんな伯母の気持ちも知らずに、亮介は火に油を注ぐ。
「なあ、おかん、何イライラしとん。更年期か? ホットフラッシュちゃうん?」
「……どこでそんな言葉覚えてきたの」
「NHKの医学番組。おかん、真剣に見てんねんで。絶対そうやろ」
一瞬、空気が凍りついたあと、麻由子は、もう一度週刊誌を振り下ろした。が、母の動きを見切っていた息子は難なくそれを躱す。虚しく空を切った週刊誌を握り締め、麻由子は激昂した。
「何でそうなのよッ、あんたって子は!」
「何やねんな。俺が何したゆうねん」
「子供は子供らしくしなさいっていってるのよ!」
「そういう発言が子供の成長の妨げになるって、分からんかなあ」
「何ですってえええええ!」
「……いい加減にしてね、ふたりとも」
麻矢子の顔に静かな怒りの色を見つけて、親子は氷結した。5秒後、その氷を慌てて払い落として、ふたりは、ニッと笑いあった。
「お、お味噌汁、温めようっと」
「手、洗わんとな。あー、腹、減ったなあ」
「まったく……。亮介、ふたりを呼んできてちょうだい」
洗面所でおざなりに手を洗い、階段を登る。2階の一室のドアをノックして、返事も待たずに部屋に入った。
「万里、千里、飯やて」
同じ顔がふたつ、亮介に注目する。
『やあ、亮介、久しぶり』
「……ぶれたテレビみたいな喋り方やめてんか。気色悪いわ」
麻矢子の息子で、兄が万里、弟が千里だ。この4月で高等部2年に進級する一卵性双生児だ。美人の母親の血を受け継いで、ふたりとも相当な美形だ。一卵性だけあってかなりよく似ているが、万里は眼鏡をかけているため、見分けるのは簡単だ。
春休みということで、ふたりとも実家でのんびりと過ごしている。机に向かっていた万里は、何やら書き物をしていたらしく、原稿用紙を丁寧に束ねて立ち上がった。すれ違いざま、亮介の頭にポンと手を乗せて無言で部屋を出ていった。
「万里も相変わらずやなあ。好きな子の前でもあんな無愛想なんやろか」
「さあ。好きな子いるなんて話、聞いたことないけど」
「心ん中でじいっっと想っとんちゃうん。顔、ええねんから告ったらええやん。なあ」
「万里に好きな子がいるって決めつけてないか、おまえ」
「なあ、それ、新しいのん?」
何の前触れもなく唐突に話が変わる。万里のことはもうどうでもいいらしく、亮介は、テレビの画面を指差した。
「そ。昨日、発売になったやつ」
「うわあ。やらしてえな。おかん、目ェ悪なるゆうて買うてくれへんねん」
こういうとき、年上の親戚はありがたいものだと実感する亮介である。千里が手渡してくれたコントローラーを受け取って、テレビの前に座り込む。夕食だからと呼びに来たという当初の目的は、スペースシャトルに乗って遥かアンドロメダ大星雲の彼方であろう。
「これがキャラの選択。で、これが対戦相手。技のコマンドは取説の、えーと、どこだっけ?」
「そんなん適当にやるからええって。お、こいつ、強そうやん」
軽快な音楽が流れ、画面にカウントが始まる。コントローラーをぐっと強く握り直したとき、階下から麻由子の声が響いた。
「亮介! ミイラ取りがミイラになってんじゃないわよ! 早く降りてきなさい!」
「ちっ」
千里は、プッと吹き出した。
「今のは俺が悪いよな。ごめん。行こう。食べ終わったら貸してやるよ」
画面の中では、亮介の選んだキャラクターが、早くも沈んでいた。
「あーあ」
麻由子の更なる雷が落ちる前にと、千里に急かされて食卓についたときには、すでに準備は整っていて、食欲をそそられる香りが漂っていた。
「ゲームが絡むと子供に戻るのね、あんた」
「もともと子供じゃ、ボケ」
何でゲームのこと知ってるねん。亮介が頭の中でぼやく。親父のように食卓についてまで新聞を広げている万里に目をやる。
「おまえか、万里」
「何のことだ」
「万里は何もいいませんよ。ほら、食べなさい。万里も新聞やめなさい。寮でもそんなことしてるんじゃないでしょうね」
