訓練場の住人とこれからのこと
薬草園を通り過ぎると、木々の間から開けた牧場が見えてきた。
柵の向こうでは牛がのんびりと草を食み、少し離れた場所を鶏が歩き回っている。
さらに奥には豚の姿もあり、屋敷の近くにこれほど広い飼育場所があるとは思わなかった。
「ここで家畜を育てているんですね」
「はい。箱庭で使用する卵や牛乳、肉などは、主にこちらで賄っております」
ヴァルドの説明を聞きながら、牧場を見渡す。
地球の食材が用意されていると聞いたときは、完成した物がどこからともなく補充されるのだと思っていた。
けれど実際には、ここで家畜を育て、必要な恵みを得ているらしい。
昔、祖父母の家で鶏を締め、解体を手伝ったときのことを思い出す。
料理をする以上、食材が食卓へ届くまでの過程から目を逸らすことはできないのだろう。
牧場から続く道を進んでいると、鋭い風切り音が聞こえてきた。
一定の間隔で響く音に足を止め、木立の先へ目を向ける。
土を固めた広場の中央で、一人の男性が大剣を振るっていた。
無造作に跳ねた赤い髪が、踏み込むたびに揺れている。
黒い服に包まれた体は引き締まり、大剣を扱っているとは思えないほど動きが軽い。
上段から振り下ろした刃を止め、その勢いを次の横薙ぎへつなげる。
踏み込みに合わせて土が小さく跳ね、漆黒の刀身が陽の光を反射した。
型を一つずつ確かめているように見えるが、剣が空気を裂く音には思わず身を竦めるほどの鋭さがある。
男性はこちらに気づいている様子だった。
それでも稽古を中断する気配はない。
集中を妨げないほうがよさそうなので、私たちは日陰に置かれたベンチへ腰を下ろした。
稽古が終わるのを待つうちに、これまで出会った箱庭の住人たちのことが頭に浮かぶ。
リナもハルグリムも、私たちと出会うまでは名前を持っていなかった。
ヴァルドも同じだと聞いている。
ノームやシルキーのような妖精だけなら、そういう種族なのだと考えただろう。
けれど、ヴァルドたちまで名を持たないのなら、別の理由があるはずだ。
「ヴァルド、少し聞いてもいいですか?」
「どうして皆には名前がなかったんですか?」
ヴァルドはすぐには答えず、訓練場にいる男性へ静かに視線を向けた。
いつも迷いなく言葉を返してくれる彼にしては珍しい間だった。
「私どもは、かつてクラウディスで生を受けた者でございます」
落ち着いた声は普段と変わらない。
それでも、言葉を選びながら話していることが伝わってきた。
「しかし、エシャール様によって世界から存在を削除された際、過去との繋がりを失いました。かつての名も、その過去に属するものでございます」
現在の彼らは、私たちを支えるために新たな存在を与えられた。
以前と同じ姿や記憶を持っていたとしても、かつての名を名乗ることは許されていないという。
存在を削除されたという言葉の重さに、胸の奥が冷える。
彼らがどのような過去を持ち、なぜ世界から消されることになったのかまでは分からない。
穏やかに話すヴァルドの横顔からも、そのときの思いを読み取ることはできなかった。
それなら、私たちが新たな名をつけることは迷惑ではないのだろうか。
不安になった私へ、ヴァルドはゆっくりと頭を下げた。
「新たな名は、過去へ戻すものではございません。この箱庭で生きる一人の存在として、旦那様と奥様に認めていただいた証でございます」
名をつけることを、これまで深く考えていなかった。
呼びかけるために必要だから、相手に似合いそうな響きを選んだだけだった。
けれど、ヴァルドたちにとってはそれだけではない。
「ヴァルドという名前を気に入ってもらえて、本当によかったです」
何ものにも代え難い名だと答えたヴァルドの緑の瞳が、柔らかく細められる。
それを見て、胸の奥にあった重さが少しだけ和らいだ。
これから名をつけるときは、相手のことをきちんと見て決めたいと思う。
