知らない天井と、はじまりの食卓
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
頬に触れるぬくもりは、やわらかくて心地よい。
けれど同時に、それはどこか現実味がなかった。
まるで、誰かに丁寧に用意された朝のようだ。
そんな妙な感覚を抱きながら、私はゆっくりと目を開けた。
「知らない天井だ」
ぽろりと口から零れた台詞に、自分で少しだけ笑ってしまう。
通じる相手はいないし、そもそも今はそれどころではない。
視界いっぱいに広がっていたのは、深みのある木材で組まれた天井だった。
日本のマンションでも、ホテルでも見たことのない造りだ。
木目は穏やかに流れ、朝の光を受けて飴色にやわらかく艶めいている。
白い漆喰でも、無機質なクロス張りでもない。
木だ。
しかも、古びているのではなく、手入れの行き届いた、しっとりとした木。
私はまだ少しぼんやりした頭のまま、そっと隣へ視線を向けた。
そこに寝ていたのは――イケオジだった。
いや、知っている。
知っているんだけど、まだ脳がこの状況に馴染みきっていない。
長い白銀の髪が枕に広がり、閉じられた瞼の下には長い睫毛。高い鼻梁に薄い唇。眠っていても消えない落ち着いた空気と、近寄りがたいほど整った顔立ち。
昨日まで見慣れていた瑛太さんの面影はちゃんとあるのに、外見だけ切り取ると、どう見ても乙女ゲームの攻略対象のような男が隣で寝ている。
(ほんと、慣れないな)
私は苦笑しながら、その頬をつんと軽くつついた。
一度。
二度。
すると、長い睫毛がかすかに震え、白銀の前髪の奥で瞼がぴくりと動く。
さらにもう一度つつくと、瑛太さんはゆっくりと目を開けた。
紫の瞳。
見慣れない色のはずなのに、その視線の動かし方が瑛太さんのままで、胸の奥にあった小さな緊張がふっと解ける。
瑛太さんは一度天井を見て、それから静かにこちらへ視線を戻した。
「……起きてる」
短く、それだけ。
寝起きなのに妙に落ち着いているのが、少し悔しい。
「おはよう、瑛太さん。起きて。周りの確認と、ご飯を食べよう」
そう言って頬に軽くキスを落とし、私は体を起こした。
寝ていたのは大きなダブルベッドだった。
白いシーツはぱりっと清潔で、毛布はほどよく厚い。
包まれていると安心する重みがあって、見知らぬ場所なのに不思議と落ち着いた眠りにつけたのは、きっとこの寝具のおかげだろう。
ベッド脇には木目の綺麗なサイドテーブル。
その上には真鍮のランタンが置かれていて、隣には小さなメモと羽根ペンまで揃っていた。
部屋の奥へ視線を向けると、煉瓦造りの暖炉が静かな存在感を放っている。
今は火が入っていないが、落ち着いた赤茶の煉瓦は、寒い夜にぱちぱちと小さな音を立てながら部屋全体を温めてくれるのだろうと思わせた。
そして何より、この部屋を特別にしているのは、大きな半円のアーチ窓だった。
窓から差し込む朝の光が惜しみなく室内を満たし、木の床に長い金色の筋を落としている。
薄いカーテンがかすかに揺れ、その向こうには、晴れ渡った青空と揺れる緑が見えた。
日本とは、やっぱり違う。
けれど、嫌な違いではなかった。
むしろ、童話や絵本の中みたいな、やわらかい温もりのある違いだ。
「この部屋だけ見ても、日本とは違うな」
低い声に振り返ると、瑛太さんがゆっくりと上体を起こしていた。
長い髪を片手で軽く払う仕草まで妙に板についていて、朝から心臓に悪い。
「違うね。木の匂いがすごく落ち着く」
「……ああ」
瑛太さんはそれだけ返し、静かに室内を見回した。
窓。扉。暖炉。ベッドの位置。
落ち着いて見えるのに、さりげなく部屋の構造を確認しているのが分かる。
そういうところが、この人らしい。
私がベッドを降り、部屋の外へ出ようとしたその時。
控えめなノックの音が三度、扉に響いた。
コン、コン、コン。
「旦那様、奥様、お目覚めでしょうか」
聞き覚えのない声だった。