実はしているのだが、あえていわないでおいた。だが、横で千里が肩を竦めたのを見て、察した麻矢子は苦笑した。
手を合わせて、いただきます、の声と共に全員の箸が思い思いに動き出す。三種類のコロッケにコールスローサラダ、サーモンのマリネ、菜の花の山葵和え、豚汁。寮で進んで野菜を食べているとは思えない息子たちのために、実家で食事を摂るときは、なるべく野菜を多く取り入れるよう気遣っている。
みんなが適当に雑談を交わしている中、万里だけが寡黙であった。亮介が山葵和えに顔を顰めながらいった。
「なあ。あんまり暗いと振られるで。今は気の利いた会話が出来へんようじゃ、すぐ厭きられてしまうで」
「……いきなり何の話だ」
「先輩がいつも僕のこと見てたのは気づいてましたけどぉ、でも、先輩、本ばかり読んで全然喋らないしぃ、何考えてるのか分からなくって怖いなぁ」
亮介は軽い気持ちでいったのだが、当の本人は飲んでいた豚汁を吹き出し、ゲホゲホとむせ込んだ。
「何やってるの。落ち着いて食べなさいな」
麻矢子はお茶を差し出して、背中を擦ってやった。千里の耳に唇を寄せて亮介が囁く。
「好きな子、おるみたいやで」
「だな。相手は下級生かあ。うーん、どの子かなあ」
「万里が何気にちょっかいかけとる子とかおらんの?」
「俺は見たことないけど……。てことは、あれだ。図書館によく来る子だ。俺、図書館滅多に行かないから、ちょっかいかけてるとしたらそこしか考えられない」
「やかましい」
なんとか落ち着いた万里はふたりを睨みつけた。右手の中指で眼鏡をツッっと上げ、咳払い。
「そんなことより、おまえ、学校どうするんだ」
「うわ。強引な誤魔化し方やなー」
「でも、それ、俺も聞こうと思ってた。うち来るの?」
麻由子が、心の中で、何とか寮に入るよう仕向けてちょうだいと祈る。亮介の回答が何であろうとすかさずフォローに入れるよう身構える。しかし、答えは彼女の思いとはまったく逆であった。
「寮、入るわ」
母は、箸を銜えたままの姿勢で、息子の言葉を反芻した。
「な、何よ、それ!」
「何やねんな。入ってほしかったんとちゃうんかいな」
「だけど、あんなに嫌がってたじゃない!」
「事情が変わってん」
最後の一口を飲み込んで、亮介は手を合わせた。
「ごちそーさん。旨かったわ。ほな、俺、ゲームするわ。千里、ええやろ」
「どうぞ」
席を立つ息子につられるように、麻由子も箸を置いて立ち上がった。
「ちょっと、待ちなさいよ。事情って何?」
「自分には関係のない話や。それより、間違いなく入れるようにしといてや」
右手をヒラヒラと振って、亮介は2階へと姿を消した。呆けたようにストンと腰を下ろした真由子に、千里がしれっという。
「よかったじゃん。手続き無駄にならなくて」
「安心して転勤できるな」
受けて、万里。
「事情って何よ! 親にもいえないってどんな事情よ!」
亮介の食べ終えた食器を片しながら、麻矢子が笑った。
「この街に誰か好きな子でもできたのかしらね」
「おお。母さん、するどいかも」
「何いってんのよ。あの子、10歳よ。4月になれば11だけど。子供の好きって感情くらいでそんな……」
「子供らしくないってさんざんいってるのはあなたじゃないの」
確かにそうなのだが、親より恋愛を取るには、少々歳が若すぎるように思えるのも、また事実である。
「まあ、いいじゃない。受験の年にまた転勤になるよりは、寮の方がいいわ」
「それは……そうなんだけど」
何か腑に落ちない母である。
麻矢子のいったとおり、亮介の入寮は、先程助けた美少年に一目惚れして、彼が桜華台学園寮にいると知ったからだ。
亮介は、母の心中などおかまいなしにゲームに夢中になっている。
「やりー!」
連続コンボが絶妙なタイミングで出て、圧勝だ。気分よく次のキャラクターを選びにかかる。キーをひとつずつ送っていく途中で指が止まった。
