宿の夕餉と、塞がれた帰り道
冒険者ギルドを出ると、空は夕暮れの色に染まり始めていた。
昼間よりも柔らかくなった陽射しが建物の壁を照らし、石畳の上に長い影を落としている。
試験を終えた安心からか、鳥の導き亭へ向かって歩き出した途端、肩や腕に重さを感じた。
魔法を使った回数は多くない。
それでも、失敗できないと身構えていたせいか、身体だけでなく頭まで疲れている。
「疲れたか」
隣を歩く瑛太さんが、私の歩調に合わせながら尋ねてきた。
「少しだけね。試験中は平気だったんだけど、終わったら急に力が抜けちゃった」
「宿までなら歩けるな」
「うん、それは大丈夫」
瑛太さんも試験を終えたばかりなのに、私の方を気にしている。
その横では、ルクスが落ち着いた足取りで歩いていた。
瑛太さんとの連携を褒められたことが分かっているのか、時折こちらを見上げる顔はどこか誇らしげに見える。
前を歩くガイルも、私たちとの距離が開かない程度に速度を緩めていた。
見覚えのある鳥の看板が見えてくると、ようやく息がつけた。
扉を開けた途端、食堂の方から煮込み料理の温かな匂いが流れてくる。
カウンターにいたエドさんが顔を上げ、その奥からクロエさんもこちらを見た。
「おかえりなさい」
先に声を上げたのはルイーズだった。
椅子から飛び降りると、私たちではなく真っすぐルクスのもとへ駆けてくる。
「ルクス、おかえり!」
「ウォフッ」
ルクスはその場に立ったまま尻尾を揺らし、差し出された小さな手へ鼻先を寄せた。
勢いよく飛びつくことも、顔を舐めることもない。
けれど、何度も左右へ動く尻尾を見れば、再会を喜んでいることは十分に伝わってきた。
「ルイーズ、入口を塞いじゃ駄目でしょう」
「はーい」
返事をしながらも、ルイーズの手はルクスの首元を撫で続けている。
クロエさんは困ったように笑ったあと、私たちの服へ目を向けた。
「ずいぶん土埃がついていますね。夕食までにはまだ時間がありますから、先にお風呂へ入ってきたらどうですか?」
言われて袖を見ると、手で払った程度では落ちなかった白っぽい土が残っていた。
このまま食卓へ着くのは落ち着かない。
「そうさせてもらいます。ありがとうございます」
必要のない荷物を部屋へ置き、着替えを持って浴室へ向かう。
扉を開けると、湿った熱気が頬を包み、石鹸のほのかな香りが鼻へ届いた。
身体を洗い、髪についた埃まで丁寧に流してから湯船へ入る。
肩まで湯に浸かると、固まっていた筋肉が少しずつ緩んでいった。
思わず長く息を吐けば、立ち上った湯気がわずかに揺れる。
試験では、魔法の形と狙い、威力の調整を評価してもらえた。
その一方で、発動までに時間がかかることと、魔法を放った直後に周囲への警戒が途切れることも分かった。
布の球が肩へ当たった感触を思い出し、湯の中で同じ場所へ手を当てる。
痛みは残っていない。
けれど、あれが魔物の牙や爪だったなら、驚いただけでは済まなかった。
登録証を受け取ったからといって、昨日までできなかったことが急にできるようになるわけではない。
冒険者になったというより、冒険者として経験を積み始める場所へ、ようやく立てたのだと思う。
十分に温まってから湯船を出て、濡れた髪と身体を拭く。
新しい服へ着替えて部屋へ戻る頃には、腕の重さも少し軽くなっていた。
身支度を整えて一階へ下りると、瑛太さんとガイルもすでに待っていた。
ルクスを連れて食堂へ足を踏み入れた途端、近くの卓で交わされていた会話が一瞬だけ途切れる。
こちらへ集まった視線は、私たちが席へ向かうにつれて少しずつ離れていった。
それでも、ルクスが私たちの席の横へ静かに伏せると、客たちもすぐに自分たちの食事へ戻っていった。
鳥の導き亭では、暴れたり周囲へ迷惑をかけたりしなければ、従魔も食堂へ入れる。
ルクスだけを部屋に残さず、皆で食卓を囲めることが嬉しかった。
「ルクスのごはん、わたしが持っていく!」
厨房から聞こえた声に振り向くと、ルイーズが大きな木の器を両手で抱えていた。
中には食べやすい大きさに切られた肉が山のように入っている。
「待ちなさい。落としたら危ないでしょう」
