知らない天井と、はじまりの食卓
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、頬を柔らかく温めていた。
眠りの底から意識が浮かび、ゆっくりと目を開ける。
視界いっぱいに広がっていたのは、深い色の木材で組まれた天井だった。
「知らない天井だ」
思わずこぼれた言葉に、自分で小さく笑う。
冗談を聞いてくれる人が起きているか確かめようと、隣へ顔を向けた。
白銀の長い髪が枕に広がっている。
閉じた瞼には長い睫毛が影を落とし、高い鼻梁と薄い唇が朝の光に縁取られていた。
私の知っている瑛太さんなのに、乙女ゲームの攻略対象のような美しいエルフが隣で眠っている。
転生前に姿が変わるところを見たはずなのに、目覚めて最初に目にすると、やはり現実感がなかった。
私は苦笑し、その頬を指先で軽くつついた。
一度では反応がなかったので、もう一度触れてみる。
長い睫毛が震え、瑛太さんがゆっくりと目を開けた。
見慣れない紫色の瞳が天井を捉え、次に私へ向けられる。
目の色も顔立ちも違う。
けれど、視線の動かし方は私の知る瑛太さんのままで、胸に残っていた緊張が少し解けた。
「おはよう」
「おはよう、瑛太さん。そろそろ起きて、周りの確認と朝ご飯にしよう」
頬へ軽く口づけ、身体を起こす。
私たちが眠っていたのは、大きなダブルベッドだった。
白いシーツは清潔で、毛布には身体を包み込むほどよい重みがある。
見知らぬ場所でも落ち着いて眠れたのは、この寝具のおかげかもしれない。
ベッドの脇には木製のサイドテーブルがあり、真鍮のランタンと羽根ペン、小さなメモが置かれていた。
部屋の奥には煉瓦造りの暖炉があり、大きな半円形の窓から入る光が、磨かれた床へ金色の筋を描いている。
薄いカーテンの向こうに見えるのは、晴れた空と風に揺れる緑だった。
日本の家とはまるで違うのに、木の匂いが漂う室内には不思議な温かさがある。
「日本とは違うな」
瑛太さんも身体を起こし、室内を見回していた。
窓、扉、暖炉、ベッドの位置へ順番に視線を向けている。
落ち着いて見えても、知らない場所に危険がないか確認しているのだろう。
「違うね。でも、木の匂いは落ち着く」
「ああ」
私がベッドから降りようとしたとき、扉を三度叩く音が響いた。
「旦那様、奥様。お目覚めでしょうか」
聞き覚えのない、低く穏やかな声だった。
瑛太さんが私の肩をそっと引き、自分より扉から遠い位置へ移す。
大げさに庇うのではなく、ごく自然に自分が前へ出る動きに、少しだけ安心した。
「お目覚めでしたら、朝食のあとに箱庭をご案内いたします。入室してもよろしいでしょうか」
箱庭という言葉に、転生前の説明を思い出す。
瑛太さんと目を合わせると、小さく頷かれた。
「はい。どうぞ」
静かに開いた扉の向こうに、黒い執事服を着た老齢の男性が立っていた。
灰色がかった白髪はきちんと撫でつけられ、皺の刻まれた顔には長い年月の重みがある。
それでも背筋は真っすぐに伸び、身のこなしにも衰えは感じられなかった。
頭には狼を思わせる灰色の耳があり、腰の後ろから同じ色の尾が伸びている。
深い緑色の瞳は穏やかだが、私たちの反応を静かに見極めているようにも見えた。
老獣人は部屋へ踏み込まず、扉の前で片膝をついた。
「初めてお目にかかります。お二人の身の回りを整えるよう、エシャール様より仰せつかっております。どうぞ、よろしくお願いいたします」
本物の執事を前に、どう返せばよいのか分からず、瑛太さんと二人で見つめてしまう。
本人は微動だにしなかったが、灰色の尾の先だけがわずかに揺れていた。
「驚かせてしまい、申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ黙り込んでしまって、すみません。どうぞ立ってください」
老獣人は一礼し、音も立てずに立ち上がった。
「私は真由です。身の回りを手伝ってくださる方がいると、エシャール様から聞いていました。これからよろしくお願いします」
「瑛太だ。よろしく頼む」
瑛太さんは簡潔に名乗ったあと、相手の目を真っすぐに見た。
「名前を聞いてもいいか?」
「私は、お二人に仕えるため、この箱庭へ参りました。まだ名はございませんので、どうぞお好きにお呼びください」
「名前がないんですか?」
思わず聞き返すと、老獣人は静かに頷いた。
「はい。お二人より賜った名を、今後の名としたく存じます」
まさか、出会ってすぐに名づけることになるとは思っていなかった。
困って瑛太さんを見ると、任せるというように小さく頷かれる。
改めて、目の前の老獣人へ視線を戻した。
灰色の狼耳と、長い年月を感じさせる佇まい。
執事服を自然に着こなす落ち着きと、深い森を思わせる緑の瞳。
いくつかの名前を頭の中で並べてみたが、どれもしっくりこない。
しばらく考えていると、ふと一つの響きが浮かんだ。
「ヴァルド、という名前はどうでしょう?」
老獣人の目が、ほんのわずかに見開かれた。
やがて静かに瞼を伏せ、深く頭を下げる。
「ヴァルド。確かに頂戴いたしました、奥様」
狼の耳がわずかに動き、尾の先が緩やかな弧を描いた。
表情は変わらないが、その反応が喜びを示しているように見えて、胸の奥がくすぐったくなる。
「以後、その名に恥じぬよう、奥様と旦那様にお仕えいたします」