この手のゲームにはよくいる中国娘だ。脇にスリットの入ったチャイナドレスを身に纏い、頭にはお団子がふたつ。体重が軽いのでスピードと回避力はあるが、その分、攻撃力と防御力に不満が残る。普段は避けるキャラクターなのだが、亮介は決定ボタンを押した。顔が似ていたのだ。あの可愛い少年に。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
翌日、食堂などでみんなと顔を合わせても、特に変わった様子はなく、万里から何か聞いたというような話も出なかった。美雪から水族館のお土産だというラッコの形をしたチョコレートを押しつけられたくらいのものだ。おそらく、これも嫌がらせの一種に違いない。真也は甘いものは苦手である。
もうすぐ、授業も再開する。そうなれば、小学生捜しは一段落つき、そうそうかまけてばかりもいられないだろう。だが、入寮してくるとなれば、話は厄介だ。どこまで隠しとおすことができるのか。いくら考えても、いい方法は浮かんでこなかった。
夕食のあと、部屋に戻ると、玲は、似顔絵を手にしてぼんやりとしていた。
「……どうかしたのか」
「あ、真ちゃん、お帰り。別にどうもしないよ。早く会いたいなあって。それだけ」
どくん、と真也の心臓が跳ね上がった。
「今回はみんなに迷惑かけちゃった。真ちゃんもごめんね?」
「……」
ベッドに腰掛けている玲の隣に並び、真也は似顔絵の小学生を睨みつけた。万里の血縁者だと聞いて納得のいく容姿が気に入らない。明日には俺たちの前に現れる。必ず玲を捜しに来る。玲を、奪われる!
「玲」
「何、真……」
逃げる暇もなかった。真也の顔が近づいたかと思うと、唇が塞がれていた。唇を触れさせるだけの軽いキスだった。
「好きだ」
唇を離して、真也はそう告げた。玲は、瞬きもできずに友人だと信じて疑わない彼の顔を凝視した。真也の両手が、細い身体を抱き寄せる。玲の手から、似顔絵が逃げ出し、床を滑った。
「やだ。何の冗談……」
「本気だよ、玲。ずっと好きだったんだ。だから、そんな会えるか分からないガキのことなんか忘れろよ、な?」
真也の声がずっと遠くから聞こえてくるような気がする。自分の置かれている状況が正しく認識できない。今、真也は、自分に何をした?
反応が返せたのは、真也の顔が再び近づいたときだった。
「いやッ、放して!」
両手を突っぱねて真也の身体を押し返すが、反対にその手首を戒められ、そのままベッドに押し倒される。
「いやだよ、真ちゃん、やめ……ッ」
覆い被さられ、今度は多少荒っぽいキスが玲を襲った。顔を背けても執拗に追ってくる。身体は縫いつけられたように動かせない。いつもの真也ではない。怖い。目尻に涙が浮かぶ。
「好きなんだ。あんなガキに渡したくない!」
「い……やッ! お願いだから、やめてよ!」
真也の息が首筋にかかり、濡れた舌の熱さを感じて、玲の身体がびくんと震えた。脳裏に少年の笑顔が浮かんで、玲は叫んだ。
「いやあああ! 僕が好きなのは真ちゃんじゃない!」
胸を突かれたように真也の手から力が抜けた。手を放し、身体を起こす。解放された玲は、慌ててベッドから降りると、部屋を飛び出した。
残された真也は、茫然として、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。自分は一体何をやっているのだろう。こんなに好きなのに。玲しか見てないのに。望んでいたのは、こんな結末なんかじゃない。泣かせるつもりなんてなかったのだ。
玲を好きだという感情が、なぜ裏目裏目に出るのか分からない。恋人になり損なったばかりか、親友まで失いかけている。いや、もうなくしたかもしれない。
真也は、床に落ちた似顔絵に目をやった。自分に対して勝ち誇ったような表情に見えたのは気のせいだろうか。甘いはずの口づけが苦かった。
「はあい、どなた?」