「大丈夫だよ。ちゃんと両手で持ってるもん」
「前が見えていないじゃない」
クロエさんが器の片側へ手を添え、二人でゆっくりと運んでくる。
ルクスは肉の匂いに鼻を動かしたものの、勝手に立ち上がらず、器が置かれるまで待っていた。
「はい、どうぞ!」
ルイーズが胸を張る。
私がルクスへ目を向けて頷くと、ようやく顔を器へ近づけた。
「ありがとう、ルイーズ。ルクスも喜んでいます」
「明日の朝も、わたしが持ってくるね」
「今度は小さい器に分けましょうね」
すかさず添えられたクロエさんの言葉に、食卓から笑いがこぼれた。
私たちの前にも、湯気の立つ煮込み料理とパン、それに焼いた肉が並べられる。
匙で煮込みをすくうと、柔らかく煮えた野菜と肉が一緒に入った。
口へ運べば、ほどよい塩気と温かさが身体へ染み込んでくる。
朝から動き続けていたのに、緊張のせいで空腹まで忘れていたらしい。
一口食べた途端、急にお腹が空いていたことを自覚した。
パンをちぎる手も、次の匙を運ぶ手も止まらない。
「美味しいね」
「ああ」
瑛太さんの返事は短いが、皿の中身は着実に減っている。
ガイルも黙々と食べており、足元ではルクスが肉を頬張っていた。
賑やかな食堂の中にいても、この席だけは箱庭の食卓に少し似た落ち着きがある。
食事が半ばまで進んだところで、明日の予定を確認する。
朝食を済ませたら宿を出て、八百屋や食料品店を見て回るつもりだ。
街でどのような食材が売られ、どのくらいの値段がついているのかは、屋台を眺めただけでは分からない。
「箱庭にないものがあれば、少し買ってみたいな。持ち帰って味も確かめたいし」
「買い過ぎるなよ」
「見るだけで全部買ったりしないよ」
「前にも聞いた」
瑛太さんに静かに返され、言葉に詰まる。
欲しい物を一つずつ選んでいたはずなのに、気づけば数が増えていたことは何度かあった。
「必要な分だけにします」
「ならいい」
今回は街の食材を知ることを優先し、箱庭にない物や味を確かめたい物だけを少量買うことにした。
買った物はインベントリへ入れられるので、持ち運びを気にする必要はない。
それでも、目についた物を何でも買うのではなく、まずは店先をじっくり見て回ろう。
翌日の予定が決まる頃には、食堂に残っていた客も少なくなっていた。
空になった食器が下げられ、賑やかだった室内も少しずつ静けさを取り戻していく。
私たちも席を立ち、クロエさんに夕食の礼を伝えてから二階の部屋へ戻った。
部屋へ入ると、試験を終えた安堵もあってか、一日の疲れがまとめて押し寄せてきた。
温かな食事で満たされた身体は重く、椅子に腰を下ろした途端、しばらく動きたくなくなる。
それでも、明日の朝になって慌てないよう、街へ出る支度だけは整えておく。
荷物を確認し、買い物へ持っていく物と、宿へ置いていく物を分けてから寝台へ向かった。
横になると、食堂からかすかに聞こえていた話し声も、やがて気にならなくなった。
今日一日の出来事を振り返る間もなく瞼が重くなり、そのまま眠りへ落ちていく。
次に目を開けた時には、窓から差し込む朝の光が部屋の床を明るく照らしていた。
朝食を終えて荷物をまとめ、一階へ下りる。
エドさんとクロエさんへ鍵を返すと、ルイーズが名残惜しそうにルクスの首へ腕を回した。
ルクスは嫌がる様子もなく、その場でじっとしている。
「もう帰っちゃうの?」
「はい。でも、またクロイティルへ来るつもりです。その時も、こちらへ泊めてもらえたら嬉しいです」
「絶対だよ。ルクスも一緒だよ」
「もちろんです」
ルイーズはようやく腕を離すと、何度も手を振って私たちを見送ってくれた。
扉の外へ出ても、背後から聞こえる元気な声はしばらく途切れなかった。
朝の通りは、すでに行き交う人々で賑わっている。
商店の並ぶ一角へ向かうと、八百屋の店先には木箱や籠が所狭しと並んでいた。
葉の色が濃い野菜、地球の根菜に似た物、表面に細かな棘が並ぶ実まで、形も色も様々だ。
まずは店先を端から見ていく。
箱庭にある野菜と似ていても、大きさや香りが少し違う物も多い。