「いい名前だ。似合っている」
瑛太さんの短い言葉が嬉しくて、私は小さく笑った。
「そうだといいな」
ヴァルドさんが控えめに咳払いをする。
「恐れながら、朝食の支度が整っております。食堂へご案内してもよろしいでしょうか」
「お願いします」
私たちはヴァルドさんのあとに続き、寝室を出た。
磨かれた木の廊下には、窓から入る朝の光が柔らかく反射している。
寝室は三階にあるらしく、廊下の先には下へ続く階段があった。
ヴァルドさんは少し前を歩きながら、私たちが遅れない距離を保っている。
歩調を合わせていると分からないほど自然で、すでに執事としての有能さが伝わってきた。
「ねえ、瑛太さん」
「どうした?」
「これ、夢じゃないんだよね?」
瑛太さんは一瞬だけ口元を緩めた。
「俺も同じことを考えていた」
「ご安心ください。お二人は、確かにこちらへいらっしゃいます」
前を歩くヴァルドさんに聞こえていたらしい。
瑛太さんの目がわずかに細くなる。
「聞こえていたか」
「獣人は人族より耳がよいものでございます。盗み聞くつもりはございませんでしたが、申し訳ありません」
灰色の耳が申し訳なさそうに伏せられた。
「気にしないでください。私たちも、聞かれて困る話をしていたわけではありませんから」
「ああ。問題ない」
「寛大なお言葉、感謝いたします」
ヴァルドさんは胸に手を当て、歩みを止めずに小さく頭を下げた。
階段を下りるにつれ、空気の中へ香ばしい匂いが混じり始めた。
焼きたてのパンと、野菜を煮込んだような甘い香りだ。
空腹を思い出した途端、お腹が小さく鳴りそうになる。
二階へ着くと、ヴァルドさんが一つの扉の前で足を止めた。
「こちらが食堂でございます」
扉の向こうには、木の梁が見える高い天井と、石造りの暖炉があった。
大きな窓から見えるのは、青空と朝露に濡れた草原だ。
部屋の中央には大きな木の食卓が置かれていた。
焼き色のついた白いパン、湯気を立てるスープ、瑞々しい果実、蜂蜜の小瓶が二人分並んでいる。
豪華ではないが、誰かを迎えるために丁寧に整えられた食卓だった。
「すごい……」
「いいな」
瑛太さんは室内を一度見回してから、ようやく肩の力を抜いた。
「どうぞ、お掛けください」
席につくと、焼きたてのパンの香りが一層濃くなる。
瑛太さんが先に一口食べ、わずかに目を細めた。
「美味い」
短い感想だが、本当に気に入ったことは伝わってくる。
私もパンをちぎり、口へ運んだ。
薄い皮はぱりっと香ばしく、中は柔らかい。
噛むほどに小麦の優しい甘みが広がった。
続けてスープを口に含む。
穏やかな塩味の中に野菜の甘みと香草の香りが溶け、温かさが喉から身体の奥へ落ちていく。
知らない世界で迎えた最初の朝に、こんなにもほっとする食事が待っているとは思わなかった。
「ヴァルドさん、この朝食は誰が作ったんですか?」
「私がご用意いたしました」
「ヴァルドさんが?」
思わず聞き返すと、ヴァルドさんは静かに頷いた。
「エシャール様から、クラウディスでは塩味のスープと黒パンが一般的だと聞いていました。最初からこれほど美味しい料理があるのなら、私たちが食文化を広める必要はないと思うのですが?」
「奥様のおっしゃるとおり、外の世界では塩味のスープと黒パンが一般的でございます」
ヴァルドさんは食卓の白いパンへ目を向けた。
「私はお二人の生活を支えるため、エシャール様より地球の食と暮らしに関する知識を授かっております。そのため、この朝食を整えることができました」
「そういうことだったんですね」
「クラウディスでは、食事は空腹を満たし、命をつなぐためのものと考える方が少なくありません」
ヴァルドさんの低く落ち着いた声が、温かな食堂へ静かに響く。
「しかし、食材が乏しいわけではございません。森や畑、海や川があり、香草、果実、肉、魚も手に入ります。足りないのは食材ではなく、それぞれを活かす知識と発想でございます」
私はスープの中に沈む野菜を見つめた。
材料はある。
けれど、それを美味しく食べようという考えが、まだ広く根づいていない。
エシャール様から聞いていた食文化を広げるという言葉が、目の前の食卓と結びついた。
ただ地球の料理をそのまま持ち込むのではない。
クラウディスにある食材を知り、この世界の人たちが作れる形へ変えていく必要がある。
ようやく、自分たちに求められていることが少し見えた気がした。
「食事のあとで、屋敷と箱庭をご案内いたします。どうぞ今は、ごゆっくりお召し上がりください」
「ありがとうございます、ヴァルドさん」
ヴァルドさんが深く頭を下げる。
狼の耳が、ほんの少しだけ誇らしげに立っていた。
隣では瑛太さんが、落ち着いた様子でパンをちぎっている。
その横顔を見ているうちに、胸の中に残っていた不安が少しずつ薄れていった。
温かな食卓があり、瑛太さんが隣にいる。
そして、私たちの新しい暮らしを支えてくれる人がいる。
それだけで、この知らない世界が、少しだけ生きていけそうな場所に見えた。
食事のあとに案内される箱庭には、どんな景色が広がっているのだろう。
不安ばかりだった胸の奥に、ほんの少しだけ楽しみが芽生えていた。
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