ノックされた扉を開けた瞬間、美雪はいきなり来訪者に抱きつかれてバランスを崩し、相手共々床に倒れ込んだ。
「いたたたた。……玲ちゃん?」
「大丈夫か、美雪」
「うん、平気」
玲を支えたまま身体を起こす。涙と微かに衣服の乱れを見つけて、何があったのかを悟った。
「貴英くん」
「ああ、分かった」
貴英は、心得た、とばかりに部屋を出ていった。美雪は、玲の身体を優しく引き剥がすと、顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ミユキちゃん、あの……、あのね」
狼狽える玲の唇に人差し指を当てて、微笑む。
「何もいわなくていいよ。事情はだいたい分かるから」
「ミユキちゃ……」
顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣き出した友人の背中をポンポンと叩いてやる。
シャツはズボンの中。ベルトも外れていない。ボタンも千切れたりしてないし、どこも破れたりしていない。強引にキスされたってところかな。美雪は、冷静に判断を下し苦笑した。真也にできるのは、せいぜいその程度のことなのだ。だから、忠告したのに。
「今夜はここに泊まりなよ」
「……でも、貴英くんは?」
「真ちゃんのとこ、行ってもらったから大丈夫」
「真ちゃんのところ……?」
「うん。僕がそうしてってお願いしたの」
「ミユキちゃん、そんなこといってた?」
「口には出してないけど」
手の甲で涙を拭って、鼻を啜り上げる。美雪がティッシュの箱を差し出した。何枚か引き出して顔を押さえる。
「ミユキちゃんたちってすごいね。話さなくても分かっちゃうんだ」
「つき合い、長いからねえ」
「僕なんて、真ちゃんと毎日顔合わせてたくせに全然気づかなかった……」
「それで? どう思ったわけ?」
玲は首を振る。膝を抱えて、大きく溜息をついた。
「分かんない。びっくりして、何が何だか……。でも、やっぱり、あの子が好き」
「真ちゃんはお友達……か」
「……うん」
真也には気の毒だが、この気持ちだけは仕方がない。だが、自分に好意を持っている人間に、他の人間との恋の成就を手伝わせる真似をしたことに関しては申し訳なく思う。
「僕、ずいぶんひどいことしてたんだね」
「しょうがないじゃない。知らなかったんだもん。気にすることないよ」
知っていてやってた人間の言葉とは思えない。
「もしかして、ミユキちゃん、知ってたの?」
「まあね。他人のことの方が客観的に見えるじゃない」
あまりに近すぎて、逆に目が曇ることもある。玲にとっての真也は、傍にいるのが当たり前で、肉親の情に似たものを持っていたから、恋愛の対象には成り得なかったのかもしれない。
「真ちゃん、もう僕とは口利いてくれなくなるかな……」
「玲ちゃんのお人好し!」
自分の方が被害者のくせに、何を心配しているのやらと呆れ返る。だが、玲のいいところでもある。
「いい? 向こうが謝ってくるまではほっとくんだよ?」
「どうして? 僕、真ちゃんに謝りたい」
「あのねえ……。真ちゃんにもプライドってもんがあるんだから、余計なことはしないの。ほっとくのが一番なの」
無理矢理キスを迫った方がもちろん悪いわけで、いくら好きだといっても合意でなければ暴力でしかない。おまけに仕掛けた本人はそれを承知していて罪悪感を抱いているのに、逆に謝られたりなどしたら、色褪せないように定着液をスプレーするようなものだ。
「ミユキちゃんって、ときどき、分かんないこというよね」
「分かんないのは玲ちゃんの方! 勉強以外はおバカさんなんだから」
「どうせ、バカだもん。バカだから、真ちゃんの気持ちにも気づけなくって……」
止まっていた涙が、再び溢れ出す。
「バカだもん……」
「玲ちゃん……。ごめん、いい過ぎたみたい」
美雪は玲の肩を抱いた。
「泣かないでよ。いいこと教えてあげるから」
「……何?」