値札を確かめながら手に取るたび、店主が食べ頃や保存できる日数を教えてくれた。
料理へ使えそうな物を見つけるたび、すぐに籠へ入れたくなってしまう。
けれど、今日は下見も兼ねている。
瑛太さんの視線を感じながら選んだのは、甘みが強いという小さな赤い根菜と、乾燥させれば長く保存できる薄緑色の豆だけだった。
次に乾物を扱う店へ入り、棚に並ぶ袋を見せてもらった。
干した茸や豆、細く裂いて乾燥させた野菜の中から、箱庭ではまだ作っていない物を少量ずつ買った。
香りや戻した時の食感が分かれば、今後どれを育て、どれを街で買うかも考えやすい。
「これで終わりか」
「もう一軒だけ見たいです」
ガイルの問いに答え、最後に穀物を扱う店へ立ち寄った。
粉の細かさや色を見比べ、値段を頭へ入れていく。
予定より長くなってしまったものの、買った量は両手で抱えられる程度に収まっていた。
「ちゃんと少しで済んだでしょ」
「今日はな」
瑛太さんの返事に笑いながら、買った物をインベントリへ収めた。
これで街で済ませたいことは終わりだ。
あとは黒の森を抜け、箱庭へ戻るだけだ。
来た道をたどり、街門へ向かう。
門の周辺では、今日も荷馬車や旅人が行き交っていた。
足を止めずに近づくと、門のそばに見覚えのある男性がいた。
私たちが街へ入った時、黒の森の入口にゴブリンが集まっていると報告した門兵だ。
向こうもルクスとガイルの姿に気づいたらしく、人の間を抜けてこちらへ歩み寄ってきた。
「お前たちか。昨日はゴブリンのことを知らせてくれて助かった」
門兵がこちらへ声をかけると、ガイルが足を止めた。
「その後、何か分かったのか?」
「詳しい話は後でする。そういえば、まだ名乗っていなかったな。俺はレオンだ。普段はこの門にいる」
「ガイルだ。この二人の護衛をしている」
レオンは私と瑛太さんへ順に目を向けてから、ルクスの姿も確かめた。
「護衛がガイルで、そっちの二人は夫婦だったな」
「はい。私は真由。こちらは夫の瑛太さんです」
「瑛太だ」
「よろしく頼む」
短く名乗り合ったあと、昨日報告したゴブリンのことを思い出す。
「黒の森で、何かあったんですか?」
問いかけると、レオンの口元から穏やかさが消える。
周囲の旅人たちへ聞こえないようにするためか、少しだけ声を落とす。
「黒の森入口付近に、ゴブリンの大群が巣食っていることが分かった。正確な数も、なぜ集まったのかも、まだ確認できていない」
大群という言葉に、胸の内がひやりと冷えた。
街へ来る途中でもゴブリンとは何度か遭遇したが、ガイルは数が増えていると話していた。
それらが散らばっていただけではなく、入口付近にまとまっているらしい。
「今朝から黒の森への出入りを制限している。調査を任された兵士と、許可を受けた冒険者以外は通せない」
「確認された場所は、街側の入口だけか?」
ガイルの声が低くなる。
「今のところはな。ただし、広大な黒の森全てを調査はできない。安全が確認できるまでは、どこから入る場合も同じだ」
「制限は、いつ解除される?」
瑛太さんが端的に尋ねた。
「今は答えられない。少なくとも、今日中に解除できるとは約束できない」
レオンはそこで一度言葉を切り、私たちの荷物へ目を向ける。
「黒の森を通って帰る予定だったのか?」
「はい。今日中に戻るつもりでした」
「街から出ることは止めない。ゴブリンも、今のところ森の外では確認されていない。ただ、黒の森へ入ることは許可できない」
迷いのない声だ。
頼み込んだところで、私たちだけを例外にしてもらえるはずもない。
昨日登録したばかりの私たちには、調査へ加わる資格も、状況を変える力もない。
街門の向こうには、丘陵地帯を越えて黒の森へ続く道が伸びている。
道を進むことはできても、その先にある森へは入れない。
まさか、出発するつもりで宿を引き払ったその日に、帰れなくなるとは思わなかった。
制限がいつ解かれるのかも分からず、今夜の宿さえ決めていない。
買い物を詰めた荷物を抱えたまま、私たちは街門の前で途方に暮れていた。
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