明日へ向かう、静かな食卓
食堂の扉を開けると、瑛太さんはもう席についていた。
鍛冶場から戻ったばかりなのだろう、袖口がまだ少し煤で汚れている。
私に気付くと、軽く目線だけをこちらへ向けた。
「遅くなってごめんね」
「いや」
短い返事に、いつもの安心感がある。
向かいの席へ腰を下ろすと、ヴァルドが手際よく料理を並べていった。
ローストビーフ、マッシュモルガ、カルナのグラッセ、サラダ、そして焼き直した黒パン。
湯気の立つ皿が並ぶと、食堂の空気まで少し華やいだ気がした。
「では、ごゆっくりどうぞ」
ヴァルドが一礼して下がっていく。
扉が静かに閉まると、食堂には二人きりになった。
窓の外はすっかり暗くなっていて、ランタンの灯りが料理の表面を柔らかく照らしている。
「じゃあ、いただきます」
「ああ」
ナイフを入れると、思っていた以上に柔らかい手応えだった。
断面の赤みが、灯りを受けて艶やかに光る。
一口運ぶと、香草の香りが鼻を抜けたあとに、肉そのものの甘みが追いかけてきた。
噛むほどに脂の旨みが広がって、思わず頬が緩む。
「美味しい……ちゃんとできてた」
「ああ」
瑛太さんも一口食べて、小さく頷いた。
派手な反応はしない。
それでも、フォークが止まらないのを見れば十分だった。
マッシュモルガも一口。
バターの香りが柔らかく鼻へ抜けて、口の中でほろりとほどけていく。
向かいを見ると、瑛太さんはすでにマッシュモルガへ二口目のフォークを伸ばしていた。
派手な反応はしないのに、気付くと真っ先になくなっている。
その癖は、世界が変わっても変わらないらしい。
カルナのグラッセも味を確かめる。
セルナ糖の甘さが、思っていたより少し強く出ていた。
それでも瑛太さんの皿からは、いつの間にか綺麗になくなっている。
甘さが気になるようなら残しそうなものだけれど、その様子はなかった。
ふと視線を上げると、瑛太さんが黒パンを一切れ手に取っていた。
その上へマッシュモルガをたっぷりと乗せ、ローストビーフを重ねていく。
迷いのない手付きだった。
一口かじって、そのまま咀嚼する。
表情はほとんど動かないけれど、二枚目のパンへ手が伸びるのを見て、気に入っているのだと分かった。
「相変わらず、マッシュモルガ好きだね」
軽く声を掛けると、瑛太さんはパンを見つめたまま小さく頷いた。
「八十の誕生日以来か」
「そんなに前……」
「また食べられて嬉しい」
付け加えられた一言に、胸の奥がじんと温かくなる。
飾らない分だけ、その言葉は真っ直ぐ届いた。
「また作れて嬉しいよ……。私もやってみようかな」
真似をして同じように重ねてみる。
一口かじると、香ばしいパンの奥からバターの香りが広がり、そこへ肉の旨みが重なった。
思っていた通り、悪くない組み合わせだった。
しばらくは、二人とも黙って食事を進めた。
ナイフとフォークの触れ合う音。
窓の外から届く、虫の声。
静かな時間が、心地よく食堂を満たしていく。
サラダを口に運びながら、私はふと箸を止めた。
「明日から、ちゃんと外に出るんだね」
「ああ」
「五日前まで、こんなことになるなんて思ってもいなかったのにね」
瑛太さんは少し考えるように視線を落とした。
「早いな」
「うん。でも、ちゃんと準備はしてこられた気がする」
ポーションも、指輪も、冒険用の衣服も。
一つずつ積み重ねてきたものが、明日への支えになっている。
そう思うと、不安の中にも小さな落ち着きがあった。
「不安か」
唐突な問いに、少し驚いて顔を上げる。
瑛太さんはこちらをまっすぐ見ていた。
「少しはね。でも、大丈夫。瑛太さんもガイルもいるし」
「ああ。何かあれば守る」
当たり前のことのように言うから、余計に安心してしまう。
飾らない言葉ほど、胸の奥に真っ直ぐ届くものだと知った。
「魔法の方も、足を引っ張らないくらいには頑張るね」
「無理はするな」
短く返されて、思わず笑ってしまった。
こういうところが、彼らしいと思う。
ローストビーフを食べ終える頃には、皿の上もすっかり片付いていた。
最後に残ったマッシュモルガを一口すくって、瑛太さんが小さく息をつく。
「美味かった」
「良かった。久しぶりに作ったから、ちょっと心配してたんだ」
「十分だ」
その一言で、今日一日の疲れが少しほどけていく気がした。
食卓に並んだ料理は、ただの夕食ではなかった。
明日へ向かう気持ちを整えるための、大切な時間だったのだと、食べ終えた今になって実感する。
窓の外では、月明かりが庭木の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
明日には、この景色ともしばらくお別れになる。
そう思うと、少しだけ名残惜しさが胸をよぎった。
食後のお茶が運ばれてくる頃、ヴァルドが静かに食堂へ入ってきた。
後片付けはリナに任せているのだろう、いつも通り落ち着いた足取りだった。
湯気の立つカップをテーブルへ置くと、一歩下がって姿勢を正す。
ジャスミンに似た香りが、皿の匂いに混じってふわりと立ち上った。
「旦那様、奥様。明日の段取りについて、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
姿勢を正すと、ヴァルドは淡々とした口調で話し始めた。
声の高さも速さも、いつもと変わらない。
それが、かえって落ち着く。
「明朝は六時に起床いただき、身支度を整えていただきます。お召し物は、エシャール様よりお預かりしております冒険用の装いをお使いください」
