閑話:深夜の来訪者
午後の日差しが病室へ差し込み、白いカーテンがゆっくりと揺れていた。
廊下からはナースコールの音や、看護師さんたちの話し声が時折聞こえてくる。
昼間の病院は思っていたより賑やかで、静かなのは個室の中くらいだった。
それでも扉を閉めているおかげで落ち着いて過ごせていて、退院も近いと言われた今は気持ちにも少し余裕が出てきている。
そんな穏やかな時間を破るように、病室の扉が勢いよく開いた。
「おくさまー!」
元気いっぱいの声と一緒に、リーフが大きな籠を抱えて飛び込んでくる。
籠の中には色鮮やかな果物と、小さな花束が入っていた。
「こんにちは、リーフ」
「こんにちはです! もうげんきですか?」
「うん。予定通りに退院できそうよ」
「ほんとですか! よかったです!」
自分のことのように喜ぶリーフを見ていると、自然と頬が緩んでしまう。
リーフは籠を机へ置くと、果物を一つずつ並べながら病室を興味深そうに見回していた。
「びょういんって、おもってたよりにぎやかなんですね」
「昼間はね。ナースコールも鳴るし、人もたくさん歩いてるから」
「でも、おへやはしずかですね」
「個室だからかな。扉を閉めると結構落ち着くよ」
リーフは『へぇー』と感心したように頷きながら椅子へ腰を下ろした。
見舞いというより遊びに来たような雰囲気で、その無邪気さに思わず笑ってしまう。
しばらく箱庭のみんなの話をしていると、リーフがふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、おくさま!」
「うん?」
「にゅういんしてるあいだ、おもしろいことってありましたか?」
その一言で、私は思わず吹き出した。
「面白いことって……」
「ありますよね?」
「いや、笑い話にはなったけど、その時は本気で怖かった話なら」
「こわかったんですか?」
「うん。本気で心臓止まるかと思った」
そこまで言うと、リーフはぐっと身を乗り出してくる。
「ききたいです!」
「じゃあ話すけど……夜中の話なんだ」
その日は消灯時間も過ぎていた。
昼間は賑やかだった廊下も、人の行き来はずいぶん少なくなっている。
それでも遠くでは、時折ナースコールの音が響いていた。
昼間ほどの賑やかさはないけれど、完全な静寂でもない。
そんな、夜の病院らしい空気だった。
看護師さんが部屋へ入ってきて、点滴を確認する。
「体調は大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「何かありましたらナースコールを押してくださいね」
「ありがとうございます」
看護師さんは笑顔で部屋を出ていった。
まだ巡回を終えたばかりだ。
しばらくこの部屋へ来ることはないはずだと思いながら、私は点滴の落ちる小さな音を聞きつつ目を閉じた。
部屋の照明は落とされ、窓の外もすっかり暗くなっている。
眠気はすぐにやってきて、そのまま意識はゆっくりと沈んでいった。
……どれくらい眠っていただろう。
何となく、誰かいる。
夢なのか現実なのか分からない。
それでも近くに誰かが立っているような気配だけは、はっきりと感じていた。
看護師さんかな、と一瞬思う。
でも、さっき巡回したばかりだ。
まだ来る時間じゃない。
それなのに気配は消えず、その違和感だけが少しずつ私の意識を浮かび上がらせていく。
重たい瞼をゆっくり開ける。
眼鏡を外したまま寝ていたせいで、視界はぼんやりと霞んでいた。
それでも、ぼやけた輪郭は少しずつ形を捉えていく。
壁際に、誰かが立っている。
入院服を着た人影だった。
顔まではっきりとは見えない。
それでも、看護師さんではないことだけは分かった。
ゆっくりと目を凝らす。
知らないおじいさんだった。
「うわぁ!」
自分でも驚くくらい大きな声が病室へ響いた。
心臓がどくんと大きく跳ねる。
だって、ここは個室だ。
夜中に知らないおじいさんが部屋の中へ立っていたら、誰だって驚く。
私が声を上げた途端、廊下から慌ただしい足音が近付いてきた。
病室の扉が勢いよく開き、看護師さんが駆け込んでくる。
「どうされました!?」
私は壁際を指差した。
「あ、あそこに……!」
看護師さんは私の指差す先を見ると、一瞬だけ表情を緩めた。
「あら、また○○さんでしたか〜」
その声があまりにも落ち着いていて、私は思わず固まる。
「えっ……また?」
「たまに、お部屋を出て歩かれてしまうんですよ」
看護師さんは慣れた様子でおじいさんの隣へ歩いていく。
「○○さん、お部屋へ戻りましょうか」
おじいさんはきょろきょろと辺りを見回し、不思議そうな顔をしている。
「あれぇ……?」
「こちらですよ」
看護師さんは優しく声を掛け、おじいさんの歩幅に合わせながら病室を出ていった。
扉が閉まると、部屋はまた静かになる。
さっきまで本気で怖かったのに、看護師さんの反応があまりにも慣れすぎていて、何だか現実味がなくなってしまった。
「す、すみません……」
「いえいえ。驚かせてしまって申し訳ありません」
看護師さんは苦笑しながら頭を下げる。
「昼も夜も、いろいろなお部屋へ行かれることがあるんです。巡回中やセンサーで気を付けているんですけど、目を離した隙に歩いて行かれてしまって」
「そうだったんですね……」
いやいや。
本気で心臓が止まるかと思ったんだけど。
看護師さんが部屋を出ていった後も、私はしばらく眠れなかった。
壁際を見るたびに、さっきまでおじいさんが立っていた光景を思い出してしまう。
結局その日は、朝まで何度も目を覚ましてしまった。
「……ということがあったんだよ」
話し終えると、リーフはぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「こ、こわいです……」
「本当に怖かったよ」
「ぼくだったら、もっとおおきなこえでさけびます」
その時、病室の扉が開いた。
「何の話だ?」
腕を組んだガイルが呆れたような顔で立っている。
「夜中に知らないおじいさんが部屋にいた話」
「ああ」
事情を聞き終えると、ガイルは小さくため息を吐いた。
「災難だったな」
「でしょ?」
「だが、お前は運がいい」
「え?」
「看護師がすぐ来た」
「それはそうだけど……」
「本当に危ない時も、ああやってすぐ来る」
そう言われると、その通りだった。
あの時は怖さしかなかったけれど、ナースコールを押す前に駆け付けてくれた看護師さんには、本当に感謝しかない。
「でも、もう夜中に目が覚めても壁際を見る癖が付いちゃったよ」
「ぼくも、よるにめがさめたら、かべみちゃいます……」
「気にするな。この部屋にはもう来ないだろ」
「そう願いたいよ」
三人で顔を見合わせる。
怖かった出来事だったけれど、今ではこうして笑い話にできている。
それでも、夜中に壁際へ人影が見えた時のことだけは、たぶんしばらく忘れられそうになかった。