「真ちゃんもね。ある人から好かれているのに全然気づいてないんだよ」
「そうなの?」
「真ちゃんのことは、その人が幸せにしてくれるよ。きっと……ね」
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
克臣が朝食を済ませ寮に帰ろうとしたとき、中等部で担任だった中山教諭に呼び止められた。
「おう。秋元。いいところであったなあ」
「げっ……」
「なーにが、げっ、だ。ほれほれ、仲間呼んでこい」
「俺、去年もやったんだぜ。他のやつに頼んでくれよぉ」
「要領が分かっていいじゃないか。行った、行った。体育館で待ってるぞ!」
中山教諭の後ろ姿を見送りながら、克臣は己の運のなさに溜息を漏らす。こうなれば、みんなを巻き込むだけだ。食堂へ逆戻りする。
「かっちゃん、部屋に戻ったんじゃなかったの? 忘れ物?」
さっき出ていったと思った克臣に、美雪が首を傾げる。
「みんな。何もいわずに俺と体育館に来てほしい」
「……また捕まったのか、おまえ」
「克臣のせいで恒例行事になりつつあるよね」
「あれ、けっこう面倒なんですよねえ」
「かっちゃん、最低」
口々に非難めいた言葉を発するが、別に克臣が悪いわけではない。いった本人たちも、ただ、いってみただけのことである。
克臣は、美雪、貴英、司、彼方と、途中で見つけた真也を捕獲して体育館へと向かった。
毎年、4月5日は入寮式が行われる。入寮式は、中途編入者のためのもので、10~20名程度だ。会場は体育館を使用する。普段は土足厳禁であるため、来賓などの外部者が多数出入りするこの時期には、土足で上がれるよう床にシートを敷くのである。
幅2メートル、長さ30メートルの細長いシートを、床が完全に隠れるように敷き詰め、その上に、生徒用、家族用、来賓用、学園関係者用とで200近いパイプ椅子を並べていくのだ。入寮式の3日後には、入学式が控えているため、レイアウトは最初から人数の多い入学式用である。
教諭たちは、壇上のマイクの設置や、スピーカーの点検、来賓名簿の確認などで忙しい。例年、当日の朝、春休みの居残り組が狩り出されて、手伝わされるのだ。
だいたいの設営が完了したときには、入寮式まであと1時間と迫っていた。午後12時からである。何で前日からやらないんだと、至極当然の意見を胸の中で呟いて、克臣は、ふと入口に目をやった。
何かが視界に引っ掛かったような気がしたのだが、それは気のせいなどではなく、誰かが入口から中を覗き込んでいる。
「何してんだ、そんなところで」
克臣が声を掛けたことによって、他の者も視線を巡らす。背丈から見て小学生のようだ。ということは、初等部の編入者か。
「式ならまだだぞ」
躊躇いがちに辺りを見回しながら、その小学生は中へと入ってきた。何となく顔を見合わせて、6人が一ヶ所に集まる。
少年であった。真っ直ぐに克臣たちの前まできて、足を止める。
「あのさ。ここに篠宮玲っておるやろ? どこ行ったら会えるん?」
少年の言葉に、まじまじと顔を見つめていた克臣が、いきなり素っ頓狂な声を上げる。
「あああああッ!」
「な、何や?」
「これッ! これッ!」
驚きのあまり、言語中枢がいかれたかのように、少年を指差して「これ」を連発する。
「失礼なやっちゃなあ。人に指差すもんやないで」
「克臣?」
貴英が克臣を不審そうに窺う。
「ねえ、この子、もしかして」
「彼方さんもそう思います?」
「間違いないよ、ね、貴英くん!」
「……いわれてみれば似顔絵そっくりだ」
他のメンバーが喜びを隠し切れない中、真也は、一歩前に進み出ると、冷ややかな口調でいい放った。
「さあ。知らないな、そんなやつ」
ぎょっとする5人である。
「ちょっと、真ちゃん!」
せっかく向こうから現れたというのにどういうつもりかと、美雪は食ってかかった。昨日、踏ん切りをつけたんじゃないのか。まだ諦めきれないのか。
「待て、美雪」
「何で止めるの、貴英くん!」