再び風を裂く音が響き、私たちは訓練場へ顔を向けた。
先ほどまで型を確かめていた男性の動きが変わっている。
踏み込みは深くなり、一撃ごとの速さも増していた。
大剣が地面すれすれで止まり、次の瞬間には斜め上へと跳ね上がる。
重い武器に振り回されるどころか、その重さまで自分の動きへ組み込んでいるようだった。
最後に大きく振り下ろされた刃が、地面へ触れる寸前で止まる。
静止した男性はゆっくりと息を吐き、大剣を軽く振ってから背へ担いだ。
こちらへ歩いてくる表情には、稽古中の鋭さが残っている。
近くで見ると背が高く、鍛えられた体も相まって威圧感があった。
「悪いな。待たせたか?」
「いいえ。私たちが勝手に見ていただけですから」
私が答えると、男性は気にするなと軽く手を振った。
低く少し荒っぽい声ではあるものの、思っていたより話しやすそうな雰囲気だ。
「この方が、先ほど申し上げた訓練の担当者でございます」
ヴァルドが紹介すると、男性は私たちを順に見た。
品定めをするような不躾さはなく、体つきや立ち方から何かを確かめているように見える。
「話は聞いてる。ここへ来たばかりなんだろ?」
「はい。今日、箱庭を案内してもらっています」
「見た目より広いからな。初日から全部覚えようとしなくていい」
私たちの緊張に気づいたのか、男性は少しだけ口元を緩めた。
厳しい訓練をする人だと聞いていたので、もっと近寄りがたい人物を想像していた。
「それで、私は何とお呼びすればいいでしょうか?」
「俺にも名前はねえ。さっきヴァルド様から聞いただろ?」
先ほどの話が聞こえていたらしい。
男性は気にした様子もなく、自分の胸元を親指で示した。
「呼びにくいなら、奥様が決めてくれ」
「大切な名前ですから、適当には決められません」
困ったように笑う姿からは、相手を急かす様子がなかった。
私は立ち上がり、改めて彼の姿を見た。
燃えるような赤い髪と、陽の光を受けて輝く黄金色の瞳。
漆黒の大剣を自在に操る力強さの中に、いざというときには頼りになりそうな安心感がある。
その姿と役目に似合う、短く力強い響きを探す。
いくつか思い浮かべた中から、一つの名前が自然と口に上った。
「ガイル、という名前はどうでしょう?」
「ガイルか」
男性は確かめるように繰り返した。
黄金色の瞳がわずかに細められ、やがて満足そうな笑みが浮かぶ。
「いいじゃねえか。呼びやすいし、響きも気に入った」
「ああ。今日から俺はガイルだ」
本人の口から新しい名が告げられたことで、先ほどまで役目だけで呼ばれていた男性が、急に身近な存在になった気がした。
「よろしくお願いします、ガイル」
「よろしく頼む、奥様、旦那様」
瑛太さんが短くうなずくと、ガイルは背負っていた大剣を訓練場の武器棚へ置いた。
それから私たちの前へ戻り、腕を組む。
「改めて言っておく。俺はここの管理と、二人の戦闘訓練を任されてる」
戦った経験がほとんどないことを伝えると、ガイルは、だから自分がいるのだと返した。
何も知らない私たちを、いきなり魔物との実戦へ出すつもりはないようだ。
まずは現在の体と、与えられた力を把握するところから始めるという。
「二人とも、自分のスキルと耐性は確認したか?」
耐性という聞き慣れない言葉に、瑛太さんと顔を見合わせた。
エシャール様と相談して決めたスキルは把握しているが、毒や麻痺などに強くなる耐性については説明を受けていない。
毒や麻痺などに強くなるスキルがあるらしいが、エシャール様からは説明を受けていない。
「耐性については、何も聞いていません」
ガイルはすぐに鑑定を使おうとはせず、私たちの返事を待った。
自分の能力を他人に見られることには抵抗があるが、訓練を担当する相手が知らなければ、適切な方針も立てられないだろう。
「確認をお願いします。瑛太さんもいい?」
「ああ」
