転生準備 その1 <エシャール目線>
真っ白な部屋は、いつ訪れても落ち着かない。
床も壁も天井も、すべてが同じ白に塗り潰され、境目が見当たらない。
どこまでが床で、どこからが壁なのか。
目を凝らしても判然とせず、影さえも薄かった。
空気には暑さも寒さもなく、時の流れを知らせるものもない。
魂を迎えるために用意した場所とはいえ、長く過ごしたいと思える部屋ではなかった。
私は隅に置いたロッキングチェアに腰掛け、爪先で床を軽く蹴った。
身体が前後に揺れるたび、椅子の脚がギィ、ギィと軋む。
耳へ届くのは、その小さな音だけだった。
視線の先には、一組の男女が並んで横たわっている。
真由さんと、瑛太さん。
ようやく、二人をここへ迎えることができた。
地球を覗き続けて、数十年。
料理人や研究者をはじめ、数え切れないほどの人々を見てきた。
豊かな知識を持つ者もいた。
誰も思いつかない料理を生み出す者や、優れた技術で多くの人を救う者もいた。
けれど、知識や才能だけでは選べない。
その力を何に使うのか。
見知らぬ世界で思いどおりにならないことが起きても、他者の暮らしを踏みにじらずにいられるのか。
考え方に少しでも危うさがあれば、候補から外さなければならなかった。
この人ならと思った頃には、ほかの神が先に目をつけていたこともある。
幾人もの候補を見送り、そのたびに惜しいと思いながら諦めた。
そうして慎重に探し続けた末、ようやく見つけたのが、この二人だった。
それなのに、いざ話をする時が来ると、胸の奥が妙にそわそわする。
椅子を揺らす足を止めようとしても、すぐにまた動いてしまった。
失敗は許されない。
二人がどのような選択をするかによって、これからのクラウディスは少なからず変わるだろう。
食文化を根付かせるという目的だけを考えても、急がず、慎重に話を進める必要がある。
けれど、落ち着かない理由はそれだけではなかった。
私は、この二人を気に入っている。
初めは、クラウディスへ招く候補として観察していただけだった。
やがて、同じ食卓を囲み、ささやかな出来事に笑い、ときには意見を違えながらも隣で暮らし続ける二人を、親しみを持って見守るようになった。
瑛太さんが先に生涯を終え、その後を追うように真由さんも息を引き取った。
神である私にとって、二人の魂が再び揃うまでの月日は長いものではない。
それでも、真由さんがここへ来るのを待つ時間は、ひどく長く感じられた。
ギィ……ギィ……。
静かな空間に椅子の音だけが響く。
その合間に、瑛太さんの指先がわずかに動いた。
「……っ」
眉間に皺が寄り、閉じられていた瞼が震える。
小さく呻いたあと、瑛太さんは片手を背中へ回しながら、ゆっくりと上体を起こした。
「うっ……背中が痛い」
硬い床に長く寝かされていたと思ったのだろう。
背中を押さえたまま首を回し、肩を何度か動かしている。
やがて目を開くと、瑛太さんは白い空間を見渡し、そのまま動きを止めた。
窓も扉もなく、家具と呼べるものは私のロッキングチェアしかない。
床へ手をつき、指先で表面を確かめても、冷たさも温かさも感じられないはずだ。
地球の常識の中で生きてきた瑛太さんには、現実味のない場所に見えるだろう。
何度か瞬きを繰り返す様子からも、混乱が伝わってくる。
私は椅子の揺れを止め、軽く咳払いをした。
「初めてのことですので、少々強引な導き方になってしまいました。身体の痛み以外に、何か問題はありませんか?」
瑛太さんはすぐには答えなかった。
声は届いているはずだが、今いる場所を理解することに意識を取られ、私の言葉までは追いついていないようだった。
「ここは、どこだ?」
低い声で尋ねながら、再び周囲へ視線を巡らせる。
声こそ落ち着いているものの、その目には警戒が滲んでいた。
私は胸の内で小さく息を吐く。
目覚める順番を選べるのなら、真由さんを先にした方がよかったかもしれない。
真由さんは異世界や転生を扱った物語をいくつも知っている。
一方、瑛太さんには、そうした概念への馴染みがあまりない。
今から説明を始めるより、真由さんが目を覚ましてからの方が理解してもらいやすいはずだった。
瑛太さんは自分の手足が動くことを確かめると、ふいに背後を振り返った。
床に横たわる真由さんを見つけた瞬間、その表情から戸惑いが消えた。
「……真由さん」
低く沈んだ声と同時に、床を滑るように駆け寄る。
真由さんの肩と背中に腕を回し、傷つけないよう慎重に身体を抱き起こした。
「真由さん、どうした。聞こえるか」
呼びかけながら頬へ触れ、顔色を確かめる。
抱き寄せる腕には力が込められているのに、その手つきはどこまでも丁寧だった。
その姿を見つめながら、私は目を細めた。
やはり、この二人を選んでよかった。
クラウディスに必要なのは、料理の知識や技術だけではない。
どれほど美味しい料理を生み出しても、人々の暮らしに受け入れる余裕がなければ、文化として根付くことはない。
日々の生活を整え、困難に直面しても投げ出さず、小さな変化を積み重ねられる者が必要だった。
瑛太さんは、大切な人を守るためなら、見知らぬ場所でも踏みとどまれる人だ。
真由さんが新しい料理や技術を生み出す間、必要な道具を作り、暮らしを別の面から支えてくれるだろう。
やがて、真由さんの瞼が小さく動いた。
「真由さんは、まもなく目を覚まします。どうか、落ち着いてください」
私が告げると、瑛太さんはようやくこちらを見た。
先ほどまでの戸惑いとは違う、鋭い視線だった。