美雪を制した貴英が、入口を顎でしゃくった。新しい人影がふたつ増えていた。
「学年がちゃうんかな。ほな、他当たるわ」
真也の言葉を素直に信じて少年が引き下がろうとしたとき、聞き慣れた声が響いた。
「亮介」
「え……。あれ、万里やん。どないし……。あ……」
万里の隣にいるのが玲だと分かって、ぎくりとする真也。対照的に亮介は眼を輝かせる。亮介は、足早にふたりに近づいて、玲を見つめた。
「あの、俺のこと、覚えとる?」
「うん……!」
玲は文字どおり夢にまで見た亮介を目の前にして、今にも泣きだしそうである。亮介も玲に会えて、おまけに自分を覚えていてくれたことに嬉しさを隠せないでいる。ふたり揃って頬を赤らめてお見合い状態だ。
そんなふたりを見せつけられて、真也はキッと万里を睨みつけた。
「どういうことだよ、万里先輩!」
黙っておいてくれと頼んだはずの人間が、なぜ、わざわざ玲を連れてくるんだ。
「おい。おまえたち、行け」
万里が亮介たちを背中に庇う。亮介は玲の手を取って、初めて出会ったあの日のように、走り去っていく。
「待てよ!」
ふたりを追いかけようとする真也の前に、万里が立ち塞がる。
「どいてくれよ」
押し退けて進もうとする腕を掴まれる。
「放せ!」
「飯塚。もう、いいだろう。諦めろ」
「何で……!俺だって玲のこと!」
煮えるような涙を浮かべ顔を歪める真也に、美雪はそっと声を掛ける。
「真ちゃん。玲ちゃんの顔、見たでしょ。あんな嬉しそうな玲ちゃん、初めてだよ?」
「うるさい! おまえに何が分かるんだよ! おまえら全員恨んでやる! 人の邪魔ばっかりしやがって……!」
「飯塚。いい加減にしないか」
「あんたもだよ、万里先輩! 俺は黙っててくれって頼んだだろ? あんただけは絶対に許さないからな!」
完全に八つ当たりなのだが、万里は苦笑して掴んだ腕を引き寄せ、真也の身体を自分の胸に抱き締めた。
「何すんだよッ! 放せ!」
万里の胸を拳で叩くが、強く抱かれてたいした抵抗にもなっていない。やがて手は止まり、真也は大人しくなった。泣く場所を与えてもらったような気がして、広い胸の中で嗚咽を漏らした。
「嫌い……だ。あんた……なんか、大ッ嫌いだ……」
「……そうか」
真也の答えはもう出ていた。昨日の一件で、玲が自分のものにならないことは承知していたのだ。最後に足掻いてみたかっただけだ。
でも、本当に好きだったのだ。可愛くて、優しくて、少しふんわりしてたけど、案外頑固なところもあったりして……。春の陽だまりのような笑顔が大好きだった。
万里の背中に腕を回して縋りつく。今は倒れそうな自分を支えてくれるなら誰でもよかった。大きな掌が髪を優しく撫でてくれていた。それが心地よくて、かえって涙が止まらなかった。
「とりあえず、一件落着、かな」
美雪が細く息をついて、貴英を仰いだ。
「そう解釈していいんだろうな」
「よかったですね」
司の素直な意見に、克臣は納得がいかない。
「よかーねえよ。俺たちの苦労って何だったわけ?」
「いいじゃない。けっこう楽しめたよ」
結果として、真也の失恋が決定したわけだが、玲の王子様捜しは、無事解決したのである。
体育館から出たふたりは寮の裏手にきていた。
桜の花はすっかり綻んで、ふたりの上にヒラヒラと舞い落ちてくる。
「やっと、会えたわ」
そういって微笑む少年に、力が抜けたように玲は、地面にへたり込んでしまう。
「ど、どないしたん?」
「だって……。だって、もう会えないかと思ってたんだもん」
駄菓子屋の店主は連絡をくれるといったらしいが、高齢のようだし、忘れてしまうかもしれないという不安が頭から拭い切れなかったのだ。だが、少年は、さも心外そうな顔をしている。
「なんでや。あのとき、またなってゆうたやん」
玲は、はっと顔を上げる。バスの扉が閉まった直後の言葉は、じゃあな、ではなく、またな、の間違いであったのか。