私は思わず瑛太さんを見る。
瑛太さんも同じことを思ったらしく、わずかに眉を寄せた。
次の瞬間、私の肩をそっと引き寄せる。
自然な動きだった。
過剰に庇うわけでもなく、けれど私を扉から遠ざける位置へ軽く寄せる。
その距離感が、なんだか妙に安心できる。
扉の向こうから、もう一度控えめな声が響く。
「申し訳ありません。お目覚めであれば、朝食後に箱庭のご案内をさせていただきたく存じます。
入室してもよろしいでしょうか?」
箱庭。
その単語に少しだけ引っかかりを覚えながら、私は瑛太さんを見る。
瑛太さんは一度、静かに扉へ視線を送り、それから私に目を向けて小さく頷いた。
私は一歩前へ出て、できるだけ落ち着いた声で答える。
「……はい。大丈夫です。どうぞ」
扉が静かに開いた。
最初に見えたのは、黒を基調とした執事服の裾。
次に現れたのは、長い年月を重ねた男の姿だった。
灰色がかった白髪はきちんと撫でつけられ、皺の刻まれた顔には年月の積み重ねが見て取れる。
けれど背筋はまっすぐに伸び、所作に揺らぎはない。
頭上には、狼を思わせる獣の耳。
腰の後ろには、落ち着いた灰色の尾。
――ああ、人ではないのだと、その時ようやく理解した。
深い緑の瞳は穏やかで澄んでいて、長い時を生きてきた者だけが持つ、静かな重みを宿している。
老獣人の男は、扉の前で一歩も踏み込まず、丁寧に片膝をついた。
「初めてお目にかかります。私、お二人の身の回りをお世話させていただく者にございます。以後、お見知りおきください。」
落ち着いた声が、木の温もりを帯びた部屋の中に広がる。
本当に、物語の中のようだった。
私はまだ現実感を掴みきれず、瑛太さんと二人、少しの間その人を見つめてしまう。
老獣人の執事は、片膝をついたまま微動だにしなかった。
まるで彫像のように静かで、正確で、隙がない。
ただ、その尻尾の先だけがほんのわずかに揺れていて、それだけが彼が生きている証みたいに見えた。
「……」
「驚かせてしまい申し訳ございません」
「え、いや。こちらこそ、ぼーっとしちゃってごめんなさい。どうぞ立ってください」
慌ててそう言うと、老獣人の執事は一礼してから静かに立ち上がった。
私は改めて名乗る。
「私は真由です。身の回りの世話をしてくれる人がいるってエシャール様から聞いていました。
どうぞよろしくお願いします」
続いて、隣の瑛太さんも口を開いた。
「瑛太です」
一拍置く。
「よろしく頼む」
余計なことは言わない。
それだけで、ちゃんと礼は尽くしているのが分かる。
そして、その深緑の瞳をまっすぐ見ながら、瑛太さんは静かに続けた。
「……呼び名を、伺っても」
丁寧だが、簡潔。
相手に敬意を払いつつ、必要なことだけを問う言い方だった。
老獣人の執事は、わずかに目を細めた。
「私は、お二人のお世話係としてエシャール様にこの箱庭にて仕えることを許された者にございます。
どうぞご随意にお呼びくださいませ」
狼の耳が小さく揺れ、尻尾が静かに床を払うように動く。
どう呼ぶか。
私は彼をじっと見つめた。
老齢の狼。
執事服を違和感なく着こなす落ち着き。
深い森を思わせる緑の目。
セバスチャン、みたいな定番も一瞬頭をよぎったけれど、どうにも違う気がした。
ふと、口をついて出た。
「そうですね……ヴァルドさん、でどうでしょう」
その瞬間、老獣人の執事はほんのわずかに目を見開いた。
驚き、というより――その名が胸のどこかに、すとんと落ちたような顔。
やがてゆっくりと瞼を伏せ、深く頭を垂れる。
「……ヴァルド。承りました、奥様」
低く落ち着いた声。
長い年月を経た木材みたいな、温かみのある響きだった。
そして顔を上げると、深緑の瞳がまっすぐ私を映した。
「以後、その名に恥じぬよう、お二人にお仕えいたします」
狼の耳が、ほんのわずかに揺れる。
尻尾の先も、少しだけ弧を描いた。
それが喜びの証なのだとしたら、なんだか胸の奥がくすぐったかった。