私が敵なのか。
真由さんに危害を加えた存在なのか。
わずかな動きも見逃すまいと、私を見極めようとしている。
「あんたは誰だ」
怒鳴ってはいない。
けれど、低く抑えられた声には明確な警戒があった。
「ここはどこだ。なぜ真由さんが倒れている」
真由さんを腕に抱いたまま、私から目を逸らさない。
「説明してもらおうか」
感情に任せて問い詰めるのではなく、必要な答えだけを求めている。
私が曖昧な返事をすれば、すぐに真由さんを連れて離れようとするだろう。
この部屋には逃げられる場所などないのだけれど、今それを伝えれば、余計に警戒させるだけだった。
どう説明したものかと言葉を選んでいると、真由さんの目が勢いよく開いた。
「瑛太さん、うるさい」
瑛太さんの動きが、わずかに止まった。
真由さんは抱き起こされていることを確かめ、乱れた髪を手でかき上げた。
寝起きのぼんやりとした目を瑛太さんへ向けたあと、何もない白い部屋を見回している。
やがて、その視線が私のところで止まった。
私はロッキングチェアから立ち上がり、二人に向き直る。
「私の名はエシャール。クラウディスを管理する女神です。お二人に異世界転生をお願いするため、こちらへお呼びしました」
二人は揃って動きを止めた。
瑛太さんは眉を寄せ、真由さんは口をわずかに開けたまま、私を見つめている。
すぐには信じられないのも無理はない。
「お身体に問題はありませんか?」
先に我に返ったのは真由さんだった。
自分の手足を確かめてから、慎重に口を開く。
「はい……大丈夫です。少し身体が痛いくらいで。それより、どうして私たちなんですか?」
予想していた質問に頷き、私は長い間、地球を観察してきたことを話した。
「私が創ったクラウディスでは、食文化の発展が遅れています。そこで料理人や研究者をはじめ、様々な方を候補として検討してきました」
真由さんは小さく頷きながら耳を傾けている。
瑛太さんは黙ったまま、私と真由さんの様子を見ていた。
「ですが、知識や才能があればよいわけではありません。優れた力を持つ方ほど、短い時間で大きな結果を出そうとすることがあります」
「それでは、駄目なのですか?」
「はい。私が望んでいるのは、国や世界を急激に変える革命ではありません。人々の日々の暮らしへ自然に入り込み、長い時間をかけて根付いていく、緩やかな変化です」
真由さんは一度視線を落とした。
言葉の意味を自分の知るものへ置き換えるように、少し考えてから顔を上げる。
「毎日の食卓が、少しずつ良くなっていくような変化ですか?」
「そのとおりです」
ようやく意図が伝わったことに安堵しながら、私は話を続けた。
「クラウディスには魔物が存在し、地球とは異なる危険もあります。だからこそ、一人で知識を広める方ではなく、互いに支え合える関係が必要でした。そう考えたとき、お二人のようなご夫婦が最も適していたのです」
真由さんは瑛太さんを見上げ、それから私へ視線を戻した。
「つまり、食文化を広げるために、私たちに転生してほしいということですよね」
「はい。ただし、無理に広める必要はありません。まずはお二人が新しい世界で暮らし、その中で生まれたものを少しずつ伝えてくだされば十分です」
そこで、それまで黙っていた瑛太さんが口を開いた。
「俺たちは、どうなる」
短い問いだった。
転生の目的よりも先に、自分たちがどのような状態になるのかを確かめたいのだろう。
「お二人が望む年齢の身体で転生できます。地球で患った病気や、老いによる身体の不調を持ち越すこともありません。寿命は、選んだ種族に準じます」
私はそこで言葉を切り、二人の顔を見た。
これから伝えることが、二人にとって何より大きな意味を持つと分かっていた。
「また、お二人の寿命を揃えることも可能です」
その瞬間、二人の間に流れる空気が変わった。
先に息を引き取った瑛太さんと、残された真由さん。
二人にとって寿命の違いは、簡単に聞き流せるものではない。
真由さんは唇を結び、小さく息を吐いた。
やがて隣にいる瑛太さんを見つめる。
「……瑛太さん、どうする?」
瑛太さんは視線を落とし、しばらく何も言わなかった。
けれど、顔を上げたときには、もう答えを決めていた。
「俺は、真由さんが行くなら行く」
それだけだった。
真由さんは少し困ったように眉を下げる。
「それ、ずるいよ」
言葉とは裏腹に、その声は柔らかい。
瑛太さんに向ける眼差しにも、拒むような色はなかった。
二人の様子を見ていると、胸の奥に張りつめていたものが、少しずつ解けていく。
この二人なら、大丈夫だ。
知らない世界へ行っても、互いを見失うことはない。
思いどおりにならないことが起きても、二人で話し合いながら暮らしを築いてくれるだろう。
やがて真由さんが顔を上げ、私を真っすぐに見た。
「分かりました。ただし、条件があります。無理はしませんし、命に関わるような危険も、できるだけ避けます。食文化を広げることも、私たちの生活の延長として行います。それでもいいですか?」
私は迷わず頷いた。
「もちろんです。それが、私の望みでもあります」
二人に求めているのは、命を懸けた使命ではない。
クラウディスで新しい人生を送り、その暮らしの中で生まれたものを、少しずつ周囲へ伝えてもらうことだ。
私は胸の前で両手を重ね、二人に静かに微笑んだ。
「それでは――これからのことをお話ししましょう」
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