「そんなの聞こえないよぉ……」
ポロポロと涙を流す玲に、亮介は慌てふためく。
「ちょお、泣かんといてえな」
この春休み、泣いてばかりだ。休暇が明ける頃には瞳が溶けてしまっているのではないだろうか。泣き止まない玲に困り果てた挙句、亮介は、辺りをちらりと見回して、被っていた帽子のひさしをぐるりと後ろへやった。屈んで、顔を覆っている玲の手をそっと解き、額に軽くキスをする。一瞬、きょとんとした玲にそっぽ向いて、小声でいった。
「す……、好きやで」
茹でダコのごとく顔を赤くしている少年につられて、玲のそれもみるみる真っ赤に染まる。
「僕も……、僕も、好き……! あ、え……と」
「亮介や。早川亮介。……玲」
亮介は、もう一度玲の方を向き、顔を近づけた。玲も亮介を仰いで目を閉じる。瞼の上に優しいキスが落ちてきた。が、やや不満そうな声が発せられる。
「これだけ?」
「これだけって何や。何してほしいねん」
「どうせなら、こっちにしてほしいな」
人差し指を自分の唇に添える。あからさまに狼狽する亮介。
「い、いたいけな小学生に何要求してんねんッ」
「つまんない」
「つまる、とか、つまらん、とかいう問題か!」
そういいながらも、視線はピンクの唇に釘づけである。柔らかそうな唇に触れてみたいのはやまやまではあるが……。
亮介は、周りに誰もいないことを再確認すると、玲に顔を寄せていった。きれいな瞳が閉じられる。長い睫毛が細かく震えていた。息が触れ合い、お互いの唇が重なり掛けた瞬間である。
「はい、そこまでー!」
ドキリと心臓が踊り、思わず双方とも身を引いてしまった。声の主はというと。
「せ、千里!」
「亮介。お前には早いだろ、そういうことは」
「うるさいわッ! 関係ないやろ、ほっとかんかいッ!」
邪魔された怒りと、見られた羞恥で、亮介ががなり立てる。その横で、玲も顔を自分の手で扇いでいる。
「だいたい、いつからおんねん!」
「えーと、『やっと、会えたわ』からかな」
「最初からやないかッ。ボケ! 覗き魔!」
無神経な従兄に悪口雑言を投げかけながら、ふと考え込む。最初から見ていて、なぜあのタイミングで割り込んできたのか。
「おまええええ! わざとやろ!」
「何のことかなあ」
「とぼけるなあ!」
よりにもよって、わざと、一番いいところで邪魔をしたのである。額へのキスも、瞼へのキスも黙認したくせに、唇へのキスであえて止めに入ったのだ。千里は、意地悪く笑ってみせた。
「覚えとれよ、千里」
「おまえね。何しにここへ来たわけ?」
「玲に会うために決まっとるやろ」
「……いいけどね、別に。式は欠席するつもりか?」
腕時計にさっと目をやって、げっ、と唸る。今日は入寮式のためにここにきていたのだ。式が終わってからゆっくり玲を捜すつもりだったのだが、つい生徒を見掛けて声を掛けてしまった。
「玲。またあとで会いに行くしッ。ごめんッ!」
「う、うん。待ってる!」
片手を上げて走り去っていく背中を見送って、玲は立ち上がり、衣服についた土を払い落とした。
「あんなガキのどこがいいわけ?」
「全部」
「……全部、ねえ」
千里は、両手を挙げて肩を竦めた。
見つけた。僕の王子様。
玲の頭の中は、これからの学園生活がより楽しくなりそうな予感でいっぱいだ。
千里に会釈すると、体育館へと歩き出す。式が終わるのを待つためだ。亮介が出てきたら、いろいろ話したい。自分がどれだけ亮介に会いたかったか。この10日ほどの間で、友人たちの存在にどれほど助けられたか。そして、少し、悲しい想いがあったことも。
桜が満開である。恋が実ったことを祝福してくれているかのように感じるのは、自意識過剰か。
その花に負けないほどのとびっきりな笑顔で、玲は空を仰いだ。
このとき、千里に邪魔されたふたりのファーストキスのきっかけを作ってくれるのが真也になろうとは、夢にも思わないふたりであるが、これはまた別の物語である。
<完>