延びた滞在と、宿での暮らし
街門の前に立ったまま、行き交う人や荷馬車を眺める。
門を出ることはできるのに、私たちが帰るためには黒の森を通らなければならない。
丘陵地帯へ続く道が目の前に見えているだけに、帰れないという実感がなかなか湧かなかった。
けれど、いつまでもここに立っているわけにはいかない。
朝まで借りていた部屋は引き払い、今夜泊まる場所さえ決まっていなかった。
「ガイル、少し聞いてもいいですか?」
私が声をかけると、街門の外へ向けられていたガイルの視線がこちらへ戻る。
「こういう問題は、解決するまでどのくらいかかるものなんですか?」
「早けりゃ一週間ってところだな」
思っていたより長い答えに、思わず瑛太さんと顔を見合わせる。
数日の延泊で済むかもしれないと、どこかで楽観していたらしい。
「長けりゃ月単位だ」
「一か月以上かかることもあるんですか?」
「ゴブリンを片づけりゃ終わりとは限らねえからな」
ガイルは門の向こうへ顎をしゃくった。
「数が多けりゃ巣があるかもしれねえ。入口に集まった原因も分からねえままだ。討伐が終わっても、森を調べて安全を確かめるまでは制限を解かねえだろ」
広大な黒の森を調べるのだから、たとえゴブリンの討伐が順調に進んでも、翌日には通れるようになるとは限らない。
一週間と一か月では、宿の取り方も必要な物も変わってくる。
「今の段階じゃ、どっちになるかは分からねえ。すぐ帰れると思わねえ方がいいぞ」
「そうですね……」
黒の森の状況は、私たちがここで考えていても変わらない。
それなら、まずは落ち着いて過ごせる場所を確保するべきだ。
「先に宿へ戻ろう」
瑛太さんが短く告げる。
私が頷くと、ルクスもこちらを見上げて静かに立ち上がった。
朝に通ったばかりの道を、今度は反対へ歩いていく。
つい先ほどまでは、買い物を終えた満足感で足取りも軽かった。
同じ店先や看板を眺めながら戻っているはずなのに、今は一つ一つが妙に遠く感じられる。
瑛太さんが私の隣を歩き、ガイルは少し前で周囲へ目を配っていた。
ルクスの落ち着いた足音が途切れず聞こえているおかげか、戸惑いながらも足は止まらなかった。
やがて、見覚えのある鳥の看板が通りの先に見えてくる。
今朝、ルイーズに見送られて出たばかりなのに、その日のうちに戻ることになるとは思わなかった。
鳥の導き亭の扉を開けると、食堂の片づけをしていたエドさんが顔を上げた。
卓を拭いていた手が止まり、私たちの荷物へ目を向ける。
「おや、忘れ物か?」
「いや、またしばらく部屋を借りたい」
ガイルの答えを聞き、エドさんの表情から笑みが引いた。
何かあったと察したのだろう。
「黒の森を通れなくなった。帰れるまで、ここに泊まりてえ」
「今朝から立入制限がかかったという話か?」
「知ってるのか」
「ああ。さっき、ほかの客から聞いたところだ」
エドさんは持っていた布を卓へ置き、私たちをカウンターまで招いた。
奥へ向けてクロエさんを呼ぶ声が響く。
その声を聞きつけたのか、先に食堂へ飛び出してきたのはルイーズだった。
「ルクス!」
朝の別れがなかったかのような勢いで駆け寄り、ルクスの首元へ抱きつく。
ルクスは驚いた様子もなく尻尾を揺らし、ルイーズの頬へ鼻先を寄せた。
「もう帰ってきたの?」
「少し長く泊めてもらうことになりそうです」
「じゃあ、明日もいる?」
「はい。しばらくは一緒にいられますよ」
ルイーズの顔がぱっと明るくなる。
私たちにとっては困った足止めでも、これほど喜ばれると、沈んでいた気持ちが少しだけ和らいだ。
「ルイーズ、お話が終わるまでルクスを困らせないの」
「困らせてないよ」
厨房から出てきたクロエさんが、娘の言葉に苦笑する。
エドさんから事情を聞くと、すぐに宿泊台帳を取り出してくれた。
「どのくらい泊まる?」
「念のため一か月で計算してくれ。さっきまで泊まっていた部屋は使えるか?」
エドさんは台帳を開き、指で日付と予約を追っていく。
紙をめくる乾いた音がするたび、先の予約と重なっていないか気になり、私まで手元を目で追ってしまった。
「同じ部屋でよければ押さえられるぞ」
その答えに、詰めていた息をそっと吐く。
別の宿を一軒ずつ回らずに済むだけでもありがたかった。
「一か月分をまとめて払う。途中で出ることになった場合はどうなる?」
「残った日数分は返す。出る前日の朝までに言ってくれれば、その日以降の分を計算しよう」
「分かった。それで頼む」
エドさんが一か月分の料金を示すと、ガイルは金額を確かめてから硬貨を取り出した。
卓の上で数え、過不足がないことを二人で確認する。
契約の内容が宿泊台帳へ書き込まれ、朝に返したばかりの鍵が再び差し出された。
ガイルが二本の鍵を受け取り、そのうちの一本を瑛太さんへ渡す。
これで、少なくとも一か月は寝る場所に困らない。
部屋が決まると、次に気になったのは滞在中の食事だった。