「……いい名だ」
瑛太さんが低く言う。
一拍。
「彼に似合ってる」
それだけなのに、妙に嬉しい。
褒める時まで無駄がないの、ずるいと思う。
「そうだといいな」
照れて視線を逸らした私に、ヴァルドさんが静かに咳払いをした。
「恐れながら、朝食の支度が整っております」
そう言って立ち上がる。
動きの一つひとつが丁寧で、無駄がない。
「この先の階段を下りて二階へ。食堂にご案内いたします」
私と瑛太さんは顔を見合わせ、それから恐る恐る部屋の外へ足を踏み出した。
廊下もまた木で作られていて、磨かれた床に朝の光がやわらかく反射している。
どうやら主寝室は三階にあるらしい。
廊下の長さを見ても、この屋敷はかなり広い。
(これ、ヴァルドさん一人で管理してるのかな?)
そんなことを思いながら、私は少し先を歩くヴァルドさんの背中を追った。
彼は決して私たちを置いていかない。
けれど、こちらが歩きやすいぎりぎりの距離を保っている。
そのさじ加減が絶妙で、すでに有能さが滲んでいる。
私は小声で瑛太さんに話しかける。
「ねえ、瑛太さん」
「なんだ?」
「これ、夢じゃないよ?」
瑛太さんは一瞬だけ口元を緩めた。
「……同じだ」
短い返事。
でも、それだけでちゃんと通じる。
頬をつねろうか迷っていると、前を歩いていたヴァルドさんが穏やかに微笑んだ。
「ご安心くださいませ。お二人は、確かにここにいらっしゃいます」
まるで心を読んだような言葉に、瑛太さんが一瞬だけ目を細める。
「……聞こえていたか」
「いいえ。ただ、獣人ゆえ人より耳が良いのです。盗み聞きのようになってしまい、申し訳ございません」
そう言ってヴァルドさんは耳をわずかに伏せた。
その仕草が妙に人間くさくて、私は思わず口元を緩める。
「盗み聞きだなんて、気にしないでください」
私が言うと、瑛太さんも小さく頷いた。
「俺たちが小声で話しすぎただけです。気にしなくていい」
ヴァルドさんは胸に手を当て、深く一礼した。
「寛大なお言葉、感謝いたします」
その所作があまりに綺麗で、逆にこちらが恐縮してしまう。
私は改めて廊下を見回した。
壁には風景画や人物画がいくつも掛けられている。
窓の外には、やわらかな朝の光と揺れる森の緑。
その景色を眺めているうちに、夢みたいだった感覚が少しずつ薄れ、代わりに胸の奥へ静かな実感が溜まっていく。
――本当に、ここで生きていくんだ。
階段を下りきると、空気が少し変わった。
三階が木と光の静かな空間だったなら、二階は暮らしの匂いがする。
焼きたてのパンの香ばしさ。
煮込み料理の甘い匂い。
温かな湯気の気配。
その匂いに、空っぽの胃がきゅうっと鳴りそうになる。
扉の前でヴァルドさんが立ち止まり、静かに取っ手へ手をかけた。
「こちらが食堂でございます」
扉が開く。
木の梁がむき出しになった高い天井。
左手には石造りの暖炉があり、火は入っていないのに部屋全体を温かく見せている。
床には青を基調とした織物のラグが敷かれ、落ち着いた色合いの中に彩りを添えていた。
右手には大きな窓と扉。
外へ続くその先には、青空と草原。
今にも清々しい風が吹き込んできそうだ。
中央には大きな木の食卓。
そこには湯気を立てるスープ、焼き色のついたパン、果実の盛られた皿、蜂蜜の小瓶。
豪華すぎるわけではない。
けれど、丁寧に整えられた温かな食堂だった。
「……すごい」
思わず零れた声に、隣で瑛太さんもわずかに手を止めるようにして室内を見た。
「……いいな」
それだけ言って、少しだけ視線を細める。
窓、出入口、暖炉、食卓。静かに全体を見渡したあと、ようやく落ち着いたように息をついた。
その仕草が、妙に頼もしく見えた。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
私は席につき、テーブルの上を見回した。
一つひとつがきちんと整えられていて、誰かが「迎えるため」に用意したのが分かる。