瑛太さんの同意を確かめたガイルの黄金色の瞳が、私たちを順に捉える。
先ほどまでと同じ視線のはずなのに、体の内側まで見られているようで落ち着かなかった。
しばらくして鑑定を終えたガイルは、考えるように顎へ手を当てた。
「基礎は悪くねえ。二人の役割も分かれてるし、スキルの組み合わせにも問題はない」
ひとまず否定されなかったことに安堵する。
けれど、ガイルの表情はすぐに真剣なものへ変わった。
「ただ、耐性は何も持ってねえな」
「やはり、ないと危険なんですか?」
「旅に出るなら、毒と麻痺への備えは欲しい。魔法を使う奥様には、精神魔法への耐性も必要になる」
毒を塗った武器や、動きを封じる攻撃を使う相手もいるという。
精神へ作用する魔法を受ければ、混乱させられるだけでなく、味方へ攻撃してしまう可能性まであるらしい。
穏やかに暮らしたくても、箱庭の外へ出れば危険と無縁ではいられない。
「足りない耐性は、あとから身につけられるんですか?」
「ああ。毒や麻痺は、弱い症状を受けて治す訓練を繰り返す」
思わずガイルの顔を見返した。
私の反応を予想していたのか、彼はわずかに肩を竦める。
「もちろん、いきなり危険な量は使わねえ。薬草園の材料で弱毒を調整して、俺とヴァルド様が見てるところでやる」
自分から毒を飲むと聞かされて、すぐにうなずくことはできなかった。
訓練に必要だとしても、体へ毒を入れることへの抵抗は消えない。
隣にいる瑛太さんも、ガイルの説明を聞きながら難しい顔をしていた。
ガイルが私へ視線を向けた。
「奥様は回復魔法を持ってるんだろ?」
「キュアは持っています。でも、まだ使ったことはありません」
私の返事を聞いたガイルは、訓練の順番を考えるように指を折っていった。
先に体を動かし、今の体の感覚を覚える。
それからスキルの発動を練習し、自分たちの力を扱えるようになったあとで耐性訓練へ進むという。
「毒や麻痺を治す魔法については、私からもお教えいたします」
ヴァルドが補足すると、ガイルも異論はないらしくうなずいた。
必要な準備を整え、安全を確かめながら段階を踏むのであれば、最初に想像したほど無茶な話ではないのかもしれない。
「精神魔法の耐性も、同じ方法なんですか?」
「似たようなもんだが、そっちは俺たちが直接見る。本人が平気だと思ってても、影響が残ることがあるからな」
軽い調子は消え、低い声だけが残っていた。
危険を軽く考えているのではなく、知っているからこそ必要性を伝えているのだと分かる。
私は瑛太さんへ顔を向けた。
今すぐすべてを決める必要はないが、何も知らないまま外へ出るほうが怖い。
「瑛太さん、どう思う?」
「必要な訓練なら受けたほうがいい。ただし、安全を確認してからだ」
「私も同じです」
ガイルへ向き直り、今の気持ちをそのまま伝える。
「まだ怖さはあります。でも、必要な理由は分かりました。順番に教えてください」
「それでいい。怖くなくなるまで待ってたら、いつまでたっても始められねえからな。無理をしろって意味じゃねえぞ。できることから一つずつだ」
ぶっきらぼうな言葉の中に、先ほど感じた面倒見のよさが滲んでいる。
ガイルが私たちの訓練を担当してくれるのなら、不安なこともきちんと伝えられそうだった。
穏やかな箱庭を出てクラウディスで暮らすには、自分たちの身を守る力も必要になる。
これから、ガイルの指導で基礎訓練を始める。
まずは今の体を知り、スキルを自分の意思で使えるようにする。
耐性を身につけるのは、そのあとだ。
訓練場の土の匂いと大剣の風切り音が、これからの日々を想像させる。
不安が消えたわけではない。
それでも、一人で向き合うのではなく、瑛太さんと一緒なら前へ進める。
ガイルは訓練場の中央へ向かい、ついてくるよう私たちを手招きした。
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