鳥の導き亭の料理は温かくて美味しいものの、味つけは塩味が基本だ。
長ければ一か月も滞在するのだから、毎食を宿へ任せきりでは飽きてしまうだろう。
それに、街で買った食材を使って、自分でも料理をしたかった。
今朝は街で食材を買ったばかりだ。
箱庭に持ち帰って確かめるつもりだった物も、せっかくならここで少しずつ使ってみたい。
「クロエさん、もう一つ相談してもいいですか?」
「ええ、何でしょう?」
「滞在中、自分たちで簡単な料理をしたいんです。調理場をお借りすることはできますか?」
クロエさんはすぐに断ることも、安請け合いすることもなく、厨房の方へ一度目を向けた。
「宿の厨房は、朝と夕方には手が塞がってしまうんです。火も刃物も使いますから、お客様に自由に入っていただくことはできません」
「そうですよね……」
営業中の厨房へ部外者が出入りすれば、作業の邪魔になるだけではなく危険もある。
借りられないとしても仕方がないと思っていると、クロエさんは柔らかく笑った。
「ただ、裏に小さな調理場がありますよ」
「使わせてもらえるんですか?」
「宿泊中は自由に使ってください。ご案内しますね」
クロエさんに続き、食堂の奥から裏口へ回る。
扉の先には、母屋の壁に沿うように屋根が張り出していた。
その下へ竈と水場、木の作業台が収まっている。
屋外ではあるものの、三方を壁と板塀に囲まれているため、多少の風なら火が煽られることもなさそうだ。
作業台には包丁の跡がいくつも残り、竈の周りには煤がついている。
飾り気はないが、少人数分の食事を作るには十分な広さだった。
「旅の途中で買った物を調理したいお客様や、長く泊まる方が使う場所なんです」
クロエさんは竈の火のつけ方を見せ、薪と水桶の置き場所も教えてくれた。
鍋や包丁、まな板は、脇にある棚の物を使ってよいらしい。
「使い終わった道具は洗って、こちらへ戻してください。
火を消したあとは、念のため私かエドにも声をかけてもらえると助かります」
「分かりました。きちんと片づけます」
竈の前に立ち、鍋を置く場所と作業台までの距離を確かめる。
煮込みやスープ、炒め物なら問題なく作れそうだ。
材料を切る場所もあり、水もすぐそばで使える。
「オーブンはありませんよね?」
「こちらにはないんです。もし使いたい時は、前の日までに言ってください」
クロエさんの話では、翌朝に宿のパンを焼く際、空いた場所へ一緒に入れてくれるという。
焼く温度や時間は宿のパンに合わせる必要があるものの、事前に相談すればパンや焼き菓子も作れそうだ。
「朝のパンと一緒なら、こちらも手間が増えませんから」
「ありがとうございます。作りたい物が決まったら、前の日に相談しますね」
自分で料理できる場所が見つかったことで、予定外の長期滞在にも少しだけ楽しみが生まれる。
朝市で買った赤い根菜をどう使うか、乾物をどんな料理へ合わせるか、考え始めると試してみたい物が次々に浮かんできた。
食堂へ戻る途中で、クロエさんが宿の食事についても説明してくれた。
「お食事がいらない時は、前の食事の時に教えてくださいね」
昼食を取らないなら朝食の時、夕食が不要なら昼食の時に伝える。
翌朝の朝食がいらない場合は、前日の夕食までに伝えておけばよい。
「先に分かっていれば、作る量を調整できますから」
「毎回食べるかどうか、早めにお伝えします」
「前の日までに言っていただければ、お弁当も用意できますよ」
「お弁当もお願いできるんですか?」
「ええ。朝早く出る日でも、持っていけるようにしておきます」
宿で食べる日、自分たちで作る日、弁当を持って出かける日を、予定に合わせて選べる。
毎日同じ形に決めなくてよいだけで、暮らし方の幅がずいぶん広がった。
ひと通りの取り決めを確認し、私たちは再び二階へ上がった。
鍵を開けると、朝まで使っていた部屋が、出発前とほとんど変わらない姿で残っている。
荷物を置き、窓を開ける。
外から通りを行き交う人々の声と、荷車の車輪が石畳を転がる音が入ってきた。
朝には、買い物を終えたらそのまま帰るつもりだった。
それが今では、一か月分の部屋を借り、料理をする場所まで確保している。
「まさか、今日からここで暮らすことになるとは思わなかったな」
「帰れるようになるまでだ」
瑛太さんは荷物を壁際へ置くと、窓辺に立つ私の隣へ来た。
「不安か?」
「少しだけ。箱庭のみんなにも、何も伝えられないままだから」
「焦っても変わらない。できることをやろう」
「うん、そうだね」
窓の外へ視線を戻す。
帰れないことへの不安は、まだ消えていない。
それでも、眠る場所と食事を整えたことで、ただ立入制限が解かれるのを待つだけではなくなった。
予定外に始まったクロイティルでの暮らしを、ただ待つだけの時間にはしたくない。
まずは、この街でできることから始めてみよう。
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