瑛太さんがパンを割り、一口食べた。
そしてわずかに動きを止める。
「……美味しいな」
短い感想。
でも、その言い方で本当に美味しいのが分かる。
もう一口食べるのを見て、私も慌ててパンをちぎり、口に運ぶ。
外は薄くぱりっとしていて、中はふわりと柔らかい。噛むたびに小麦の甘みが広がった。
続けてスープを口に含む。
やさしい塩味。
香草の香り。
野菜の甘み。
じんわりと体の中へ温かさが落ちていく。
(……美味しい)
ほっと息が漏れる。
壁際に控えていたヴァルドさんを見て、私は自然と問いかけていた。
「この料理は、誰が作ったんですか?エシャール様からは、クラウディスでは基本的に塩味のスープと黒パンが一般的だと聞いていたのですが」
もし最初からこれだけ美味しい料理があるなら、私たちが食文化を広める必要なんてないのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
ヴァルドさんは胸に手を当て、一礼した。
「この朝食は、私が用意いたしました。」
「えっ。」
思わず声が漏れる。
隣で瑛太さんも、パンを持ったまま一瞬だけ止まった。
「ヴァルドさんが?」
私が聞き返すと、ヴァルドさんは静かに頷いた。
「はい。奥様のおっしゃる通り、クラウディスでは塩味のスープと黒パンが標準です」
そう言って、テーブルの白いパンへ視線を向ける。
「ですが、お二人は外の世界から来られた方々。私はお世話させていただくにあたり、外の世界の食と生活に関する知識を、エシャール様より授かっております」
「なるほど、だから作れたのですね」
「はい」
ヴァルドさんは続けた。
「この世界の民は、味に価値を見出さぬ者が多いのです。生きるために食べる。腹を満たすために食べる。それで十分だと考えております」
その声が少し低くなる。
「しかし、食材そのものは決して乏しくありません。森も、畑も、海も、川もございます。香草も果実も、肉も魚もある。足りぬのは食材ではなく――それを活かそうとする発想にございます」
私は息を呑んだ。
材料はある。
なのに、料理として発展していない。
エシャール様から聞いていた話が、ようやく実感を伴って胸に落ちてくる。
(エシャール様が言っていた“食文化を広げる”って、こういうことか)
ただ異世界で暮らすだけじゃない。
この世界の「当たり前」に、少しずつ違う価値を持ち込む。
その役割が、今この食卓の上で、初めて形を持った気がした。
ヴァルドさんは私たちの反応を見届けるように、静かに言葉を結んだ。
「お食事の後、お屋敷と箱庭のご案内をさせていただきます。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
私はスープの皿を見下ろし、それから顔を上げた。
「……まずは、この美味しい朝食に感謝します。ヴァルドさん」
ヴァルドさんは深く頭を下げる。
「恐悦至極にございます、奥様」
狼の耳が、ほんの少しだけ誇らしげに揺れた。
その揺れがなんだか可愛くて、少しだけ笑ってしまう。
隣では瑛太さんが落ち着いた仕草でパンをちぎり、スープを口に運んでいる。
その横顔を見ていると、不思議と心が静かになる。
怖さが消えたわけじゃない。
不安だって、まだある。
でも。
温かな食卓があって。
この人が隣にいて。
そして、私たちを迎えるために朝食を整えてくれた存在がいる。
それだけで、異世界はもう少しだけ「生きていけそうな場所」に見えた。
箱庭。
まだ見ぬその場所に、どんな景色が広がっているのか。
どんな暮らしが待っているのか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さく灯ったものは、不安だけではなかった。
ほんの少しだけ――わくわくしている自分がいた。
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