「あの、黒いコートの……ですよね」
「左様でございます」
頷きながら、頭の中で朝の流れを組み立てる。
起きて、着替えて、朝食。
そこまでは、いつもと大きく変わらない。
「移動についても、ご説明いたします」
ヴァルドが一度言葉を区切り、続けた。
「森の教会に、転移の魔法陣がございます。そこから黒の森の中、隠匿された洞窟へ一度移動いただきます。洞窟にて朝食を取っていただいたのち、森を抜けての移動となります。朝食の際に、ガイルより必要な荷物をお渡しいたします」
「なるほど。じゃあ朝食の休憩の時に受け取ればいいんですね」
「その通りでございます」
瑛太さんが小さく相槌を打つ。
黙って聞いているようで、話の流れはちゃんと追っているのが分かった。
「森を抜けて、そのままクロイティルまで……ですか」
「はい。順調に進めば、昼過ぎには到着できるかと存じます」
思っていたより、道のりは短い。
それでも、初めて歩く道だ。
気は抜けない。
「道中、魔物は?」
瑛太さんが短く尋ねる。
ヴァルドは表情を変えずに答えた。
「主に、ゴブリン、スライム、一角兎などにございます。いずれも、初級冒険者でも対処可能な相手です」
「戦い方は」
「基本は、お二人の魔法による遠距離攻撃を主体としていただきます。近距離での対応は、ガイルとルクスが担います」
瑛太さんが小さく頷いた。
カップに口をつけて、一息つく。
温かいお茶が喉を通ると、少しだけ肩の力が抜けた。
「街へ着いたら、まず何をすればいいんですか?」
尋ねると、ヴァルドは小さく頷いた。
「クロイティルへの入街には、身分証の提示が必要となります。お二人は正式な身分証をお持ちでないため、入街税として、お一人銀貨五枚、従魔は一匹当たり銀貨二枚をお納めいただくことになります」
「なるほど。まずは税を払って入るんですね」
「はい。街の中で活動されるには、別途、冒険者ギルドにて身分証の発行が必要となります。到着後、まず登録を済ませていただくのがよろしいかと」
「ギルド証、ですね。覚えておきます」
「はい。登録の詳しい流れは、ガイルがご案内いたします」
一つひとつ、知らないことが少しずつ形になっていく。
不安がなくなるわけではないけれど、知っている分だけ足元は安定する気がした。
「他に、気を付けることはありますか」
「街の中では、魔法や武器の使用が制限されております。命に関わる場合を除き、控えていただければと存じます」
「それは、ガイルから前に聞きました」
「はい。念のための確認でございます」
一通りの説明を終えると、ヴァルドは静かに頭を下げた。
「私からは以上でございます。何かご不明な点はございますか」
「大丈夫です。ありがとうございます、ヴァルド」
「もったいないお言葉でございます」
ヴァルドが食堂を出ていくと、静けさが戻ってきた。
明日の流れが頭の中で整理されていく分だけ、不安の輪郭も少しはっきりした。
それでも、知らないままより、ずっと気が楽だった。
「なんだか、実感湧いてきた」
「ああ」
「瑛太さんは、緊張してる?」
少し意地悪な質問だったかもしれない。
瑛太さんは一瞬だけ考えるように黙ってから、静かに答えた。
「多少はな」
その一言だけで、十分だった。
いつも通り静かな人でも、明日を前にして揺れるものはあるらしい。
それが分かっただけで、なんだか少し嬉しかった。
二人で部屋へ戻ると、窓の外の月は先程よりも高い位置にあった。
淡い光が床の一部を四角く照らし、部屋の空気はひんやりと澄んでいる。
明かりを落として、並んでベッドへ入る。
布団の中は、いつもと変わらない温もりがあった。
柔らかなシーツの感触が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
「明日、よろしくね」
「ああ」
短いやり取りのあとも、なかなか目は閉じなかった。
隣から聞こえる、瑛太さんの穏やかな息遣い。
その規則正しさに、少しずつ気持ちが落ち着いていく。
窓の外では、虫の声がまだ細く続いていた。
この五日間、色々なことがあった。
知らない世界に来て、知らない生活を積み重ねて。
それでも、隣に瑛太さんがいてくれるから、不安ばかりではいられなかった。
明日からは、その積み重ねを胸に、初めて箱庭の外へ出る。
目を閉じると、瑛太さんの手が、そっと私の手に重なった。
指輪の硬い感触が、重なった手の隙間で小さく冷たい。
それでも、包み込む手のひらは温かかった。
何も言わない。
それでも、その温もりだけで、十分すぎるくらいだった。
指先に伝わる体温を確かめながら、私はゆっくりと瞼を閉じる。
静かな夜が、ゆっくりと更けていく。
ここまでは、転生してからの数日間を、できるだけ丁寧に描いてきたつもりです。派手な出来事はなくても、料理を作る手つき、食卓を囲む時間、訓練場での小さな進歩——そうした暮らしの一つひとつに、瑛太と真由の関係が少しずつ形になっていく様子を込めました。
第一章はここで一区切りですが、二人の物語はまだ始まったばかりです。
次からは箱庭の外、知らない街へと足を踏み出します。第二章も、二人の暮らしを丁寧に描いていけたらと思っています。
最後まで読んでくださった方、ここまで見守ってくださった方に、心からお礼を申し上げます。
第二章も、どうぞよろしくお願いします。
もし少しでも楽しんでいただけたら、
続きも読んでいただけると嬉しいです。
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